第20話 罪にしかなりえない

 レイヴンが初めて瘴人を殺したのは、ネモフィラ・オーデルと出会ったその翌日だった。

 あれほど拒んでいた宿命を受け入れたのは、彼女と出会ったからだった。

 今まで、生きることへの未練など感じたことがなかったのに。

 この残酷な世界にも、あんなに優しい少女が生きていることを知ってしまったから、愚かにも生きることへの執着が生まれてしまった。

 初めての殺人を犯したあの時、瘴人特有の紫の返り血を浴びた手を見つめながら最初に心に覚えたのは、たとえ生き続けたとしてもこれであの少女に合わせる顔は完全になくなったという喪失感だった。


 あれから十年が経ち、瘴人を殺すことへの躊躇いもなくなって、これが今の王国に必要不可欠な仕事なのだということも理解した。ライデンは歴史的な慣習からクルーエル家にのみ瘴人の問題を押し付けていることを心苦しく思っているようだが、誰かが引き受けねばならない業務だ。最も、レイヴン自身には使命感に突き動かされているという感覚はなく、ただそういう宿命を背負った家に生まれたということへ抗わなくなっただけなのだけれども。

 レイヴンが再び生きることへの執着を失くしていた時に舞い込んできたのが、ネモフィラの護衛騎士を務めてほしいという依頼だった。ライデンの話によると、騎士の中でも精鋭部隊を引き連れて旅に出たエルド王子が失踪したという経緯を聞き知った多くの者がこの話を断ったのだという。旅をしている間の瘴人処分については、レイヴンの父に話をつけているので心配しないでほしいと。

 国王から彼女の名前を聞いた時、物心ついた時から息を止めていた魂が久しぶりに震えるようだった。

 まさかとは思ったが、このような形で、あの少女と再会するという約束が叶えられるとは思いもしていなかった。

『承知いたしました。ネモフィラ様の護衛を引き受けましょう』

『ありがとう』

『但し、一つだけ条件があります。彼女には、クルーエル家の稼業を告げないでいただきたい』

『彼女は私の娘だ。君の気持ちも分かるが、この国の王女であるからには、君の家のことを知らないままでいるというわけにはいかないだろう』

『ええ。旅が終わるまでの間でかまいません』

 幸いにもライデンはその願いを聞き入れてくれた。

 そのお陰で、ネモフィラはまだレイヴンの素性を知らない。彼女は、レイヴンのことを真っ当な騎士だと信じて疑っていないだろう。

(でも、それで良い)

 ただでさえ過酷な使命を与えられたネモフィラに、これ以上、余計な不安や恐怖心を与えたくはなかった。

 彼女の親友は、瘴気に侵されて亡くなったのだと聞いた。第三区の墓地で彼女が子供のように泣いていたあの日のことはまぶたの裏に焼きついている。

 その親友を亡き者にしたのがレイヴンだと知ったら、ネモフィラはどんな顔をするだろうか。

 いつまでも隠し通せないことは分かっている。

 しかし、旅を終えてしまえば、もう彼女と深く関わり合うこともないだろう。

 だからせめて、それまでの間だけは普通の人間として彼女に接していたい。


 レイヴンが再びシュカの研究館に戻ってきた頃には夜中になっていた。

「お帰り、騎士様。遅かったね?」

 呼び鈴を鳴らしたら、シュカが相変わらずのニヤニヤ顔で出迎えてきた。

「その呼び方は、やめてください」

「王都に戻っていたんでしょ? 用事は済んだのかい」

「ええ」

 シュカに続いて、家の中に足を踏み入れる。最初に通されたのと同じ、本棚に囲まれている居間のソファに腰掛けた。数日前に、この場所で眠りこけてしまったネモフィラの姿は見当たらない。

 シュカはレイヴンの視線の動きを追った後、ああと心を読んだかのように頷いた。

「心配しなくても、君の愛しのお姫様なら客人用の寝室で眠っているよ」

(客人用の部屋まで備え付けてあるのか)

 呪大樹の研究者には、想像している以上に国からの援助資金が出るのかもしれない。

「君の帰りを待ちわびていたようだけど。起こしてくる?」

「その必要はありません。ネモフィラ様は慣れない旅で疲れていらっしゃる。わざわざ安眠を邪魔したくありません」

「まぁ、慣れていなくて当然だよね。あの子はつい最近まで、どこにでもいるような普通の女の子だったんだからさ。ところで僕、君が留守にしている間にあの子とデートをしてきたんだよね」

 シュカは、あえてデートという単語を強調した。

(この男は、一体何を企んでいるのだろう)

 声色に怒りが混じらぬよう、努めて冷静に答えた。

「……何故、その話を自分に?」

「君がいつまで自分には関係ないって顔をし続けられるのか興味が湧いたもので」

(優しいネモフィラ様が訴えることはありえないと踏んでいるのか、それとも、聖水の在処を握っている限り裏切られることはないと確信しているのか)

 どちらにせよ目障りだ。

「貴方がどういう心積もりなのかまでは尋ねませんが、一つだけ忠告いたします」

「うん?」

 どこまでも掴めない目の前の男を見つめながら、きっぱりと宣言する。

「生半可なお気持ちであのお方に近づいたら殺しますよ」

 シュカはニヤリと口角をあげた。

「それは、お姫様を守る騎士としての言葉かい? それとも」

 余計な詮索を始められる前に、ぴしゃりと先手を打つ。

「ええ。私的な感情はございません」

「本当に?」

「はい。ところで、ネモフィラ様がお休みになられている部屋というのはどちらでしょうか」

「二階だけれど。まさか、忍びこむつもり?」

「逆です。不届きな輩が彼女の部屋に忍びこまぬよう、今夜は部屋の前で見張りをしていようかと思いまして」

「ははっ! まさかの家主の僕を不審者扱い? 君、僕のことを警戒している割には、警備が手薄だよね。二日間も留守にするなんてさ」

「……やむをえない事情があったので」

 この男と二人きりで会話を続けるのは非常に疲れる。

 そう判断したレイヴンは颯爽と立ちあがることでその意を示した。先ほど通ってきた廊下から見えていた階段の方を目指す。

「ちょっと。本当に一晩中、見張りをしているつもり? 君もお疲れなんじゃないの」

 胡散臭い研究者がなにやらほざいているがスルーだ。

 今夜はネモフィラが眠っているという部屋の扉の前に座って眠ることに決めた。

 扉を隔てていれば、許可なしに無防備な彼女に近づくことも赦されるだろう。

 明日になれば、再びネモフィラと顔を合わせられる。たった数日間遠くにいただけで随分と長い間、彼女の傍を離れていたような気がした。自分がいない間に、この館の家主に心を開きすぎてはいないかと小言を言わねばなるまい。

 あくまでも、王女を守る護衛騎士の立場として。

 この感情は恋ではない。そうであったとしても、殺さねばならない。

 こんな血塗られた手で彼女を愛することは罪にしかなりえない。

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