第27話 僕を選んでよ

 ――国民に瘴気に侵されることは不治の病であるという恐怖を植えつけておいた方が、王族が聖水によって呪大樹を清めることにより一層の価値が出る。それに、もしもこのことが国民に知れ渡ったら、王族の聖水を求める旅は約五十年に一度では済まなくなるだろう。

 そんな面倒なことに付き合えるほど王族は暇ではないと、エルドは淡々と語った。

「ボクは、聖水のもう一つの効用について、父上の意見に賛同した。でも、叔父上が賛同するかまでは分からなかったから、彼には言わないようにしていたのさ。ライデン国王はクルーエル家に瘴人を始末させることに対して特に負い目を抱いていたようだったからね」

 腸が煮えくりかえるほど、目の前の男のことが憎らしくなっていた。

「そんな怖い目をするな。キミも良い子ぶっているけれど、性根はボクと同じだろう。人間はいつだって結局は自分が一番可愛い」

「私は……あなたとは違います」

「どこが違う? キミは今まで庶民に過ぎなかったが、ボクがしくじったおかげで、突然自分が英雄になるチャンスが舞い降りてきた。このまま聖水をもってリゲイツに赴き、王都に帰還すれば晴れて君は英雄だ。怖い顔をして、内心ではボクの失脚をほくそえんでいるに違いない」

 もう、我慢することなどできなかった。

「小さい頃からの夢だった。呪大樹を聖水で清めて無事に帰還し、国民の誰からも英雄と称賛される日々が待ち遠しくて仕方なかったのに」

 カツカツとあえて足音を響かせながらエルド王子の前まで歩み寄り、涙を溢れさせながら、渾身の力をこめて彼の右頬をはたいた。

「何をする、無礼者! 半分庶民の分際で生意気だぞ!」

 ネモフィラはエルド王子の激昂を無視して、今度は左頬を力強くはたいた。

 はたいた手は、痺れたようになってじんわりと痛んだ。

(でも……アンネとレイヴンの痛みは、こんなものじゃない。全然、足りない)

「今のは、あなたのエゴのせいで苦しんだ人達の痛み……。そのほんの欠片です!」

 もっと早く自分にも王の血が流れているのだと気がついていたら、アンネを救うことができていたのかもしれない。そう思うと、悔しさと悲しさで頭がどうにかなりそうだ。

 でも、アンネはもう逝ってしまった。

 いくらエルド王子のことを憎んでも、彼女は帰ってこない。

(じゃあ、レイヴンは……? 彼は、今どこにいるの?)

 彼は、瘴気に侵された人々をやむなく始末し続けていた。

 それはきっと、レイヴンも彼らは助かる見込みがない人間なのだと信じていたからだ。

(もしかするとレイヴンは、シュカさんがエルド王子一行を助けようとした時に聖水のもう一つの効用を知ってしまったのかもしれない)

 そうだとするなら、その時に彼を貫いた絶望はどれほどのものだったのだろうか。

 その痛みは、決してレイヴンにしか分からない。

 けれども、想像しただけで、筆舌に尽くしがたい痛みが全身に広がった。

 身体の中心からバラバラに引き千切られていくような。

 それこそ自殺をたばかってもおかしくないほどの、深い絶望。

 あの時、レイヴンがどれほど重たい宿命を背負っていたのかも知らずに、ただ突き放すような瞳しかできなかったことが心から悔やまれた。

「レイヴン……私、レイヴンに会いに行かなきゃ」

「ネモフィラ! ちょっと!」

 全速力で、部屋から飛び出した。

 どこに行けば良いのかも分からないけれど、一刻も早く彼を探し出さなければならないと思った。

 レイヴンに会いたい。

 ただその思いだけに背中を押されて駆け抜けた。

(そうだ。レイヴンは、王都に帰ったのかもしれない。王都、王都行きの馬車はどこ!)

 宿屋を出て、馬車乗り場に向かおうとしたその時、後ろから腕を掴まれた。

「待ってよ、ネモフィラ! 一体、どこへ行くつもり?」

 息を切らしてネモフィラのことを追いかけてきたシュカの手だった。

「私、ルミナスに戻ります。レイヴンに会いに行かなきゃいけないんです!」

「でも、呪大樹の件はどうするのっ。念願の聖水を手にできたのに、まさかこのまま放置するわけ?」

 本気で呪大樹のことを失念していた自分に気がついて、どれほど憔悴していたかを自覚した。

 呪大樹を清めにリゲイツに向かうのか、どこにいるのかも分からないレイヴンを探しにとりあえずルミナスへ戻るのか。

 王家の血を引く者としてふさわしい行動は明白だ。

 だから、この選択はきっと、この国のことを心から想う王女としては最適解ではない。

「シュカさん。持ち帰ってきた聖水を、エルド様に渡していただけますか?」

「はあ? あの男がどれだけ腐っているかは、さっきの会話で身に沁みてよく分かっただろう」

「……はい。痛いぐらいに分かりました」

「じゃあ、どうして」

「それでも、あれだけ英雄になることに固執しているのなら、リゲイツまで赴き呪大樹を聖水で清める役目はきちんと果たしてくれると思います」

「そうなれば、いずれはあの王子がこの国の頂点に立つ。君はそれで良いの?」

「はい。私は、王位に就く気はありません。エルド王子が、この王国を善き方向に導いてくださるのなら何の文句もありません。但し、国民を苦しめるようなことがあれば、その時は立場を利用して全力で闘いに行きます。私は聖水のもう一つの効用のことも知りました。あなたの好きなようにはさせないと、彼にお伝えください」

 口を閉じ、呆然とした顔でネモフィラを見つめているシュカに対して、申し訳ない気持ちがせりあがってきた。

「シュカさん、沢山巻き込んでしまって本当にごめんなさい。私、一刻も早く行かなきゃいけなくて」

 駆け出そうとして、すぐに、動けなくなった。

「ごめん、行かせたくないや」

 背後から回ってきたシュカの腕に、抱き留められていたからだ。

 周囲を歩いていた人々に何事かと視線を向けられている。一気に注目の的になってしまった。ネモフィラはその腕から抜け出そうとして抵抗した。

「シュカさんっ。ダメです、離してください!」

「……抱きしめても全く動じないんだね。それほど、あの男のことで頭がいっぱいということか」

 自嘲気味に呟かれたその言葉に、もがいていた足と腕が止まった。

「ねえ、ネモフィラ。僕はずっと、君のような人を待っていたんだと思う」

「何を言っているんですか? こんな時にまで冗談はやめてください!」

「だから、冗談じゃないんだってば」

 穏やかだけれども凄みのある口調に、身体の力が抜ける。

「レイヴンじゃなくて僕を選んでよ。そしたら僕は、君の望んでいるものをなんでもあげられる。僕には、呪大樹をすっかり枯らしてしまうことだってできるよ」

 耳を疑った。

 ネモフィラの聞き間違いでなければ、シュカは今、呪大樹を枯らすことができるとたしかにそう言った。

「……やっとこっちを見てくれたね」

 猫を思わせる金の瞳が、淋しそうに揺れている。

「呪大樹を枯らすことができるって……どういう、ことですか」

 シュカはネモフィラに回した腕をほどくと、今度は両肩に手をのせて斜め上から顔を覗きこんできた。

「つまりね、僕こそが、君ら国民が散々忌み嫌っている【神】という奴なんだよ」

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