第19話 生きる世界が違う

 クルーエル家は王都ルミナスの第二区に邸宅を構えているが、その当主はいつ瘴人処分を命じられてもすぐ応じられるように、基本的には王城にあてがわれた一室に寝泊まりしている。レイヴンの父も家にはたまの休暇に帰ってくる程度で滅多に顔を出さなかった。

 十歳だった当時のレイヴンは、ラスター城と自宅を行き来するだけの生活を送っていたので、家を出られたのは良いもののルミナスの地理もよく分かっていなかった。

(城とは反対方面に進んでみよう)

 空腹でよろけながら必死に足を動かすと、やがて人通りが多くなっていき、噴水を中心に広がっている市場に辿り着いた。商業区だ。

 しかし、そこに並ぶ店から漂う焼けた肉の香ばしい匂いは、レイヴンの虚無をより一層深めるだけだった。一枚の貨幣も持っていなかったので、何一つ買えなかったからだ。

 窃盗するか悩んだ挙句、なけなしの良心が打ち勝ったので、やめておいた。

(お腹が空いた……)

 酷い頭痛と眩暈がしてきたので、人の邪魔にならないように道の脇に寄って座りこんだ。

 多くの人が行き交っていたが、誰も具合が悪そうにしているレイヴンに声をかけなかった。

 王都は――いや、この世界は、どこまでも自分に優しくない場所だと感じた。

(生まれてきたこと自体が、きっと間違いだった)

 少年が目を閉じて、静かに死を受け入れようとしたその時だった。

『どうしたの?』

 意識が朦朧としていたせいもあって、一瞬、本気で天からの使者の声かと思った。

 ゆっくりと顔をあげたら、そこにいたのは天使ではなく幼い女の子だった。

 青い瞳の印象的な、ダークブロンドの髪をした少女。

 レイヴンは、彼女が両手に抱えていた紙袋から匂う甘い果物の香りを嗅ぎつけた瞬間、少女を鋭く睨みつけた。気を抜けば、問答無用でその手から紙袋を奪い取ってしまいそうだったから。

 彼女は、心配して声をかけた少年からいきなり睨みつけられて戸惑ったようだったが、レイヴンの顔を見るなりあっと声をあげた。

『あなた、顔が真っ青じゃない! 手足もこんなに細くって大丈夫なの? もしかして、全く食べていないんじゃない?』

 少女が迷いもせず抱えていた紙袋ごと差し出してきたので、かなりの衝撃を受けた。

 すぐにでも中に入っていた果実にかぶりつきたい気持ちだったが、あまりにも虫の良すぎる話だったので逆に警戒心が強まった。

(この少女は、一体何を企んでいるのだろう)

 この世界では、対価を差し出して、初めて報酬を得られる。

 この果物も、きっと無料ではない。

 受け取ったら最後、目の前の少女にとんでもない弱みを握られる。

 そう考えたレイヴンは、努めて冷静を装いながら紙袋を突き返した。

『……要りません』

 少女は大きな瞳を見開いた。

『どうして? もしかして、お腹が空いているわけではないの?』

 見当違いなことを言って首を傾げている少女に、苛立ちを募らせながら手短に答える。

『私は、この果物を受け取るために差し出せる対価を何も持っていません』

 彼女は呆気にとられたように瞬きをした後、『なんだ、そんなことを気にしていたの?』と笑った。それから半ば押し付けるようにして再び紙袋を渡そうとしてきたので、レイヴンは数年ぶりに声を荒げていた。

『差し出せるものは何もないと言ったでしょう!』

『じゃあ、あなたが今ここでその中身を食べてくれることが対価ってことで』

 うまく言葉の意味を呑みこめずに困惑していたら、少女はにこりと笑った。

 どきりと怯んでしまうほど可憐な笑みだった。

『あなた、空腹で死んじゃいそうな顔してる。余計なお世話かもしれないけど、心配するなって言う方が無理だよ。気になって仕方ないもん』

 今度は、レイヴンの方が呆然とする番だった。

『この果物は、おやつに食べようと思って私のお小遣いで買ってきたものだから、何も気にしないでいいの。ねえ、お願い。私のわがままを聞くと思って、食べてほしいな』

 泣きたいような気持ちになったのは、何年ぶりだっただろう。

 とっくに失くしてしまったはずの心が疼くようだった。

 震える手で、紙袋の中身を取り出す。

 果物の赤紫色の皮ごとかぶりつくと、甘酸っぱい味が舌いっぱいに広がった。かじった部分からは、黄金色の果肉が顔を出した。

 控えめに言って、死ぬほど旨かった。

 一流のシェフが高級な食材で作った料理よりも、ずっとずっと。

『……美味しいです』

 口下手と表情筋の乏しさのせいでうまく伝えられなかったけれど、少女は気にした様子もなく満面の笑みを咲かせた。

『本当に? 良かった! 私ね、プラムが大好きなの。でも、こんなことになるって分かっていたら、もっとお腹にたまるものを買っていれば良かった。ごめんね』

『いえ。……充分、すぎます』

 彼女があまりにも優しくするので、言葉が涙交じりになってしまいそうになるのを、必死で堪えていた。幸いにも気がつかれなかったようで、少女は無邪気に首を傾げていた。

『ねえ、あなたの名前は?』

『言えません』

(血塗られた家の名前など、この少女の耳にはいれたくない)

 クルーエル家の内情を知るのは、王国上層部のごく限られた者だけだ。名前を言ったところで、すぐに正体を嗅ぎ取られる確率は極めて低かった。

 だからこの感情は、見抜かれる恐怖ではなく、言うなれば願いだった。

 彼女には、あんな冷たく暗い地下牢のことなど関係のない世界で、穏やかに生きていてほしいと。

 少女は、レイヴンの望みなど知る由もなく、不満そうに口を尖らせている。

『どうして?』

(これ以上、彼女と関わるべきではない)

 脳が、警鐘を鳴らし始めていた。

 自分の一生は、王城の地下牢に繋がれている。

 子をなすことはあっても、生涯を通じて誰からも愛されず、誰のことも愛してはいけない運命。それはクルーエル家の当主になるにあたって、最も、不必要な感情だから。

 この優しい少女とは、生きる世界が違う。

『私のことよりも、あなたの名前は?』

 踏み込んではいけないと思っていながら、気になって尋ねずにはいられなかった。

 誰かに優しくされたのは、人生で初めてだったから。

『ネモフィラ。ネモフィラ・オーデルよ』

 ネモフィラ・オーデル。

 花のように可憐で、見返りを求めず他人に優しくできる彼女に、ふさわしい名前に思えた。

『今日はお父さんと一緒に王都まで遊びにきていたんだけど、普段はウィールに暮らしているの』

『そうですか。本当に、ありがとうございます。……このご恩は、一生忘れません』

 ネモフィラ、と名前を呼んでみたい気持ちもあったが、面と向かって呼ぶのは気恥ずかしくて叶わなかった。

 ネモフィラは目を丸くしながら『大袈裟だなぁ』と笑っていた。彼女にとって、困っている人に救いの手を差し伸べるのは当たり前のことだったのだろう。

『ねえ。どうしても名前を教えてくれないの?』

『はい、どうしてもです』

『むー。でも、いつかまた会えるよね?』

 しばし悩んだ後、何故だか、頷いていた。

『はい。いつか、どこかでまた会いましょう』

 あの時、絶対に叶わないと分かっていながら約束をしたのは、嘘を吐いてでも彼女の笑顔をもう一度この目に焼きつけたかったからなのだと思う。

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