第30話 本心

 レイヴンが言葉を詰まらせて抵抗をやめたのを皮切りに、ネモフィラはさらに彼のことを強く抱きしめた。

「まだ旅の途中だったのに、どうして姿を消したの? 私のことを命に代えても守るなんて言っていたくせに、あなたは嘘吐きよ」

「言ったでしょう? 私は、貴方を騙していたんですよ。本当の私は、生きるために罪のない人々の命を奪い続けてきた人殺しだ」

「知ってるっ。あなたの家の事情のことも、少しだけど聞いた。私は、あなたの苦悩を何も知らずに隣にいた自分のことが腹立たしかった。ごめん……。でも、あなたは、何もかもを背負いすぎよ」

 涙を流して、でも、瞳に力をこめながら呆けている彼に激情をぶつける。

「レイヴンは、私のことを強がっているとか、頑張り過ぎだとか言っていたけれど、それは私の台詞! どうして打ち明けてくれなかったの? そんなに私は頼りなかった?」

「それは違います。私にとって貴方は……唯一の、生きる意味だった!」

 その口から飛び出た荒々しい言葉には、彼の燃えさかっている心が透けて見えた。

 レイヴンはネモフィラの腕をほどくと、その顔をじっと覗きこんだ。

 紫水晶の瞳には、今まで見たこともないような強い光が宿っている。

 驚いたけれど、同時に、心震えるような嬉しさを覚えていた。

 レイヴンが、こんなにも人間らしく、感情を思いのままに曝け出していることが。

「ねえ、待って。生きる意味だったって……どういうこと?」

「貴方にとっては、ほんの些細な出来事だったんだと思います。十年前、父に初めての瘴人殺しを命じられた私は、途方に暮れていました。瘴人とは、瘴気に侵された人間の成れの果て――つまり、ただ不運であっただけの罪のない人々です。本来、殺して良い道理はありません」

 瘴人殺しをして生き永らえるか、このまま飢えて死ぬか。

 最初は後者を選ぼうとしたが、それすらも赦されなかったのだと彼は自嘲気味に語った。

「ある日、命からがら家を逃げ出すことに成功しました。でも、その途中で空腹から力尽きてしまったんです。商業区の噴水広場の片隅で倒れる私を誰もが素通りしていった」

 幼い頃のぼやけて霞みがかっていた記憶が、彼の語る言葉によって、徐々に輪郭を持っていく。

(そういえば、昔にお父さんに連れられて、王都に遊びに行ったことがあった。お父さんとトトさんが話しこんでいる間、つまらなそうにしていたらお小遣いをもらえたんだ。これで何でも買ってきて良いよって)

 それはネモフィラにとって初めてのルミナス観光だった。

 王都の商業区は、地元ウィールと違って沢山の店が溢れていた。

 幼いネモフィラは、迷った末に果物屋の店頭に並んでいたプラムを手に取ったのだ。

 そして、噴水広場に立ち寄った時、その片隅で少年が倒れているのを見つけた。

「レイヴン、だったんだ……」

 捨てられた猫のように警戒心を剥き出しにしていたあの日の少年と、目の前の青年がぴたりと重なって、胸がいっぱいになった。今より随分と痩せ細っていたけれど、たしかに彼はあの時から綺麗な顔立ちをしていた。

「初対面なんかじゃ、ないじゃない」

 せりあがってくる涙と嗚咽で、声が掠れてしまう。

「……当時は名乗りもせずに、申し訳ございませんでした。私は、貴方と出逢う直前まで死を決意していたんです。こんな醜い世界で生きることは地獄そのもので、死んだ方がずっとマシだと思っていたから。でも、私はあの日、貴方に出逢ってしまった。貴方の途方もない優しさに触れてしまったから、愚かにも、もう少し生きてみても良いかもしれないと思ったんです。たったそれだけの理由で瘴人殺しを受け入れただなんて、狂っていますよね」

 涙が溢れてとまらない。

 あの日の出来事が、目の前の青年の運命を変えていたのだ。

「貴方と出逢った翌日に、私は初めての瘴人殺しを犯しました。最初はあれほど躊躇っていたのに、それは徐々に私の日課となっていった。でも、それと同時に、これで貴方と合わせる顔は完全になくなったと考えていました。本当のことを白状すると、以前にここでネモフィラ様から声をかけられた時にも、すぐに貴方だと気がつきました。でも、瘴気によって親友を失ったと嘆く貴方を見ていて、関わってはいけないと自分を戒めました。まさか、このような形ですぐに再会することになるとは思いもしていませんでしたが」

「……もしかして、まだ何か隠し事をしていない?」

「いえ。全てを白状しましたよ」

「じゃあ、ここで何をしようとしていたの?」

 レイヴンは、ネモフィラの蒼い瞳から視線を逸らすようにうつむいた。

「顔を蒼白にしてここに立っていたのはどうして? まさか……変なことを考えていたんじゃないよね?」

 視線を外させないように、グローヴを嵌めている手を取った。

 手触りの良い布越しにも、震えている。

「……ごめんなさい。このろくでもない人生に、自分で終止符を打つためです。最期を迎えるのなら、ここが良いと思いました」

「馬鹿なことを言わないで!」

「冗談ではありません! 逆に、長く生き過ぎたのだと思います。それに、私はもう、本当の意味で空っぽになってしまいました。生きる資格も、存在意義も残っていません。聖水には、瘴気の回った人体を癒す効果もあるのだとシュカ殿から聞きました。それは、私が今まで、未来があったのかもしれない人々の命を摘み取り続けてきたということに他ならない」

「レイヴン。それは違うよ」

「いいえ。全て真実です」

「ううん。全然、違うよ。あなたは、ただ闘い続けていただけ。本当は国のみんなで考えなきゃいけないことだったのに、レイヴンはたった一人きりで闘い続けてきたの」

「……綺麗事を、言わないでください。私は、貴方の親友のことも、この手で突き刺したんですよ」

「ねえ、レイヴン。私の目を見て」

 ずっと伏せがちになっていたアメジストの瞳が、恐々と、ネモフィラの瞳を見つめ返した。瞳の淵に、涙が溜まっている。

「今まで、あなた一人に全てを背負わせてしまってごめんなさい。それにね、アンネを、ここで眠っている人々を本当に殺したのは、あなたじゃない。だって……エルド王子も、レオン様も、聖水のもう一つの効用について知っていたんだもの。彼らは助けられることを知っていたのに、王族の地位を確固たるものとするために黙秘していたの」

「そんな……」

 レイヴンにとっては特に、その身を切り裂くように辛い真実だろう。

 それでも、王族の身勝手から彼一人が苦悩に押し潰されるなんていうことは、絶対に間違っている。

「だから、すぐには難しいのかもしれないけど、どうか今までの自分を赦してあげて。それから、ここに建っている墓石の下に眠っている人々の分まで生き抜いて。生きる意味がなくなったというのなら、私があなたの生きる意味になってみせるから。私ね、あなたを愛しているの」

「でも……私は、貴方から愛されて良いような人間ではありません」

「してはいけないとか、資格がないとか、そういうことを聞きたいんじゃない。それを言うのなら、あなたはとっくに赦されている。私は、あなたの本心が聞きたいの」

 レイヴンは、唇を噛み締めて、肩を震わせている、

 この酷く不器用な優しき地下牢の処刑人の心に届くよう、祈った。

「あなたがそれでも自分のことを赦せないというのなら、これからは私も一緒に背負うから。どうか、幸せになることを恐れないで。レイヴン。あなたも私を愛しているのなら、どうか、愛することを躊躇わないで」

 想いの丈をぶつけきった瞬間、抱きすくめられていた。

 今まで触れあったどの時よりも強い力で求められた時、人は、愛おしくて仕方のない時にも泣きたくなるのだと知った。

「私もです。貴方のことを心から愛しています、ネモフィラ様」

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