第23話 悪夢

 剣に手をかけながら、もう片方の手で扉を押し開こうとした彼をシュカの腕が遮った。

「ダメだよ。この扉は、王族以外の者が下手に触れると罰が下ると言われている。聖水が王家の血を引く者にしか解けない封印のかかった場所に湧くという話は、君らもよく知っているだろ?」

 イルミネイト王国の民であれば、誰もが聞いたことのある伝説。

 しかし、この伝説が真実だとするならば矛盾が生じてくる。

「……では何故、シュカ殿はこの先に聖水があると断言できるのですか?」

 ネモフィラの心中に渦巻いた問いを、レイヴンが言葉にした。

 シュカは緊迫した空気には似つかわしくないほど余裕たっぷりに笑った。

「僕は特別だから、分からないことはないのさ。それに、僕の予想では、君のお姫様の判断はきっと変わらないよ」

 ネモフィラに向けられたレイヴンの瞳は、珍しく戸惑ったように揺れていた。

 彼の気持ちは手に取るように分かる。

 シュカの発言には、信じるに足る要素がまるでない。

 それでも、ネモフィラにはシュカがここぞという時に、嘘を吐くタイプだとは思えなかった。

 数日前に虹透花を手渡した時、彼は明言していた。

『ちゃんと教えてくれるんですよね。聖水の湧く場所を』

『僕は、約束は守る主義だよ。……同類にはなりたくないからね』

 あの言葉には、掴みどころのないシュカにしては強い意志を感じられたから。

(彼は、裏切られる痛みを知っている人のような気がする)

 あの時に一瞬だけ透けて見えた彼の本性を信じてみたい。

「シュカさんを信じよう」

「しかし……」

「それに、たとえこの先に何が待ち受けていても大丈夫。レイヴンが負けることはないって、信じているから」

 レイヴンは瞳を瞬いた後、「承知いたしました、我が主」と微笑んだ。久し振りに彼の笑顔を目の当たりにした時、彼にはもっと笑っていてほしいと思った。

 手を伸ばし扉に触れようとした直前になり、先ほどシュカの言っていた『王族以外の者が触れると罰が下る』という言葉が頭をよぎって、急に弱気になった。

「どうかした?」

「本当に、触れて大丈夫ですよね?」

「うん。君が、真の王族であるのならば」

「真の王族……」

 正直に言えば、未だに王族の自覚なんてない。今までこの身に降りかかった出来事は全て嘘で、本当はやはりウィールに生まれた花屋の娘だったと言われた方が腑に落ちる。

 扉を押す決心がつかずにいた時、ネモフィラの心に発生した黒い霧を見透かしたようにレイヴンが言葉をくれた。

「大丈夫です。ネモフィラ様には、間違いなく国王の血が流れています。それに、自覚がないだけで、貴方の心意気は誰よりも王族にふさわしい」

 その言葉は魔法のように、恐れを振り払った。

 深呼吸をする。

 心を落ち着けながら木の扉を押し開くと、そこには開けた空間が広がっていた。

 大きな岩石がいくつか転がっており、最奥に金色の水が湧いている。

 ネモフィラは逸る気持ちを抑えきれずに水辺まで駆けつけた。

 その不思議な水は、地面まで見通せるほど透き通っていた。

 現実であることを忘れさせるような、幻想的な眺めだ。

「これが……聖水、ですか?」

「そう。聖水の名にふさわしい美しさだよね」

 あらゆる感情が押し寄せてきて、身体が震えてきた。

 胸が熱くなって、喉元に熱いものがこみあげてくる。

 これで、この国を瘴気から守ることができる。

 実際にはこの水をリゲイツまで持ち運び、呪大樹を清めてみないことには真の聖水なのかを検証できないが、この輝きは本物のように思えた。

(でも、洞窟に入ってからは大した困難もなかったし、想定していたよりもあっさりと辿り着いちゃったな。結局エルド様がここにやってきた痕跡も見つけられなかったし……)

 興奮が鳴りを潜め、拍子抜けしたような気持ちも生じてきたその時だった。

「ネモフィラ様!」

 いつになく鋭い声で名前を呼ばれて、心臓が飛び跳ねる。

 振り返った瞬間、ネモフィラは言葉を失った。

「あアアああアああアアア!!」

 岩陰から飛び出してきた見ず知らずの男が、耳をつんざくような奇声をあげながら、剣を振り上げてネモフィラに襲い掛かってきていたのだ。

 全身に鳥肌が立った。

 動けずにいたらあっという間に距離を詰められて、地面に押し倒されてしまった。

「いやっ! やめてください!」

 紺色の軍服を身に纏ったその男には、言葉が通じていない。

 血走ったように瞳を見開いている彼は、獲物を捕らえた肉食獣のように獰猛な笑みを浮かべて、両手に携えた剣をネモフィラに振り落とそうとした。

 瞳をつむり、死を覚悟した次の瞬間。

 男の背中に、レイヴンのサーベルが勢いよく刺さっていた。

 その傷口から噴き出し続ける大量の血は、紫色をしている。

 生気を失った男がネモフィラに向かって覆いかぶさる形で倒れてくる前に、レイヴンは男を担ぐとネモフィラから退けるように地面に転がした。

(……なに、これ?)

 足元から這いずり上ってくる震えが止まらない。

 何が起きているのか、全く理解が追いつかなかった。

「レイヴン! 後ろ!」

 シュカの声に、レイヴンは即座に振り返った。

 岩陰に身を潜めていたのは一人ではなかったらしい。ざっと見て五人はいる。みな視線が定まっておらず、どう見ても様子がおかしい。全員、ネモフィラに襲い掛かってきた男と同じように、紺色の軍服を身に着けている。

 そして、彼らの標的は仲間を斬りつけたレイヴンに集中していた。

「「ああアアああアアアア!」」

 彼らは、意味不明な奇声を発しながら、片膝をついているレイヴンに向かって一斉に突進してきた。瞬時に立ち上がったレイヴンは、何の躊躇いもなく彼らに向かってサーベルを向けた。

「待ってっ! やめて、レイヴン!」

 レイヴンが、これ以上、誰かを傷つける姿を見たくない。

「止めないで、ネモフィラ。彼の行為は正当防衛だ」

「でも、でもっ」

 ――それ以上剣を振るったら、レイヴンが、人を殺めてしまう。

 鬼気迫るこの状況で、敵の心配までしていられないことも理解できる。それでも、レイヴンの剣が誰かの肉を切り裂いて、見たこともないような紫の血が流れるたびに心が悲鳴を上げた。

 まるで悪い夢でも見ているようだ。地獄そのもののような悪夢を。

(さっきの人、大丈夫だったかな)

 ネモフィラはどうにか力を振り絞って、レイヴンに背中から刺されて倒れこんだ男の傍に寄り添った。ぱっくりと開いた傷から痛々しいほどに出血している。毒々しい紫の色。

(どうして、血がこんな色をしているの……? それよりも、この人)

 急いで、胸に耳を当てた。

 鼓動の音が、聞こえない。

 既に、息を引き取っていた。

 否。

(レイヴンが、殺した……?)



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