第7話 「この命に代えてでも」
男の剣呑な声がドア越しに部屋に響き渡り、心臓が竦みあがった。
続けて勢いよく戸が開かれたので、屈んでいたネモフィラは真っ先に立ち上がり、目をつむりながら素早く両手をあげた。
「ご、ごめんなさいっ! 決して怪しい者ではございません!」
「ネモフィラ様?」
おそるおそるまぶたを開けば、戸の前に立っていたのはレイヴンだった。
入室してきた人物が城内でも数少ない顔見知りであったことにほっと胸を撫でおろす。
しかし、こんな状態にあっても彼が全く表情を顔に出さないので、次第に焦ってきた。
(もしかして、勝手に部屋を抜け出したことを怒ってる? それとも、呆れられているのかな。どうしよう、全く読めない)
しばし居心地の悪い沈黙が流れた後、彼はようやくその形の良い唇を開いた。
「何故、ここに?」
「ええと……急にミルクティーが飲みたくなって、ここにキッチンがあったことを覚えていたから」
「つまり、ご自身で紅茶を淹れようとなさっていたということですか」
「だって、こんな遅い時間にそんなことで誰かを起こすなんて悪いですし」
レイヴンは無表情を崩さぬまま、ネモフィラの方へつかつかと歩み寄ってきた。
(えっ。なに? やっぱり怒られるの?)
冷たい美貌をしているだけに迫力があり、びくびくしてしまう。
レイヴンはあっという間に距離を詰めてきて、ネモフィラの隣に並びたった。
何を言われるのかと肝を冷やしていたら、彼は屈みこんで、数ある食器棚の中から造作もなくティーポットと茶葉を取り出した。
「貴方はそちらに腰掛けていてください」
「えっ」
「王女の貴方に淹れさせるわけには参りませんので」
(王女と言っても、全く実感ないけれど……昨日までは庶民として生きてきたわけだし)
内心では腑に落ちなかったけれども、彼が有無を言わせぬ気迫だったので黙っておくことにした。
夜も更けた遅い時間だというのに、レイヴンは昼間と変わらず黒い軍服を身に纏っている。白いグローヴを嵌めたその手が繊細な道具を操る様子には気品があった。
(手先も器用なんだ)
優雅な仕草にぼうっと見入っていたら、紅茶を淹れ終わったらしい。
金の紋様で縁どられている白いティーカップとソーサーを目の前に差し出される。
ミルクティーの甘い香りが鼻をかすめた時、自然と顔がほころんだ。
「ありがとうございます。いただきますね」
口をつけると、まろやかな味が舌に染みわたる。
身体の芯から温められるような、やさしい味だ。
「美味しいです。紅茶を淹れるの、お上手なんですね」
「お気に召したのなら幸いです」
言葉とはうらはらに、全く嬉しいとは思っていなさそうな顔で淡々と告げられて、複雑な気持ちになる。
レイヴンは、ネモフィラが紅茶を嗜む様子にじっと視線を注いでいる。
座りもせず、天井から見えない糸で引っ張られているかのように背筋を伸ばして。
(視線、気になるな)
明日から仕えることになる主の顔を、しかと目に焼きつけようとしているのだろうか。
(それにしても、流石に見つめすぎじゃないかな……?)
会って間もない美形の男から、真顔でまじまじと見つめられている。まるで観察するかのように。ネモフィラはなんだか気恥ずかしくなってきて、上擦った声で尋ねた。
「あ、あの。座らないんですか?」
「はい。私は従者の身分ですので」
「そういう堅苦しいことは気にせず、どうか座ってください。正直、未だに王女だという実感も全くないですし……私としては普通にしてもらっている方が気楽なので」
苦笑いを浮かべると、レイヴンは瞳を瞬かせながら「それでは、失礼いたします」と丁寧に断りを入れてからネモフィラの目の前の席に腰を落ち着けた。
早々に話題が尽きてしまい、場に奇妙な沈黙が訪れる。
(それにしても、本当に綺麗な顔)
切れ長の瞳を縁取る長い睫毛に、薄い唇。
顔の輪郭を縁取る線はシャープで、余計な肉が一切ない。
こうして黙っているのを間近で見ると、本物のビスクドールのようだ。
美しく、あまりにも感情が窺えない。
(明日からこの人と二人旅なんだよね……? 大丈夫かな)
どう見ても大人しいタイプだ。しかも、何を考えているのか本当に分からない。
それに、いくら彼の腕が立つとはいえ、何故この緊急性の高い旅の護衛がたったの一人きりなのだろうか。
色々な意味で、不安が募ってくる。
ネモフィラが言葉を繋げずにいたら、意外なことに沈黙を破ったのは彼の方だった。
「眠れなかったのですか?」
(もしかして、心配されている?)
表情が変わらないのでなんともいえないが、その口調はネモフィラを気遣っていた。
「大丈夫です。慣れない豪華なベッドだったから、ちょっと寝つきが悪くなっているだけだと思います」
明日からの同行人に無駄な心配をかけるまいと、愛想笑いを浮かべてみる。
「大丈夫だというのは、本心ですか?」
しかし、彼には取り繕った笑顔が意味をなさなかった。
うろたえて言葉を失ったネモフィラを、アメジストの瞳が真正面から見据えている。
まるで、本心を見透かそうとするように。
「私には、敬語も気遣いも不要です」
口調そのものが力強いわけではないのに、その言葉からはたしかな気迫を感じた。
彼には、隠したところで見抜かれてしまうような気がした。
「実を言えば……ちょっと、ううん、かなり不安なのかもしれない」
だからこそ、気がつけば本音をこぼしていた。
「それは、当然のことでしょう。突然、国王の娘であると告げられ、わけも分らぬままに過酷な使命を背負わされたのですから。それに、こんな重要な旅にも関わらず護衛は私一人きり。心細くて、当たり前です」
たしかに、ネモフィラに降りかかってきた運命は相当に過酷なものだ。
先に同じ目的で旅に出たエルド王子は、最悪、死に至っている。
二人は、これからそういう危険な旅に出るのだ。
しかし、それは彼とて同じ状況ではないだろうか。
「あなたは、怖いと思っていないの?」
「怖い、とは思いませんね」
即答されてしまった。
底の見えない瞳からは、何の感情も察せられない。
「……ですが、貴方が不安になるお気持ちは察せられます。だから、私は貴方のことを全力で守り抜くと誓いましょう。この命に代えてでも」
生真面目に告げられた最後の言葉に、胸が氷を押し当てられたようにひやりとした。
「ありがとう。でも、この命に代えてでもだなんて言わないでほしい」
「ああ、申し訳ございません。しかし、本心なので」
「どういうこと?」
レイヴンは瞳を伏せると、何でもないことを言うような平然とした口調で言った。
「私の命は、失って惜しいようなものではないという意味です」
心臓がどきりと飛び跳ねた。
彼が冗談ではなく本気で言っているように聞こえたから。
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