第17話 さぞかし神が憎いに違いないだろうに

「ここさ、僕のお気に入りの喫茶店なんだよね」

「はぁ。そうなんですか」

 ネモフィラはシュカに連れられて彼の館の近場にある喫茶店を訪れていた。シックで落ち着いた雰囲気の店だ。入った瞬間に、豆の良い香りが鼻に抜けてきた。

 結果としてシュカの望みに応じる形となってしまったが、レイヴンの帰りを待たずにシェレンを発つのは気乗りしなかったので致し方なかった。

「うん、ここのホットケーキは格別なんだよ」

 マイペースに珈琲を啜るシュカの目の前に座りながら、そわそわと落ち着かなかった。彼がその身目麗しい容貌でどうしても人目を惹き付けてしまうからだ。今日は白いシャツに黒いスラックスという装いらしく、スタイルの良さが際立っている。この店に来るまでの間にも、すれ違った女性に今日は酒場に飲みに来ないのかと絡まれていた。

(一刻も早く聖水を探しに行かなければならないのに、何をやっているんだろう)

 全てはネモフィラを放置して、突然、王都へ舞い戻ってしまったレイヴンのせいだ。せめて館を出て行く前に一言ぐらい声をかけてくれれば良かったのに、と浮かない顔つきになってくる。

「ねえ、さっきからずーっと上の空だけど、そんなにあの騎士のことで頭がいっぱいなわけ?」

「か、からかわないでください! ……たしかに、心配ではありますけど」

「妬けるなぁ。今は僕とのデート中なんだから、もっと、僕のことに興味を持ってほしいんだけど?」

 高貴な猫を思わせる金の瞳に、真正面からじっと見つめられる。

 前々から思っていたが、シュカは本当に綺麗な顔立ちをしている。レイヴンも整った容貌をしているが、シュカの美しさはどこか浮世離れしている。

 見つめあっていたら、自然と疑問に思っていたことが口を衝いて出た。

「シュカさんは、どうして呪大樹の研究をしようと思ったんですか」

 ネモフィラは今まで、呪大樹の研究を志す者はイルミネイト王国のことを心から愛していて、この国を瘴気の呪縛から解放しようと励んでいる人々なのだと想像していた。

(でも、シュカさんは違う)

 彼は聖水の在処を突き止めた。

 国が総力を挙げても成し遂げることのできなかった偉業をたったの一人でやり遂げたのだ。元々優秀だったのかもしれないが、そこに至るまでには血の滲むような努力を要したに違いない。

 それにも関わらず、彼は、聖水を求めて直々に訪れてきたネモフィラとレイヴンを試すように条件を付けるようなことまでした。純粋にこの国を救うために研究を志したのなら同じ願いを持った者に楯突くようなことはしない。

 シュカは、この国を瘴気から守るために研究を進めてきたわけではないのだろう。

(じゃあ、何のために?)

 ネモフィラには、シュカ・ネメシスという人物の感情をまるで理解できなかった。

「じゃあ、逆に尋ねるけれど、君はどうしてこの国が瘴気に脅かされているのか、考えたことはあるかい?」

 質問に対して、予期せぬ質問で返されたので戸惑った。

「学校では、神がリゲイツに呪大樹を植えたのだと教わりました。神は、この王国にありとあらゆる災厄をもたらしている悪魔なのだと」

「うん、そう書いてあるね」

 イルミネイト王国では、神は忌避すべき存在だ。

 その名を口にすることすらも憚り、嫌悪するのが常識である。

 だからこそ今まで誰にも言えなかったことだが、ネモフィラはその教えに対して、陰ながら疑問を抱き続けていた。

 そして、シュカにならそのことを打ち明けてみたいような気になった。清々しいほど権威に興味を示さず、常識とは別の世界に生きているように見える彼にだからこそ。

「教科書にはそれ以上詳しいことは書いていなかったけれど……私は、そうやって教わった時に実は違和感がありました」

 自然と小声になっていた。

 胸がバクバクと波打ち、舌の根がどっと渇いた。周囲の音が、耳から遠のいていく。

 あたかも断罪の時を待つ囚人のような気持ちだ。

 先ほどまでシュカに浮かんでいた軽薄な笑みも消えていた。

「どうして?」

 少なくとも、頭ごなしに否定されることはなかったことに安心した。

「呪大樹の発散する瘴気は、人を傷つけ苦しめています。もしこの樹を植えたのが神なのだとしたら、どうして神は人間を呪わねばならなかったのか、不思議に思ったんです」

 ネモフィラは小等学生時代に、家族の中で一人だけ髪の色が違うといじめられていたことがある。からかってきた当の本人達からすれば、もう覚えてもいないような些末な出来事だったのかもしれない。それでも、まだ背丈の小さかったネモフィラの心は、そのことで随分と傷つけられた。

 ネモフィラは最近までオーデル家の実の子だと信じて生きてきた。家族の中で自分だけがダークブロンドの髪を持って生まれた本当の理由に思い至るわけもなく、当時はただ、髪の色を馬鹿にしてくる者のことが憎かった。

 正直に告白するならば、憎いだけではおさまらず、不幸になってほしいと願ったこともある。

 その胸が焦げつきそうなほどに強い思いは、呪いのようだった。

 だからこそ、無関心なものに対してこんなに激しい感情は抱けないのではないかと思ったのだ。

「神という超越した存在に、人間の感情の理屈が通用するのかは分かりません。でも、もし少しでも人間に通ずる部分があるのなら、神は人間に対して強い思い入れを抱いていたんじゃないかと思ったんです」

 馬鹿にするでもなく、嘲笑うでもなく、シュカが熱心に耳を傾けてくれていると分かったので、ネモフィラは不安を抱きながらも話を続けることができた。

「憎しみは……他者を呪いたいと願うひりひりするような気持ちは、それだけ強い感情だから。もしも神が人間を呪わねばならなかった理由があったのなら、私はそれを知りたいです」

 シュカがぽかんと口を開いたまま珍しく黙りこんでいるので、ネモフィラは慌てながらぱたぱたと手を振った。耳の裏には汗が滲んでいる。

「それとも、歴史の伝えている通り、神は悪魔そのもので、理由もなく人間を苦しめる存在なんですかね。ええと……いきなり、こんな根も葉もない話をしてしまってごめんなさ

い」

「どうして謝るの? 君は、とても興味深い話をしてくれたのに。神に対してそういう考えを持っている人間には初めて出会ったよ。勇気を出して、教えてくれてありがとう」

 変な人だと思われるか、まともに相手にされないかのどちらかだと覚悟していたが、まさか感謝の念を述べられるとは思いもしなかった。

(ますます、シュカさんのことがよく分からなくなった)


シュカは運ばれてきたホットケーキを優雅に切り分けて、口に運び入れていた。幸せそうに舌鼓を打っている。

「君は、誰かのことを呪いたいと思ったことがあるのかな」

「……はい。願っただけで、実際に行動に移したわけではないんですけどね」

 それに、幼いネモフィラが憎んだ人間は、呪うまでもなく全く別の偶然によって勝手に不幸になった。あれだけ不幸になってほしいと願っていた者が実際に転落した時に胸を占拠したのは、果てのない虚無だった。

 あの時に、復讐はたとえ成し遂げられたとしても空虚なものなのだと知った。

「正直なところも好感が持てるよ。心を持っている以上、綺麗な感情だけでは生きていけないからね」

 彼は皿の上に一つの欠片も残さず、ぺろりとパンケーキを平らげた。

「教えてくれてありがとう。今度は僕が答える番だ。僕が呪大樹の研究をしている理由は……強いて言うならば、好奇心といえるのかな。限りなく薄い希望にみっともなくすがっているとも言い換えられるかもしれない」

「それは、呪大樹を枯らす研究も進めているということですか?」

 身を乗り出して聞くと、シュカは首を傾げて笑った。

「さあ、どうだろうね。でも、王族の君の立場からすると、呪大樹がすっかり枯れてなくなってしまったら困るのではないかい?」

 耳を疑った。

 気が荒立って、思わず小さく叫んでいた。

「困る? どういう意味ですか。私は、呪大樹なんて滅びてしまえば良いって本気で思っていますよ! 瘴気なんてなければ……アンネは死ななかった!」

 ネモフィラの怒声は、静かな店内に予想以上に響き渡った。

 周囲の客の注目を引いてしまい、いたたまれなくなって縮こまる。

「ごめんよ。君は、大事な人を瘴気で亡くしたことがあるのだね。そうだとするなら、さぞかし神が憎いに違いないだろうに」

 消え入りそうなその言葉をフォローできるほど、心を強くは保っていられなかった。


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