第24話 その視界に映る前に
全身を凍りつかせるような恐怖に支配されて、寸分も動けなくなった。
その場に縫い留められたようになっていたら、他の数名を気絶させたレイヴンがネモフィラの下へと向かってきた。
紫の返り血が跳ね返ったレイヴンの顔には、人形のように何の感情も浮かんでいなかった。人を傷つけたことを本当になんとも思っていないようなその顔に、背筋を冷たい指で撫で上げられたような心地がした。
「レイ、ヴン……。この、人……」
唇が震えてしまって、死んでいると告げることは叶わなかった。
「……ずっと黙っていてごめんなさい、ネモフィラ様」
まるで懺悔するような掠れた声に、息を呑みこんだ。
「私は……人殺しなんです」
――それも、今日に始まったことではありません。十年前から、ずっとそうです。
彼の発する言葉の意味を、耳がうまく拾い上げられない。
ただ、レイヴンが人を殺して尚、落ち着き払った様子でいることが何よりもショックで悲しかった。
瞳から、涙が滑り出る。溢れ出て止まらない。
こんな悪い夢は、早く醒めてほしい。
嘘であってほしいのに。
どうしてこの夢は、醜悪な血の匂いがして、肉を切り裂く残酷な音がして、まだ温もりの残っている死人の体温を感じられるほどに、
「……ごめんなさい」
遠のいていく意識の中で最後に見えたのは、紫の瞳から滑り落ちた涙だった。
*
迷っている暇などなかった。
蒼い瞳を輝かせながら聖水に見入っているネモフィラに、不審な男が迫っていることに気がついた瞬間、レイヴンは全身の血が沸騰したように身体が熱くなった。心を殺したはずの自分がこんなにも憔悴して、動揺する瞬間を迎えるとは思ってもみなかった。
「ネモフィラ様!」
気がつけば、斬り伏せていた。
ネモフィラに危害を加えようとした人間に生きる価値などない。
そう思って、手加減もしなかった。剣は男の背中に深々と突き刺さっている。
(何故こんなところに瘴人がいるんだ。それに、この男は王国騎士団の人間ではないか)
始末した男の身に着けている紺色の軍服は、王国騎士団の制服だった。
倒れた男の他にも仲間がいたらしく、彼らは一様に瘴人化していた。
レイヴンを獲物に定めた目つきになっている。
よく見ると、彼ら全員の顔に見覚えがあった。
(エルド様の護衛隊だ。何故、彼らがこんなところで瘴人化している? まさか、呪大樹以外にも、瘴気を発散する源となる場所があるということなのか)
素早く思考を巡らせたが、どうしてこのような事態になっているのか想像すらつかない。とにかく目の前で異常な事態が起こっているということだけが、今把握できる全てだ。
(彼らを放っておけば、再びネモフィラ様に危害が及んでしまう)
ネモフィラの制止する声を振り切って、襲い掛かってきた彼らに剣を向けた。
全員気絶させて片がついた後、ネモフィラが今まで見たこともないほど顔を蒼白くして最初に斬り伏せた男に寄り添っていたことに気がついた。
彼女の自分を見る瞳は、明白に怯えていた。
そこには、人間を殺しておいて全く何も感じていない化け物の顔が映っていた。
もう、告白せざるをえなかった。
ネモフィラの大きな瞳から涙がこぼれ落ちた時、初めて、酷い罪を犯したような罪悪感に襲われた。
最初から、王女である彼女にはいつの日か分かってしまうことは覚悟していた。
それでも、初めて人生で幸せになってほしいと願った人を、こんな形で絶望させてしまうことだけはどうしても避けたかったのに。
「ネモフィラ様っ!」
気を失って倒れた彼女の下にすぐさま駆けつけたけれど、手が震えてしまって触れられなかった。
この罪深い手で彼女を穢してしまうことが、たまらなく恐ろしいことに思えた。
呆然としていたら、シュカが、先ほど気絶させた男達を聖水の下まで引きずっていくのが視界の端に見えた。その口に、手ですくった聖水を飲ませている。
「シュカ殿……? 何を、しているんですか?」
「治療処置だよ。最初にネモフィラに襲い掛かった男は死んでいるようだけど、他の彼らにはまだ息があるからね」
「しかし、彼らから噴き出た血は紫色をしていた。残念ながら、もう……」
「聖水には、瘴気の回った人体を浄化する力もある」
思いきり力強くぶん殴られたような衝撃が全身を駆け抜けた。
「ほら、傷口から漏れ出る血の色を見て。紫から、赤に変わり始めている」
信じられなかったが、シュカが聖水を飲ませた男から流れる血の色は、たしかに健全な人間を示す赤色に戻っていた。
その光景は、レイヴン・クルーエルという人間の存在意義を根底から否定するような絶望そのものだった。
(じゃあ自分は、助かる見込みのあった人間をずっと殺し続けてきたということなのか……?)
この手で、いくつもの潔白な命を摘み取った。
瘴気に侵されるという不運に見舞われた、気の毒な人々の。統計によれば、彼らのほとんどは王国内で最も地価の低いリゲイツ周辺に暮らす南部の民だった。
記憶と理性が崩壊し、化け物のようになってしまった彼らを放置し続けることはできなかった。誰かが処分しなければならなかったのだ。
正義感に駆られていたわけではない。ただ、それを引き受けたのがクルーエル家で、その家に生まれてしまったから、生きるために運命を受け入れた。
でも、もしかすると、その全てが間違っていたのかもしれない。
(今まで自分のしてきたことは、なんだったのだろう……?)
「君に襲い掛かった奴ら以外にも、岩陰に倒れていたのがもう一人いたよ。痩せこけて弱っているけど、これ、君らが必死に探していた王子じゃないか? ちょっと、レイヴン? 僕の話、聞こえてる?」
シュカの声も、どこか遠い世界の出来事のようでほとんど耳に入らなかった。
世界が色と音を失って、バラバラに崩れていく。
一気に、何もかもがどうでもよくなった。
ありとあらゆることに嫌悪感を覚えたが、中でも一番嫌になったのは、自分という人間が今もまだのうのうと息をしていることだ。
力の入らなくなった身体に鞭うつようにして、よろけながら立ち上がる。
「シュカ殿。……後のことは全て、貴方に任せてもよろしいでしょうか」
「随分と唐突なことを言うね、どういうつもり?」
「……申し訳、ございません」
一刻も早く、ここを立ち去らねばならないと感じた。
ネモフィラが目を醒まして、その視界に映る前に。
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