最終話 もう躊躇わない

「姉ちゃん、ただいまー!」

「お姉ちゃん、ただいまぁ」

「二人ともお帰りなさい。今日はちょっと遅かったのね」

 ネモフィラは、読みかけの小説を閉じ、ぱたぱたと駆け寄ってきたポピーとプリムラの方を見やった。

 ポピーは背が伸びて、だいぶ男の子らしい精悍な顔つきになっている。プリムラはまだあどけなさが残るものの、既に将来は美人に育ちそうな面差しをしていた。

 ふと、時の流れを感じた。

 ネモフィラのあの大冒険から、もう三年もの時が経ったのだ。

「うん! 帰りがけに教会に寄って、神さまにお祈りしてきたんだよ」

 プリムラが無邪気な笑顔でそう告げた時、胸があたたかい気持ちで満たされた。

 ネモフィラは、三年前にシュカに向かって宣言した通り、イルミネイト王国の歴史教育を抜本から見直すことに成功した。

 まずは、ライデンに掛け合って、国中の歴史学者の協力を仰ぐところから始めた。真実を記したほとんどの書物が二百年前に失われていたので、それは途方もない作業だったが決して諦めなかった。

『古い資料は全て焼却されていると聞きました。非常に困難な道であることは分かっています。でも、検閲を潜り抜けた個人の手記や書物は必ずどこかに残っていると思います。真実は一つですから』

 それが、冒涜してしまった神に――シュカに示せる、せめてもの誠意だったから。

 失われた歴史を取り戻すには、長い時間がかかった。

 今でもその全てが明るみになったとは言えないが、努力の甲斐はあって、この王国は歴史の真実に辿り着きつつある。

 神はかつてこの国の祖先を救った。

 その恩恵を忘れた最初の国王が神を蔑ろにした罰として、この国に呪大樹が根付いたのだと。

 これからは、王族を英雄視し、神を悪魔と怖れる価値観は古いものとなるだろう。

「姉ちゃん。神さまは僕たちのご先祖を救ってくださったのに、二百年間も謂れのない悪態をつかれ続けていたんだよね。一体、どんなお気持ちだったんだろう」

「……そうだね。どんなお気持ちだったんだろう」

 二百年も続いた孤独を、軽々しく分かるなんて言ってはいけないと思った。

(シュカさんは、今どこで何をしているんだろう)

 シュカ・ネメシスは、三年前に彼の館で向かい合って話した日以来、ぱったりとネモフィラの前から姿を消した。

「でも、神さまはきっと、もうこの国のことを恨んではいないと思うよ」

「そっか。そうだよね」

 歪められていた歴史が見直され、二百年ぶりに協会が再建され始めた時点で、リゲイツに聳えていた呪大樹はすっかり枯れてなくなっていた。

 イルミネイト王国が瘴気に脅かされていたことも、今では過去の話だ。

(シュカさん、元気かな)

 会えなくなってしまったけれど、彼のことだから、きっとこの世界のどこかでまた誰かと飲み歩いていることだろう。想像してみて、頬がゆるんだ。

「ところで、姉ちゃん。今日もレイヴンさんとデートなの?」

「えっ。な、なんで分かったの?」

「分かるよー。姉ちゃん、なんかそわそわしてるもん。にしても、レイヴンさんって本当に格好良いよなぁ。姉ちゃんには勿体ないぐらいだよ」

「レイヴンさんとは、私たちを置き去りにして家出している間に、知り合ったんでしょ? ねえ、お姉ちゃんはあんなに長い間、どこに行っていたの?」

「っ~~! うるさいうるさいっ! 後、ポピーに関してはゆるさないから! ポピーの明日の夕食は抜きよ」

「ええっ!? 姉ちゃん、それはひどいよ! 鬼!」

 好奇心旺盛でいつまでも喰らいついてきそうな二人との会話を無理やり打ち切ると、玄関から呼び鈴の音が響いてきた。ネモフィラは逃げるように来訪者の下へ向かった。

「ネモフィラ様。お迎えに上がりましたよ」

 今日のレイヴンは、白いシャツに黒いネクタイ、細身のパンツをスマートに着こなしていた。軍服姿の時よりもラフな格好をしている分だけ、細身なのに筋肉質な身体つきが際立っている。

(ムカつく。ムカつくぐらい格好良い)

 ポピーが変なことを言うから、妙に気になってしまうではないか。

 ジト目で見上げていたら、首を傾げられてしまった。

「どうかされましたか? もしかして、格好が変でしょうか」

「い、いや。とても似合っていると思う。素敵よ」

「ありがとうございます。ネモフィラ様は、今日も可憐でお美しいですね」

「ちょ、ちょっと待って? ポピーとプリムラが見てるから!」

 慌てて彼の背中を押しながら外に出る。

 今日のウィールには、雲一つない青空が広がっていた。

 二人はどちらからともなく手を絡めあって、こののどかな町を散歩し始めた。

 グローヴ越しではなく、ちゃんと直に触れあって。

「お仕事の方はどう?」

「ええ、順調ですよ。全部、貴方のお陰です」

 レイヴンは、三年前に地下牢の処刑人から足を洗い、今では王国騎士団の団長を務めている。歴史が初代イルミネイト国王の悪事も明らかにしたため、クルーエル家に向けられていた偏見も取り払われた。

「ううん。全部、あるべき姿に戻っただけよ。私はほんの少しその手助けをしただけ」

「……貴方は、本当にこれで良かったんですよね?」

「何が?」

「私は、今でも、この国の次の国王にふさわしいのは貴方だと思っています。でも、貴方は全てをエルド王子に譲った。国民は、ネモフィラ様の頑張りがあったからこそ、今の平穏な国があるということを知らないままです」

 繋がれている手を握る力が自信なさげに弱まったので、ネモフィラはその手を強く握り返した。

「レイヴン、前にも言ったでしょ? 私はそんな器ではないわ。それに、私に王城での暮らしは似合わない。この田舎町での暮らしがあっているのよ」

 それに、これは彼には話していないことだが、ネモフィラは三年前に二者択一を迫られた時、この国の王女としては失格の行動をとった。

 王国の平和と隣を歩くレイヴンを天秤にかけて、彼の方を選んだのだから。

 後から聞いた話だが、エルドはルミナスミに戻った後、ライデンに自らネモフィラに救出してもらったのだと語ったらしい。聖水も、ネモフィラから譲ってもらったのだと自白したそうだ。彼なりに、あの時のネモフィラの叱咤に心を打たれたのかもしれない。

「エルド王子は、きっと立派な国王になってこの国を善い方向に導いてくださるはずよ。まぁ、もしも悪いことを考えていたら乗りこみにいくけれど」

「なるほど。貴方らしいですね」

「うん。ところで、レイヴン」

「はい?」

「レイヴンはいつまで私に敬語を使うつもりなの? もう、お姫様と従者だった時から三年も経ったのに」

 いじけて視線を落としたら、歩いていたレイヴンが急に足を止めたので、つられて立ち止まった。

「どうしたの?」

 それは一瞬の出来事だった。

 首を傾げていたら、ほんの触れ合うだけの羽のような軽いキスが舞い降りてきた。

「ネモフィラ、愛しているよ。私をあの地下牢から連れ出してくれてありがとう。これから先も、どうか私と共に生きてほしい」

 極めつけに耳元で囁かれたのが、予想以上の破壊力を誇っていた。

(これ以上はもう、心臓が保ちそうにない!)

 頭から湯気をあげて、近づいてきた彼から距離を取った。心臓が激しく暴れている。

「レ、レイヴン! ここ、道端だからっ! だ、大体、旅の間も思っていたことだけど、あなたって時々びっくりするぐらい直球っていうか、その」

 顔を真っ赤にしながらぱたぱたと手を振るネモフィラを見つめて、レイヴンは心から幸せそうに微笑んだ。

「でも、貴方が愛することを躊躇うなと言ったんですよ? だから私は、もう躊躇わないんです」


【完】

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知られざる王女と優しき地下牢の処刑人 久里 @mikanmomo1123

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