第3話 予期せぬ来訪者
窓の外から、鳥のさえずり声が聞こえてくる。
日に温められていない空気はしんと冷えていた。
壁に掛けられた時計を見やる。まだ早朝の六時だ。
(今日も休日だから、少しぐらい寝坊をしても許されるよね)
ネモフィラはそう思いなおして再び瞳をつむりかけたが、掛けていた毛布を勢いよくはぎ取られたせいで安眠を阻止されてしまった。
「姉ちゃん、起きて!」
「んー……ダメよ、ポピー。今日も休日なの、もう少し寝かせて」
「遊んでほしいわけじゃないの! 姉ちゃんに、お客さんが来てるんだよ!」
(お客さん? お母さんもお父さんも、何も言っていなかったけれど)
のっそり起き上がると、ポピーとプリムラの大きな蒼い瞳が寝ぼけた自分の顔を覗きこんでいた。
興奮気味に頬を紅潮させている弟に対して、妹の双眸は不安そうに揺れている。
「あの人、ラスター城からやってきたんだって言っていたよ! 姉ちゃんに用があるんだって! 僕、姉ちゃんにお城の知り合いがいたなんてびっくりだよ」
「でも、知らない人が訪ねてきてもドアを開けちゃダメだってママが言っていたよね」
「そうはいっても、姉ちゃんが顔を出すまで帰る気は一切ないって」
(二人の単なる悪戯? でも、演技をしているようには見えないか)
その時、ネモフィラが考えを巡らせる隙を砕くように、居間を超えて三人のいる寝室の方まで呼び鈴の音が響いてきた。続けて、ものものしいノック音がする。
弟と妹の会話が、一気に真実味を帯びてきた。
得体のしれない者が、家の前まで差し迫っているという恐怖に身震いした。
不運なことに、こういう非常事態に限って、両親ともに開店の支度で家を出てしまっている。
「一度出てみようよ! 僕、きっと悪い人じゃないと思うんだ」
「どうしよう、お姉ちゃん」
能天気なポピーに、不安がっているプリムラ。のんきそうな弟の方はさておき、この状況でネモフィラまで怖がっていたら妹を余計に不安にさせてしまいそうだ。
こうしてネモフィラが動けずにいる間にも、ノック音は次第に大きくなっていた。この調子で家の前に居座られ続けたら近所迷惑にもなってしまう。
(この子達を守るためには、私が腹をくくるしかない)
そうと決意したネモフィラの行動は早かった。
てきぱきとした動作で、寝間着から動きやすい仕事着に着替える。
髪に櫛を通し、人前に出られるよう最低限の身繕いを整えながら、ネモフィラは目を丸くしている弟妹に向かって諭すように言った。
「二人とも、私が出ている間はこの部屋から出ちゃダメよ。ここで、じっと待っていて」
「えーっ、ここで? 僕も出たい!」
「絶対にダメ。もし万が一何かあったら私は悲鳴を上げるから、その時は迷わずこの窓から逃げて」
「ええっ! でも、お姉ちゃんが危ないよ」
泣きそうに瞳を潤ませたプリムラを安心させたくて、ネモフィラは彼女の金の髪をさらさらと撫でた。
昔は、この黄金を溶かしこんだような金髪を随分と羨ましく思っていたものだ。
オーデル家の者は、みな美しい金の髪を持っている。
ただ一人、ネモフィラ・オーデルだけを除いて。
ネモフィラは、何故自分の髪だけが家族の綺麗な金髪と違って、くすんだようなダークブロンドの色をしているのだろうとよく悩んでいた。小等学生時代は、そのことでいじめられていたこともある。
髪のことでからかってきた者のことは、胸が焼けつきそうなほどに憎かった。
しかし、その経験をきっかけに、復讐心は何一つ生まないのだと学んだ。
それどころか、恨みを抱いている限りは、自分も救われることはないのだと。
だからこそ、未だに金髪に憧れる気持ちはあるが、今はもうそこに醜い感情は潜んでいない。
「お姉ちゃん?」
プリムラが不思議そうに首を傾げた時、沈んでいた物思いから引き離された。
「大丈夫だよ。私を信じて」
断言できるだけの根拠など全くない、はっきり言って虚勢だ。
本音を言ってしまえば、不安で仕方がない。
それでも、二人にそうと見抜かれることだけは避けたかった。
ネモフィラは意地で笑顔を取り繕ったまま、勇気を奮って寝室を飛び出した。
念の為の護身用にナイフを服の中に忍び込ませて、玄関までにじり寄る。
用心深く戸を睨んでいたら、ノック音が鳴りを潜めて代わりに男性の声が響いてきた。
「ネモフィラ・オーデル様はいらっしゃいますでしょうか。私はラスター城から現国王ライデン・イルミネイト様の遣いでやって参りました、ダリト・モーレンスと申します」
声から察するに、父やトトと同じぐらいの年齢だろうか。
男の主張をそのまま信じるならば、彼は本当に王城からやってきたらしい。
しかし、今のところ彼が本物の国王の遣いであるという確証はどこにもない。国王がこんな田舎町の娘に用があるなどという戯言を信じろという方が無理な話である。
(嘘を吐くにしたって、もう少しマシな吐き方があったと思うけれど)
ネモフィラはあえて戸を開けぬまま、声を張って返答をした。
「私がネモフィラ・オーデルです。申し訳ございませんが、お引き取り願えないでしょうか」
「おお、貴方がネモフィラ様なのですね。警戒なさるなとは申しません。それよりも、こんな早朝から押しかけ、怯えさせるような無礼な真似をしてしまい、大変申し訳ございませんでした」
「一体、私に何の用でしょうか。国王様のお遣いの方が私に用があるとは、どうしても思えないのですが」
語気をさらに荒げてみたが、ダリト・モーレンスと名乗る男は一切引かなかった。
「ネモフィラ様。どうか、この戸を開いてはくださいませんでしょうか」
「申し上げにくいのですが、あなたが本当に国王様のお遣いであるという証拠は何一つありません」
毅然と言い放つと、戸の向こうから彼がくつくつと笑っているのが漏れ聞こえてきた。
「ははっ。たしかにその通りだ」
男の目的が一向に見えてこないことに対して苛立ちを募らせたネモフィラは、疲れたように言った。
「ええと……あなたは一体、何をしにここまでやってきたのですか?」
数秒の間を置いた後。
ダリト・モーレンスは、それまでの笑い声を潜めて本題に入った。
「貴方は回りくどい話がお嫌いなようですので、単刀直入に申し上げます。ネモフィラ・オーデル様。いえ、ネモフィラ・イルミネイト様」
(ネモフィラ・イルミネイト?)
ネモフィラは、自分の名前の後に王国の名前を続けられたことを不審に思った。
その呼び方では、まるで自分が王女になったかのようではないか。
嫌な胸騒ぎがした。
「貴方は生粋のこの家の人間だと思っておられるようですが、それは半分正解で、もう半分は嘘です。貴方の身体には、国王の血が流れている」
頭上から雷を落とされたような衝撃が全身を貫いた。
(どういうこと?)
呼吸が浅くなる。胸がざわめいて肺が痛い。
絵物語のような、それこそ信じられない話だ。
それなのに、ネモフィラは男の発した言葉の爆発的な引力に絡めとられたようになって、気がつけば戸の鍵を外していた。
「やっと、まともに話を聞いてくださる気になりましたか」
玄関前に立っていたのは、声から察していた通り壮年の男性だ。男の身に着けている赤い貴族服は滑らかな光沢を放っており、一目で高級品だと分かった。
その胸には、イルミネイト王国の紋章を象った金の刺繍が燦然と輝いていた。
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