第15話 この花も美しいですが

 目的の花を求めて、二人はさらに森の奥地へ向かった。森の中での移動にちょっとずつ慣れてきたこともあり、昨日に比べて足取りが軽かった。

「む……」

「えっ。どうしたの?」

 急に足を止めたレイヴンが、瞳を細めて、ある樹々の方を凝視し始めた。

(獣の気配がするの? でも、私には何の音も聞こえなかったけれど)

 彼の並外れた野生の勘は、何かを察知しているのかもしれない。

 ネモフィラに大したことはできないが、いつでも駆け出せるように臨戦態勢を取ってみる。すると、レイヴンが見つめていた樹に向かって一心不乱に走り出したので、肝が縮んだ。

 しかし、次に彼が取った行動は、予想外のものだった。

 なんと、スパイのような華麗な身のこなしで、その樹に登ったのだ。

「レイヴン? ちょっと、何をやっているの?」

 目を丸くしているネモフィラのことは意識の外にあるらしい。

 何かに取り憑かれたように夢中になっている。

 彼の視線の先を追ってみると、そこには赤紫色の果実がふんだんに連なっていた。

 レイヴンは器用にその実をいくつかもぎ取ると、華麗に着地を決めた。人間業とは思えないダイナミックな動きである。

 彼は採取した果実を見つめ、大仕事を終えたような顔で満足げに頷いていた。呆気にとられていたら、ようやくネモフィラの視線に気がついたようだ。きまり悪そうな顔をしている。

「……えっと、すみません。プラムが成っているのを発見して、つい」

 何事が起きたのかと焦ったが、ただ純粋に成っていた果実を採りたかっただけらしい。

 よく見ると、彼の耳の先は赤く染まっていた。

(もしかして、恥ずかしがっている!?)

「ふふっ」

 我慢していたが、お腹の底からこみあげてくる笑いをもう留めておけなかった。

「あははっ! びっくりした! すっごく真剣な顔をしていたから、何かと思ったよ」

「……そんなに笑うことないじゃないですか」

 笑いすぎて、まなじりに涙まで浮かんできた。しょんぼりしたように眉尻を下げているレイヴンは拗ねた少年のようで可愛らしく思えてくる。

(もっと、こうやって色々な表情を見せてくれば良いのにな)

 ふと、彼は元々が淡泊な性格だったのだろうかという疑問が頭をかすめた。

「私は、この果物が好きなんです」

 降ってきた疑問は、レイヴンに声をかけられたことによって頭の端に追いやられた。

「奇遇ね! 私もプラムが大好きなの」

 意外な共通点が見つかって、明るい気持ちになった。

 声を弾ませると、レイヴンはネモフィラにもぎたての果実を手渡してくれた。

「ええ。個人的に、この味に勝るものはないと思っています」

「それは、ちょっとだけ大袈裟じゃない?」

「いえ。これだけは譲れません」

 そう主張しながら、思いきりよく瑞々しい果実にかぶりついた彼はいつになく上機嫌そうに見えた。ヘンなこだわりを持っているものだと思いながら、ネモフィラも食べてみた。

 甘くて酸っぱい幸せな味が、口の中いっぱいに広がった。


 小一時間ほど歩いたところで、どこからともなく水の流れる音が聞こえてきた。

 その時、不意に、虹透花を見てはしゃいでいた幼き日の自分にヴァレンが教えてくれたことが頭に蘇った。

「ねえ、レイヴン。近くから、水の流れる音が聞こえるよね?」

「ええ」

「そっちに進もう。お父さんが、虹透花は水辺に咲くって言っていた気がするの」

「なるほど。承知いたしました」

 急遽、方向を転換し、せせらぎの音に導かれるようにして進んだ。

 徐々に樹々が開けたようになっていき、視界が湖のきらめきを捉えた瞬間、期待で頬が紅潮した。ぱっと疲れが吹き飛び、羽根が生えてきたように軽くなった足で湖面の近くまで駆けつける。

「あった……!」

 目的の花は、湖付近に慎ましく咲いていた。

 その名の通り、日の光を浴びた白い花びらが虹色の燐光を発している。この燐光は夜には見られないので、今の時間帯に辿り着いていなかったら見逃していたかもしれない。

 ネモフィラの後から付いてきたレイヴンが感嘆の息を漏らした。

「これが虹透花ですか?」

「うん。やっぱり綺麗だなぁ」

 昔に店に並んでいるのを見た時よりも、目の前に咲いているこの花々の方がずっと美しいように思えるのは、苦労してやっと見つけたからなのかもしれない。

 ネモフィラが屈みこんで食い入るように虹透花を見つめていたら、レイヴンもその隣に寄り添うようにして腰を屈めた。

「……本当に、美しいですね」

 ひたすら花に見惚れていたら、ふと隣から視線を感じたので、不思議に思って振り向いたらばっちり視線がかち合った。

 底の知れないアメジストの瞳が見つめていたのは、花ではなくネモフィラだった。

(な、なに……?)

 彼が熱心に顔を見つめてくるものだから、静まっていた鼓動が再び乱れ始めた。胸の奥の揺らぎを誤魔化すように笑いながら首を傾げる。

「私の顔、何かついている?」

「いいえ」

「そっか」

 困惑して身構えたが、レイヴンはそれでも視線を逸らさなかった。

 水の流れる音と、風が草木を揺らす音だけが響く静謐な森の中。

 まるで世界で二人きりになったかのような錯覚に陥りそうになった時、彼は、はっきりと告げた。

「この花も美しいですが……貴女の方がよほど美しい」

「っ」

 胸が痛いぐらいに高鳴っている。

 その言葉がお世辞のようでなく、そうかといって浮ついているわけでもなく、思っていることをそのまま言ったという風だったから。

 顔が沸騰したように熱くなっていくのを止められない。

「い、いきなりなにっ」

「いきなりではないですよ。……お会いした時は、どちらかといえば可愛らしい方だと感じましたが、接している内に印象が変わっていきました」

「つまり、今は可愛くないってこと?」

 動揺するあまり、つい棘のある口調になってしまう。

 しかし、レイヴンがこの程度の憎まれ口で怯むはずがなかった。

「ええ。貴方は守られていようとするだけの可愛い女性ではありませんでした。突然予想もしていなかった困難が降りかかってきて、本当は不安で仕方がないはずなのに、挫けず強くあろうとする姿勢は美しい。それに、貴方は一介の護衛に過ぎない私に、常に気遣いと感謝の言葉を与えてくださった。ここ数日間で、あと一生分の他人からの感謝の言葉をいただいてしまったように思うぐらい」

 大袈裟だとは思ったが、彼があまりに真剣な顔をして言うから、口を挟むことができなかった。

「私は貴方のような主に仕えられて幸せです。でも、ネモフィラ様。強がりで頑張り屋なところも貴方の美徳ですが、あまり気を張っていると、いつかどこかで折れてしまいます。だから、私の前では頑張らなくて良いのですよ」

 そう言ったところで貴方は頑張ってしまうのでしょうけれど、と付け足してレイヴンが微笑んだ時、泣きたいような気持ちになった。

 涙が出そうなくらいに嬉しかったけれど、決して、勘違いしてはいけない。

 痛いぐらいに真っ直ぐなこの言葉は、あくまでも王女としてのネモフィラに向けられたものだ。



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