知られざる王女と優しき地下牢の処刑人

久里

血塗られた序章

 サーベルで女の心臓を刺し抜いた瞬間、また人間から遠ざかった気がした。

 激痛で見開かれた褐色の瞳には、顔色一つ変えていない冷酷な男の顔が映っている。

(断末魔の叫びを聞くのは、これで何度目だろうか)

 男は、思考をしかけてすぐにやめた。

 とっくの昔に数えきれなくなっていたからだ。

 イルミネイト王国の領地最北端に聳え立つラスター王城。

 その地下牢にて、また国民のあずかり知らぬ殺処分がなされた瞬間だった。

 男は、毒々しい紫色をした返り血を浴びながら、硬い石の床に崩れ落ちた女を何の感慨もなく眺めた。

 紫の血は、体内に大量の瘴気を取り込んでいた証だ。

 この地下牢で葬られる者達は、みな同じ血の色をしている。

 ひとたび瘴気に侵されると、人間は記憶と理性を失う。

 今は物言わぬ死体となって床に転がっている彼女もまた、つい先ほどまで奇声を発しながら男を襲おうとしていた。健康な人間の肉を求めて。

 王国の上層部では、彼らのことを瘴人しょうじんと呼んでいる。

 重要国家機密だ。

 男は、自身の纏っている軍服と床に跳ね返った血の臭いに吐き気を催した。この仕事を担い始めてもう十年が経つが、この強烈な臭気にはどうしても慣れることができないでいる。

 男は、血に濡れた剣を鞘に戻し、死体から目を背けた。

 来る時に手に提げてきたカンテラの灯りを持ち直し、早々に踵を返す。後の処理は管轄外なので、他の者に任せれば良い。

 軍靴で床を踏むたびに、硬質な音が石の牢に冷たく響き渡る。

 上階へと急ぐその顔に、感情らしきものは一切浮かんでいない。

(一刻も早く、熱い湯を浴びたい)

 それだけが、男の唯一の願いだった。

 水滴と一緒に、何もかもを洗い流してしまいたい。

 そんなことは永久に叶わないと分かってはいるけれども。


 地下牢へと繋がっている重い鉄の扉を後ろ手に閉め、深呼吸をした。

 窓から差している月明かりが、長い廊下に敷かれた真紅の絨毯を照らしている。

 あの場所に立ち込めている淀んだ空気から抜け出せるこの時、男は初めて自分が息をしていたことを思い出す。

 息を潜めながら、城内にあてがわれている自室へと急いだ。この時ばかりは、できる限り誰の目にも映りたくなかった。地下牢を出る際に目立つ血の跡は拭うものの、臭いまでは誤魔化せないからだ。

 男は無事に誰にもすれ違うことなく自室へ帰り着くと、手早く寝る支度を済ませた。そのまま、思考することから逃れるように寝台へと横たわった。


 目をつむると、耳の奥から世紀末を想起させる絶叫が這いずりのぼってくる。

『あアアああアああアアア』

 気がついた時には、おびただしい数の瘴人に周囲を囲まれていた。男は慌てて寝台から身を起こそうとしたが、それより先に眼前まで迫っていた女に首を鷲掴みにされてしまう。息苦しさのあまり、意識が朦朧としてくる。

 霞んできた視界の中で、男は自分の上に馬乗りになって首を締め付けてくる女の顔をハッキリと捉えた。

 記憶に真新しい、褐色の瞳だ。

(先ほど殺したはずの女が、何故この部屋に)

 よく目を凝らすと、顔に見覚えがあるのは彼女だけではなかった。

 視界の端で、自分に向かってわらわらと手を伸ばしてくる他の大勢の者達。

 彼らに共通することといえば、ただ一つ。

(全員、自分が殺した瘴人だ)

 わけの分からない危機的な状況であるにも関わらず、男の胸に広がっていったのは絶望ではなく諦観だった。

(でも、彼らに殺されることこそが、この穢れきった生の正しい最期なのかもしれない)

 何故なら、瘴人は、元を正せば清い人間だったから。

 血が紫に変色し、記憶と理性を失って人を襲うようになったとしても、そもそもの彼らが何の罪もない人間であったことに変わりはない。

 彼らはただ、瘴気に侵されるという不運に見舞われただけだ。

「レイヴン殿」

(何を感傷的になっている。生きる為に、クルーエル家の宿命を受け入れたのは他でもない自分だ。最期だけ真っ当な人間の思考を真似るなんて卑しい)

「レイヴン・クルーエル殿!」

 聞き馴染みのある声にハッと意識を覚醒させたら、先ほどまで周囲を取り囲んでいた瘴人達はすっかり消え失せていた。

 代わりに、国王の側近であるダリト・モーレンスが寝台の横に立っている。

「酷い寝汗ですね。なにか悪い夢でも見ていたのですか?」

(夢……?)

 まだ鈍い頭で、部屋の中をゆっくりと見渡す。

 寝台脇の窓に備え付けてある紫のカーテン。その隙間からこぼれ落ちる透明な朝日。質素な調度品を必要最低限分だけ配置した殺風景な自室だ。何者かが侵入してきた痕跡や、荒らされている形跡は全くない。

 ダリトの声で叩き起こされたことを除けば、普段どおりの朝。

(なんだ、あれは夢だったのか)

 そうと分かった瞬間、男の胸にこみあげてきたのは、安堵と虚無の入り混じった複雑な感情だった。

 寝台から身を起こし、人の部屋の中へ許可もなく入りこんできた侵入者を非難する。

「……勝手に人の部屋の中まで入ってこないでください」

「ライデン様が貴方のことをお呼びです。何度ドアをノックしても返答がなかったので、ためしにドアを押してみたら開いた次第でございます。鍵もかけずに眠りにつかれるとはよほどお疲れだったのでしょうね」

「国王様が、私に何の用でしょうか。例の任務なら昨夜のうちに遂行したはずですが」

「それにつきましては、大変お疲れ様でございました。しかし、今回は別件です」

「はあ。また気の滅入るような話ですか?」

「いえ、今回は特別任務だと伺っております。なんでも、国の命運を握る旅の護衛だとか」

「……国の命運を握る旅?」

「自分も詳しいことは伺っておりませんので、詳細は国王様からお聞きください。それではまた後ほど」

 ダリトは慇懃に頭を下げて、部屋を出て行った。

 いつもとなんら代り映えのしない朝だと思ったが、見当違いをしていたらしい。

 何かが変わるかもしれないと感じた。といっても、今更この地獄を抜け出そうなどとは思っていない。そんな大層な願いは、抱くことすら自己嫌悪で吐きそうになる。

 男は身繕いを整えた後、分不相応な期待を抱かぬよう心を殺しながら、国王の下へと向かった。

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