第8話 呪大樹の研究者
「ネモフィラ様、到着いたしましたよ。起きてください」
「んー……ダメよ、ポピー。もうちょっと寝かせて」
「ポピー?」
その声は、可愛らしい弟のものではなく、明らかに成人した男性の声だ。
「ん?」
まぶたを開けば眼前に整った男の顔があって、ネモフィラは飛び上がりそうになった。
「ご、ごごごごごめんなさいっ! あのっ、ちょっと寝ぼけていて」
(私、馬車の中で寝落ちしちゃったんだ!)
ということは、レイヴンに寝顔を眺められていたということになる。昨夜は眠りについたのが遅かったとはいえ、まだよく知りもしない男の前で寝顔を晒すなど、とんでもない失態だ。顔が熱い。
(緊張感のない奴だって、呆れられてる……?)
一方のレイヴンは、羞恥でどんどん顔を赤く染めていく主のことを意に介していない様子だ。ネモフィラの顔を見つめたまま、真顔で首を横に傾げている。
「ポピーというのは、どちら様でしょうか?」
「えっ?」
「もしかして、ネモフィラ様の大事なお方ですか?」
(大事なお方……? それってもしかして、寝ぼけて恋人の名前でも呟いていたんじゃないかって勘違いされてる!?)
「な、なんか、勘違いしてない?」
「といいますと?」
「ポピーは弟よ」
「ふむ。すると、弟君は大事ではないということですか?」
「いや、大事! すっごく大事! たまに能天気すぎるけど、そこも含めてすっごく良い子なんだから!」
息の根があがってしまうぐらいに強く主張すると、レイヴンはしばし紫の瞳をぱちぱちと見開きした後に、ふっと口元を和らげた。
「さようですか。ネモフィラ様は、家族想いなのですね」
(えっ! 笑ってる!?)
思わず、まじまじと見入ってしまった。
彼が浮かべていたのが、陽だまりのようにやさしい笑みだったから。
不意打ちの笑顔に呆けたようになっていたら、次に瞬きした時には、幻だったかのように無表情に戻っていた。
「私の顔に何かついているでしょうか」
「い、いえ。なんにも」
「それなら良かったです。ちょうど目的地に到着したようですので参りましょう」
颯爽と馬車を降りていくレイヴンの背中を見つめながら、自分ばかりが空回っているような気がしてどこか歯がゆい思いになっていた。
彼の耳には届かぬよう、ひっそりと小さくため息を吐いた。
二人がルミナスを発ったのは早朝だった。
旅立ちの日にふさわしい晴天で、ラスター城の白亜の城壁が青空によく映えていた。
これから旅に出るのに、ドレスを身に纏っていくわけにはいかない。ネモフィラは侍女の用意してくれていた旅装束に、ウィールから履いてきた革の靴を身に着けてきた。レイヴンはといえば相変わらずの軍服姿だったので、気になって尋ねてみたところ何着も同じものを持っていて着回しているらしい。
見送りは、ライデンと側近のダリト、その他この旅の内情を知るごく限られた者のみに留まった。ネモフィラとしては、消えた王子の代役を務める者として国民の期待を背負いながら送り出されるのは流石に肩の荷が重かったので、このささやかな見送りをありがたく思った。
王都から馬車に揺られて、西へ街道を抜けること三時間程度。
馬車に乗りこむ前までは、二人きりで気まずい沈黙に陥ったらどうしたものかと気にしていたが、いつの間にか眠ってしまっていたので杞憂に終わった。
二人がやってきたのは、イルミネイト王国が誇る学術都市シェレンだ。
学術都市というだけあって、シェレンには専門学校や研究機関が集中している。王国の民で学問を志す者にとっては憧れの地だ。学寮や宿舎も多く存在しているので、王都ほどとまではいかなくとも活気がある。
二人がシェレンにやってきたのは他でもない。
シュカ・ネメシスという呪大樹の研究者を探すためだった。
それというのも、聖水の湧く場所はなんと変動的なのだという。例年、一定の場所に赴けば良いというものでもないところがこの旅の難儀なところだ。
国としても、優秀な学者を募ってこの場所を突き止めるために莫大な研究費を注いでいるのだが、成果はほとんどあがっておらず謎に包まれている。
やっとのことで、シェレンに暮らすシュカという人物が聖水の在処を突き止めたという情報を手に入れたらしい。
二人は、まずはその人物を探すようにと命じられていた。
ネモフィラは道行く大勢の人々を見つめながら、途方に暮れたような気持ちになった。
(まさか、目指す場所を知っている人を探すところから始めるなんて、思ってもみなかった。しかも、分かっているのが名前だけだなんてどういうこと?)
「シュカさんって、何者なんだろう」
「さあ。分かりかねますが、かなりの変わり者であることは察せられますね」
あなたがそれを言うの? とつっこむべきか悩んだが黙っておくことにした。
「少なくともその者は、国王直々の命令を無視できるだけの度量のある人物です」
「たしかにそうね」
「なんでも、国王の手紙を『聖水の在処が知りたいのであれば、旅立つ者を直接僕の下に寄こしてほしい。僕の居場所? そんなの自力で探しな』と突き返したそうですよ。手紙を介する場所まで指定してくる徹底ぶりだったと聞いています」
予想以上に尖った返答だったので、顔が引き攣りそうになった。
でも、一つだけ引っかかることがあった。
「エルド王子も、私たちと同じ条件を課されたということだよね? それなら、彼はシュカさんに会ったのではないのかな」
「恐らくは。シュカ殿に会えたら、そのことも尋ねてみましょう」
(話を聞いている限りでは、相当の変わり者みたいだけど……)
国王相手にそこまで毅然としていられる人間が、直接会いにいったところで果たしてそう簡単に教えてくれるのだろうか。
困難だらけの旅に、さらなる不安が積み重なった。
目的の人物が見つかるまでの間はシェレンに滞在することになりそうなので、二人は手始めに宿の手配をとってきた。
「さて。どこから探しましょうか」
宿屋の主人と話をつけてきたレイヴンが、ネモフィラの方へと振り返った瞬間だった。
――ぎゅるるるるる、とネモフィラの腹の音がけたたましく空腹を訴えたのは。
レイヴンに視線だけを腹のあたりに注がれて、燃え上がりそうなほど顔が熱くなった。
「ええと、そのぉ……なんか、珍しい虫の声がしたね?」
「ほお。今のは、虫の音でしたか」
「っ。真に受けてないで、つっこんでよ! 私がいたたまれないでしょ!?」
「腹が減っているのならば、素直にそうと言えばよろしいのに」
「……つくづく緊張感のない奴だって呆れている?」
いじけていたら、不意にレイヴンがグローヴを嵌めた手を頭の上へぽんと置いてきた。
(えっ?)
想定外の行動にびっくりして、小さく息を呑みこむ。
「安心なさってください、私が貴方に呆れることはありえませんよ。ちょうどお昼時ですし、まずは腹ごしらえをしてきましょう」
その手はすぐに離れていったけれど、ネモフィラの上がってしまった心拍数はしばらく収まりそうになかった。
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