第10話 シュカ・ネメシス

 木目を基調としたあたたかみのあるその酒場は、立食形式となっていた。グラスのぶつかり合う涼しげな音と、人々の陽気な笑い声とが響く賑やかな場所だ。みな頬をうっすらと紅潮させている。

 物珍しくて、つい辺りをきょろきょろと見回してしまう。

 案内された丸テーブルで、店員から手渡されたメニューを開こうとしたら「貴方の分も私が頼んでおきますので」と過保護な従者に取り上げられてしまった。「子供扱いしないでよ」と言い返しながらも、ぱっと見たところ正直よく分からなかったので、そのまま任せることにした。

 好奇心に導かれるままに、再び店内を見渡す。

 ネモフィラが通常の料理店とは一味違った大人の空間に感動している一方で、レイヴンはといえば、

「そこの格好良いお兄さん、アタシと一緒に飲まない?」

 早速、隣のテーブルからやってきた派手な出で立ちの女に絡まれていた。

(って、ちょっと待って! 私がいるのに!)

 彼女には同席しているネモフィラのことが見えていないのか、はたまた、認識していてあえて無視しているのか。どちらにせよ肝が据わっている。

 軽く衝撃を受けて言葉を発せずにいたら、彼の方はいつもの調子であっさりと受け流していた。

「お断りいたします」

 女は怯んだ様子もなく、ネモフィラにちらりと視線を送って意味深に微笑んだ。

「そんなツレないこと言わないでよ。そんな子供っぽい子と飲むより、お姉さんと飲んだ方が楽しいよ?」

(こ、子供っぽい!)

 たしかに彼女は魅力的なスタイルをしている。胸は大きく、腰はきゅっと引き締まっていて見るからに大人のお姉さんだ。悔しいけれど何も言い返すことができない。毛を逆立てた子猫のように女を睨みつける。

「子供っぽい、という意見には同意しますがね」

 まさかの後方支援をくらい、思わずテーブルをバンッと叩いてしまった。

「って、ちょっと! レイヴン!」

(私の味方はどこにいるの!?)

 レイヴンは、ネモフィラの恨めしげな視線の矛先が女から自分へ移ったことも意に介さず、涼しい顔をしたまま女に向かってはっきりと告げた。

「しかし、私は貴方と過ごすよりも彼女と過ごしたいんですよ。私にとってこのお方と過ごせる今の時間は、何にも代えがたいものなので」

(えっ?)

 淀みなく紡がれた返答に、ぴたりと固まってしまった。

 状況を考慮せず台詞だけを切り取れば、まるで愛の告白のようであったから。

 酒を飲んだわけでもないのに、頬が火照ってきた。彼女を退けるための口実に過ぎないと分かってはいても、胸が高鳴って騒がしい。

 女は豆鉄砲を食らったような顔になった後、けらけらと笑い始めた。

「あはは、分―かったって。軽く誘っただけなのにそんな怖い顔しないでよぉ。アナタ、彼からとっても愛されているのね」

 女が覚束ない足取りで立ち去っていくのを唖然と見送っていたら、今度は後ろからまた別の人物に肩を叩かれた。

「君、あまり見かけない顔だね。もしかして、このお店は初めて?」

 鈴を振り鳴らしたような、軽やかな声だ。

 振り向けば、深緑色のローブを纏った絶世の美人が、ネモフィラのことを興味深そうに見つめていた。

(あれ。男の人、だよね?)

 声と身長から察するに恐らく男性なのだろうが、顔が女と見紛うほどに美しかったので戸惑ってしまった。

 頭の下のあたりで一括りに結わいている銀の髪に、雪のように白くきめ細かな肌。

 二コリと口角の上がっている紅い唇は、見る者を誘うように艶めいている。

 すっと通った高い鼻、形の良い耳、その他全てのパーツが完璧な配置で構成されているのだが、中でも印象的なのは月を思わせる金色の瞳だった。見つめ続けていたら危うく吸いこまれてしまいそうな、妖しい引力を放っているようで。

「んー? もしかして、僕に見惚れちゃった?」

「そ、そういうわけでは!」

「ふふっ、可愛い反応。ねえ、君はどこから来たの?」

(か、かわっ!)

 軽率にそういう言葉を漏らさないでほしい。

 ただでさえ男性に免疫のないネモフィラは、現れた謎の男のペースにすっかり踊らされていた。

「え、ええと、その……ルミナスから来ました」

「へえ、王都から。君は王都に住んでいるの?」

 彼がさりげなくネモフィラの隣に立った瞬間、レイヴンのいつにも増して冷え冷えとした声が響き渡った。

「そのお方にそれ以上近づかないでいただけますか?」

 ローブの男はレイヴンに視線を送ると、ますます楽しそうに口の端を吊り上げた。

「ああ、連れがいたのか。ごめんね、見えていなかったよ」

 この男、先ほどレイヴンに絡んでいた女以上の曲者である。

 欠片も誠意を感じられない謝罪の言葉もすごいが、ここまであからさまに挑発されて尚、全く顔色を変えていないレイヴンの方も負けてはいなかった。

 男二人の間に、見えない火花が散り始める。

(この空気、どうしよう)

 穏やかでない雰囲気におろおろとしていたその時、思わぬ助け船が現れた。

「あーっ! 昼間にシュカを探していた子達じゃないか! 無事に会えたんだねぇ、良かった良かった!」

 昼間に見た時と同じように赤ら顔になっている男二人がネモフィラ達を指差しながら、威勢よく笑っていた。

 ぎょっとして再びローブの男を見やると、彼は彼で不思議そうに首を傾げていた。

「シュカ・ネメシスならば、僕のことだけれども。君らは僕を探していたの?」

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