第九章 四日目深夜 館
石の上にも三年
六波羅はなにか物音が聞こえたような気がして、目を落としていた本から顔を上げた。こんな状況で読書を楽しもうなどとは微塵も思わなかったのだが、逆にこういう状況だからこそ虚構の世界に逃げ込んでしまわないと、自我を保てないような気がしていた。
物音はどこから聞こえるのだろうかと、ソファーから立ち上がるついでに時計を確認する。二十一時、小学生の頃は親に急かされてこの時間には布団に入っていたものだ。
六波羅の宿泊する『獅子宮』の隣の部屋は、蟹江のいる『巨蟹宮』、誰かに殺されたと言われている霜触が眠っている『処女宮』。
正直変わり果てた姿で彼が発見された当日は、壁一枚挟んだ向こう側に遺体があるという事実がどうにも恐ろしくて、とても快眠を送ることは出来なかった。しかし、その翌日には前日の寝不足が祟ったせいか、気絶するように朝まで眠ってしまった。
今夜も気絶するように眠ってしまえるならそれが一番いいのだが、この館の中で二人目の死者が出てしまったとなれば、気持ちが昂って眠気がなかなか訪れてくれない。
物音の原因は、隣の部屋の蟹江だろうかと結論付けた。
彼が見た様子では、この建物内の部屋を仕切る壁が薄いとは思わないが、一人部屋で静かに過ごしていれば、隣の部屋の物音程度なら聞こえるのかもしれない。
まさか外に助けが来ているのでは無かろうか、とも疑ったが、こんな夜に来てくれるものなのだろうか。部屋に窓がないので、確認できないのがもどかしい。
再びソファーに体を沈め、一旦閉じてしまった本を開くが、どうにも読み進めにくい。彼が今読んでいるのは、少々猟奇的な描写が目立つミステリ作品だ。虚構の世界に逃げ込むにしても、何も同じ血腥いところにいなくてはいけない理由はない。ため息を一つついて、再び本を閉じてしまった。
先程時計を確認したばかりだというのに、再び時刻を確認してしまう。五分も経っていなかった。どうもこの状況になってから、早く逃げ出したいからかこまめに時計を確認する習慣がついてしまい、あまり進んでいない針を見てため息をつくのが、一種のルーティンになってしまっている。
「図書室に行って、別の本を借りてくるべきかな」
独りごちながら目の前に置いていた水を飲み干して、本を手にして立ち上がる。そして、壁のルームキーをセットする機械から鍵を抜いて部屋を出た。
そのまま真っ直ぐ螺旋階段に向かうつもりだったのだが、違和感に気づき、「おや?」と呟きながら、部屋を出て左手側を見た。
「管理人さん、どうにかしたんすか」
『金牛宮』と書かれた部屋の前に立っている管理人が、驚いて振り向く。話しかけられたのが六波羅であることを認識した彼は、ほんの少しだけ安堵の表情を浮かべた。
「六波羅様、申し訳ありません、うるさかったですか?」
「いいや、たまたま外に出たら管理人さんが見えただけなんで。それよりその部屋、牛島さんの部屋っすよね?どうかしたんすか?」
管理人は困惑の色を浮かべる。どうやら何か悩んでいるような様子なのだが、それもほんの一瞬ですぐに返答をした。どうせそのうち話さなくてはいけなくなるから、と判断したのだ。
「実は、体調を悪くされている牛島様が、内線の電話にも出られず、こうやって部屋をノックしてもお返事がないのです」
六波羅は顔から血の気が引くのを感じた。嫌でも明村と霜触のことが頭をよぎる。
「管理人さん、もうこれは……」
「はい、お部屋を開けさせていただくしかなさそうです。すみませんが六波羅様、証人になっていただけませんか」
青ざめた顔が首肯するのを見て、管理人と一つ頷きマスターキーを取りだした。いくつかの鍵が連なった鍵の中から一つを選び出し、鍵穴に差し込んで捻る。当然の如く、解錠する音が聞こえた。
「牛島様、入りますよ」
いつものように管理人は声をかけながら扉を開ける。薄暗い廊下に、客室内の光が漏れ出てくる。ここはルームキーを所定の位置にセットしていないと電気がつかないシステムなので、少なくとも鍵を部屋の中に置いていることになる。ただ、オートロックな以上、鍵を部屋に置いて外に出るとは思えない。
先に管理人がそっと部屋に入り、悩んだ六波羅は羽織っていたパーカーで手首を包み、指紋がつかないようにして部屋に入った。
先にベッドにたどり着いた管理人は、「ああ……」という呟きを漏らし、サッと顔が青ざめた。その様子を見て、この先に広がっている光景は容易に想像できた。
牛島は、霜触同様ベッドの上でうつ伏せになって事切れていた。
顔が枕に埋もれているので表情は伺いしれない。だが、唯一見える背中は、びっしょりと血液で濡れている。真っ白なシーツも壁に血飛沫のようなものが飛び散り、洋服が吸い取りきれなかった血液は、布団にまで染み込んでいる。
「六波羅様、青柳様と秤谷様を呼んできていただいてもよろしいでしょうか」
蚊の鳴くような声での依頼を聞いた六波羅は無言で頷く。二人は元医者だと聞いていたので、牛島の状態を確認してもらうのだろう。素人目にも、この出血量で助かるとは到底思えないので、法医学だとかそういった方面の確認だろう。
指紋がつかないようパーカーの袖を使ってノブを捻り、廊下に出た。夕食の後、誰もが無言で食堂を出ていったので、誰がどこにいるかなどは把握していないが、この時間なので青柳と秤谷も部屋にいるだろう。最初に『天秤宮』の扉をノックすると、「はい、どなた?」という秤谷の返事が聞こえた。
「おや、六波羅さんですね。どうにかされましたか?」
目の下にクマをつくって、疲れが溜まった顔で応対してくれた。六波羅は、ただ一言「管理人さんが『金牛宮』の部屋に来て欲しいそうです」とだけ告げると、真っ青な顔色とその一言だけで何が起こったのかを察したようで、「そうか、わかりました」と言った。彼の顔には、半分諦めのような色が浮かんでいる。
そのまま部屋から秤谷も出てきて、六波羅がこの後どんな行動をするのか察しがついていたので、彼と一緒に『磨羯宮』の扉を叩いた。
返事をしながら扉を開けた青柳も、秤谷と誰かが一緒に来ているという状況で理解したようで、管理人の伝言を告げようとする六波羅を手で制した。彼女は、少しだけ悲しそうに、自分を鼓舞するためか二人を慰めるつもりか、微笑んでみせた。
「ああ、青柳様、秤谷様、お休みのところ申し訳ございません」
「いいの、それより管理人さんの方もしっかり休んでいますか?顔色があまりよくないです」
『金牛宮』の部屋に入る元医者たちは、ほんの少しだけ慣れているような素振りだった。だが、彼らもこの状況に慣れてしまいたくはなかった。それでも、起こってしまったことは仕方ないと割り切って、牛島の亡骸に近づいた。
彼女は目を閉じて、そっと手を合わせる。それに倣って、残りの三人も合掌した。数秒の後、青柳は牛島の体に触れた。
「牛島さんから体調が悪いので夕食に行けない、という連絡が入ったのは何時頃でした?」
「ええと、確か六時、十八時前頃だったと記憶しております」
「そう、じゃあ少なくともその時までは牛島さんは生きていたのね。それで死後硬直が、頸部のみに見られるとなると、二、三時間前、管理人さんに連絡をつけた後に亡くなっている。死因は、明村さんや霜触さんと同じように心臓を一突きしている、それによる出血多量で失血死ね。それと、もう一つ確認したいのが秤谷せんせ……、秤谷くん手伝って」
未だに先生と呼びかけてしまうのをそっと飲み込んだ。それを聞いた秤谷は頷いて、牛島の顔をそっと持ち上げた。首周りには死後硬直が来ているので、生きている人のように首を回すことは出来ないが、持ち上がった隙間から青柳は口の中を覗き込んだ。
「口腔内に異物あり。折り畳まれた紙片だから、おそらく今までに見つかっているものと同じと思われる。本当は写真を撮ってからじゃないと取り出せないけど、ごめんなさい、他の三人に証人になってもらいます」
そう言いながら、口の中にあった紙片を取りだした。じっとりと濡れているその紙片には、例の如く『ユキを思い出せ』と定規を当てた文字で書かれていた。
実物を見るのは初めてだった六波羅が、少しだけ興味を抱いて二人の傍に寄ってきたのだが、ぎょっとしたように立ち止まる。
はっきりとは見えなかったが、牛島のどす黒くなった苦悶の表情を見てしまったからだ。
六波羅が驚いているのを目の隅で認めた秤谷は、慌てて、しかしゆっくりと死者をいたわるように持ち上げていた頭部を下ろす。そして、申し訳ないことをしてしまったと、心の中で詫びた。
彼は六波羅が今までにどんな人生を歩んできたのかは知らないが、おそらく死者からはかけ離れているような人生を送ってきた可能性が高い。そういう一般人が死体を目にする機会というのは、葬式が絡んでくる一連の流れしかない。
棺に入れられた故人の顔は、化粧が施され生前のような顔になっているはずだ。よく、まるで眠っているようだと言われるのはそのためである。
だが、基本的に葬式で目にする遺体は、病床で亡くなったというようなものが多い。交通事故、ましてや殺人にあったような遺体など目にする機会はないだろう。そんな一般人に、トラウマになってしまうようなものを見せてしまったことを、反省しているのだ。
しかし、意外なことに六波羅がたじろいだのはほんの一瞬だった。視線だけはすぐに遺体から逸らしたが、これ以上青ざめることはなく、青柳の持つ紙片を覗き込んだ。
「これと同じものが明村さんと霜触さんの口の中に?」
「ええ、まぁ厳密には定規を当てた文字だから、形とかは微妙に違っているけどね。同じ人間がやったと思っていいと思う」
そう言って青柳は紙片を、部屋のテーブルの上にそっと置いた。
そして、くるりと管理人の方を振り向く。
「管理人さん、もう一度聞きます。この館には正面玄関以外の出入口はないんですね?」
「え、ええ。裏口のようなものはありません」
「わかりました」
青柳は暫く思索した後、再び口を開いた。
「人の出入りがないのなら、殺人犯はまだ建物の中です。とりあえず、みんなをサロンに集めてください」
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