第5話 王国の危機

「ご準備が整いましたよ、ネモフィラ様」

 背後から聞こえてきた侍女の声に、瞳を見開く。

 目の前の大きな鏡の中には、一人の立派な淑女の姿が映っていた。

 ダークブロンドの髪は艶を放ちながら波打ち、蝶を模した髪飾りが後頭部に留められている。頬には薄い朱色が差してあり、白く滑らかな肌によく映えていた。まぶたには橙色が引いてあり、これは本当に自分なのかと驚きに瞠っている蒼い瞳をより女性的にみせている。

 顔に施されたしとやかな化粧もさることながら、深海を思わせる蒼いドレスと金のハイヒールも見事なものだった。どれも田舎町の娘として生きていた昨日までは、全く縁のなかった高級品だ。

(これが、本当に私なの?)

 コルセットでぎゅうぎゅうに締め付けられて悲鳴をあげた甲斐があったというものだ。

「ダリト様、ネモフィラ様のお支度が整いましてよ。もう入ってきて大丈夫です」

「失礼いたします。おお、素敵です! よくお似合いですよ、ネモフィラ様。どこからどう見ても立派な姫君です」

 にこりと笑みを浮かべるダリトを見て、ネモフィラはいよいよ迫ってきた国王との面会に気が引き締まった。

 衣装室を出て、ダリトに導かれるままに城内を進むこと数十分。

(もう既にどこを通ったか覚えていないよ)

 まるで迷路のようにも思える巨大な城の構造をダリトは完璧に記憶しているらしい。

 彼は数々の見張りの兵の目を顔パスで通り抜けると、ついに突き当たりになっている巨大な金色の扉の前で立ち止まった。

「ここが、王の執務室でございます」

 緊張が頂点に達して、胸がざわめいた。

 ダリトが、ネモフィラが心の準備を整える隙も与えてくれないまま、躊躇せずにその扉をノックしはじめたので驚いた。

「ライデン様。ネモフィラ様を連れてまいりましたよ」

「入れ」

 ダリトがその扉を押し開き、部屋の中が露わになる。

 白い壁面と床で構成されているその部屋には、一面に真紅のカーペットが敷かれていた。カーペットの上にも、アンティークの上にも塵一つ落ちていない。想像していたような豪華さはなく、どちらかといえば極めてシンプルな部屋だ。

 部屋の中央に設置されている広い机の前に、国王は泰然と腰掛けていた。

 威厳のある翡翠の瞳と視線がぶつかり、全身に緊張が走る。

 間違いなく、イルミネイト王国の現国王ライデン・イルミネイトその人だ。

(信じられない)

 今まで祭典でしか目にすることのなかった人物が、目と鼻の先にいるなんて。

「ネモフィラよ。よく、ここまで来てくれたな。突然のことで、さぞ驚いたことだろう」

 貫禄のある低い声に、背筋がぴんと伸びるようだった。

 国王の髪は白髪が入り交じっているものの、ネモフィラと同じダークブロンドの髪をしていた。

(私の髪の色にそっくりだ)

 ごくりと唾を飲み込んだ。

「君からすると聞きたいことは山程あると思うのだが、先にこちらの要件を話させていただこう。君が血縁上で私の娘にあたるという話は、既にダリトから聞いているね」

 恐々とうなずいた。

 国の頂点に立っているこの人が実の父親なのだという実感はまだないが、聞かされるのが三度目ともなれば流石に少しは耐性がついてきていた。

 ライデンはわずかな間を置いた後、翡翠の瞳をすっと細めた。

「端的に話そう。実をいうと、この国はいま瘴気に呑み込まれるかもしれない非常事態に陥っている」

 頭から冷や水を浴びせかけられたようだった。

 恐ろしさのあまり、ドレスの下の足腰が震えてくる。

「どういうことですか?」

「王国最南端のリゲイツに根付いている呪大樹が瘴気を発散させている。この瘴気を抑えるには、約五十年に一度、聖水で清める必要があるという話は君も聞いたことがあるね」

「はい」

「以前に私の兄のレオンが聖水で呪大樹を清めてから、今年で四十年が経つ」

 聖水で呪大樹を清めて瘴気からこの国を守ったレオンは、英雄として熱狂的に崇められていた。しかし、彼は五年前に病魔に蝕まれて亡くなった。

「ここ数年の間、瘴気による被害者は徐々に増えている。調査をして分かったことだが、聖水の効き目が既に薄れつつあるらしい。この事態を受けて、先日に甥のエルド・イルミネイトが王都を旅立った。しかし、彼の消息が不明になっている。詳しい状況は現在調査中だが……最悪死に至っている可能性もある」

 生きた心地がしなかった。

 もしも旅立った王族が聖水を手に帰還できなかったら――そんな不謹慎な想定は抱くことすらおこがましいと思っていたから、今まで考えたこともなかった。

 体内をめぐる血が急激に冷たくなっていく。眩暈までしてきた。

「聖水は、王家の血を継ぐ者にしか解けない封印のかかっている場所に湧く。しかし、不幸なことにも、兄と私は他人に比べると子をなしづらい体質だった。兄の子はエルド一人で、私の子は世間的には一人もいないことになっている。エルドは国民にとって唯一の希望だ。現段階で彼が消息不明になったことを公表しても、国民の不安を煽ることしかできない」

 段々と話が核心に近づいてくるにつれて、ネモフィラの心臓は狂おしいほどに高鳴った。

 ライデンは、顔を蒼褪めさせるネモフィラに気遣わしげに視線をやった。

「そうかといって、私がこの城を離れるというわけにもいかない。内情が明るみになってしまうし、何より私はもう旅立てるほど若くない」

 今までの話を繋ぎ合わせると、導き出される答えは一つしかない。

「つまり……私にエルド様の代わりの役目を頼みたいというわけでしょうか」

 恐々と尋ねると、彼は眉間にしわを深く寄せながら苦しそうに告げた。

「昨日まで何にも知らなかった君に、何もかもを背負わせてしまうのは大変心苦しく思う。しかし、もう他に手立てがない。ネモフィラ。君にしか頼めないんだ」

 選択の余地などなかった。

 自分が行かねば、この王国は瘴気に呑み込まれるかもしれないのだ。

 一度、深く息を吸って吐き出す。

 ネモフィラは、ライデンの瞳を見つめ返した。

「正直、私にそのような大役が務まるのかは分かりかねますが……やらせてください」

 決意したのは、拒否権がなかったという消極的な理由からではなかった。

(私は……もう後悔したくない)

 アンネが亡くなった時、何もできなかった無力な自分が厭わしかった。

 今の自分には、あの時とは違って、できることがある。

 王国の未来がこの肩にかかっているのだと思うと背負うものの大きさに押し潰されてしまいそうだ。しかし、今ここで逃げ出せば、激しい後悔に苛まれて今度こそがんじがらめとなるだろう。

(もう二度と、瘴気に大切な人を奪われたくない)

 そのためにできることがあるのならば、逃げるわけにはいかなかった。

 ライデンは沈痛な面持ちのまま、ネモフィラに向かって深々と頭を下げた。

「すまない、ネモフィラ。恩に着る」

 国王が頭を下げていた時、扉の方からノック音が響き渡った。

「失礼いたします、レイヴン・クルーエルです」

「ああ、ちょうどいいところに来たな。入りなさい」

 部屋に入ってきた黒い軍服姿の男の顔には、見覚えがあった。

 宵闇を切り取ったような漆黒の髪に、彫刻のように均整の取れた身体。

 美しい紫の瞳が、振り返ったネモフィラの姿を捉えて、わずかに見開かれた。

(この人、アンネの墓石の前ですれ違った人だ。お城で働いていたんだ)

 間違いない。一度目にしたら中々忘れられない、恐ろしく整った相貌だから。

「貴方は……」

「なんだ。お前達、知り合いだったのか」

 ネモフィラと男の交互に視線をやりながら意外そうな声をあげたライデンに、ネモフィラは慌てて答えた。

「いえ。先日たまたま王都を訪れていた際にすれ違っただけです」

「ふむ、奇異な偶然もあるものだな。実は、この男に君の旅の護衛を任せたいと思っているのだ」

(えっ、この人が?)

「わけあって護衛は彼一人だ。しかし、心許なく思わないでほしい。レイヴンの腕はたしかなものだ」

(しかも、こんな大事な旅なのに護衛が一人だけ!?)

 驚きに目を瞠って、再び、男の方へと振り向く。

 彼は口角をあげることすらせず、ネモフィラに向かって事務的に頭を下げた。

「……レイヴン・クルーエルと申します。以後、よろしくお願いいたします」

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