魔物潜む館

 部屋に入ると、浴室の床に膝をついた青柳が、明村の死体を覗き込んでいた。すでに蛇口は閉じられており、浴槽からこぼれだすお湯はわずかなものになっていた。


「青柳先生、どうですか」


 秤谷が青柳に近づきながら言う。彼は不用意に部屋の中のものを触らないように、手のひらを長袖の中に入れていた。

 青柳は静かに首を横に振った。


「だめ、しかもお湯につかっていたから、この状態だと正確な死亡推定時刻が割り出せないかもしれない。道具がないから」


 そう言いながらそっと明村の首元を触って、死後硬直の度合いを確認していた。

 首に死後硬直は来ているのだが、お湯に浸かっていたことで誤差が生じているかもしれない。直腸の温度とお湯の温度などを計って計算すれば、多少は割り出せるかもしれないのだが、如何せん道具もない上に、二人は法医学を専門にしていない。下手に手を出さず、なるべく目視でわかることを記憶しておくことが重要だろう。


「どうですか、死因は」


「昨日の、霜触さんと同じ。背中から心臓を一突き、恐らく即死ね」


 愁いに満ちた表情で青柳は答える。

 彼女は明村の正確な年齢は知らないが、まだまだ二十代で大学生か卒業して社会人を始めたばかりだ、という印象を持っていた。そんな、まだまだ人生がこれからだ、というような若い子がなぜ殺されなくてはならないのだろうか。

 人を殺すのは、どんな理由でも許されないと考えている上に、特にこんなに若い子が、となると彼女は怒りを隠せないでいた。

 救急医をしていたころなのだが、老若男女様々な患者が搬送されてくるのだが、その中で老人の運転する車によって重体になっている若い子を見るたびに、怒りがこみあげてきたものだ。ただでさえ少子高齢化が進むこの国で、若い子の命が老人によって脅かされている。

 勿論若い子の命を奪うのは何も老人だけではないということも、理解しているのだが、それでもやはりいたたまれないものがある。これからの世を生きていく若い命を、引導を渡すような立場で後先短いものが奪っていくのは、信じられない話だ。まるで滅びゆくのを促進しているかのようだ。

 それに、搬送されてくる若い子の中には、様々な子がいた。

 大きな大会を目前に控えていた子、自分の将来のために必死に受験勉強をしていた子、友達と遊びに行く予定を立てていた子。

 長い間、心を殺してその子たちの治療に当たり、時には見送ってきたのだが、それでもわずかな隙間から、じわじわと心を侵食して、ある日、とうとう限界が来た。

 それでもある程度はしっかりと勤め上げ、両親を言い訳に田舎に引っ込んでしまった。しかし、田舎に戻ってしばらくは、本当に動けなかった。それが最近になってようやく、まともに動けるようになり、休養の一環として、この『星見の館』に来ていたのだ。


(やだなぁ、こんな状況だと再発してしまいそうだ)


 青柳は心の中でそんなことを呟きながら、自嘲するように笑った。勿論、心の中でだが。

 そのタイミングを見計らったかのように、秤谷が話しかけた。


「どうしますか、このままお湯に浸けておくのは良くないですよね」


「そうね、実際に見たことはないけど、数日水に浸かりっぱなしだった遺体は、酷いことになる、というものね。まあ、水から引き揚げてどう変わるのか、と言われたら困るけど、この状況を写真に収めてベッドに寝かせておきましょうか」


 そう言って青柳は、自分のスマホを取り出して、現場の状況を写真に収め始めた。

 いくら亡くなっているとしても、女性の裸体を眺めるのが憚られた男性陣は、そっと風呂場から離れた。そこに残ったは、写真を撮る青柳と、それをアシスタントすように命じられた佐曽利の二人だ。

 その間、魚沼は風呂場からベッドのスペースの移動して、部屋の中を見渡した。

 部屋に設置されている家具は、自分が止まっている部屋と何も変わらない。違う個所は、隣の部屋とは左右対称になっていることと、壁に黒い石のようなものでできた飾りがあるところだ。おそらくこの配置は、おひつじ座の並びを模しているのだろう。

 何も触らないように、パンツのポケットに手を入れて部屋を見渡していたのだが、ふととある違和感に足を止めた。

 それは、ベッドサイドに置かれている腕時計だ。

 女性が使うにしては少々大きすぎる、というのが第一印象だが、最近ではこういった大きめの時計を好む女性もいるというので、その考えは頭を振って捨てた。

 しかし、それを抜きにしてもこの時計は社会人一年目だ、と言っていた明村が使うには値が張る時計ではなかろうか。だが、これも彼女の実家がお金持ちで、親に社会人祝いとしてプレゼントしてもらった、と言われればそれまでだ。

 それでもなぜ、この腕時計に違和感を覚えたのか。それは、魚沼にはこれが見覚えのある腕時計であり、なにより、明村がこの時計を身に着けているのを見たことがないからだ。

 咄嗟に魚沼は、近くにいた秤谷を呼ぶ。そしてその瞬間、魚沼はもう一つのあるものを見つけた。

 それは床に広げられている、明村が持ってきた荷物の中に紛れ込んでいた。とても自然に紛れ込んでいたので、彼以外の人間が見たら、誰もが明村の私物だ、と言っただろう。

 そこにあったのは、識名がなくしたブレスレットだった。

 なぜここに……、と思いながら手を出そうとした瞬間に我に返って、手を引っ込めた。


「どうしたんですか、あ、もしかして一昨日言っていたブレスレットって」


「ええ、そうです。しかし、どうして明村さんが?見つけて持っていくのを忘れていたのでしょうか」


 秤谷はそう言いながら荷物の側にしゃがみこむ。彼はブレスレットの現物を見たことがないので、本物かどうかは判断がつかないが、恐らく本人に確認すればいいだろう。


「そういえば、先にどうして僕を呼んだんですか?」


「あ、ええと、見覚えのない腕時計があったので、明村さんのものか確認してもらおうと思いまして」


「なるほど。どれどれ……、ああ、この時計は確かに見たことがありますよ、ただし、明村さんの腕ではなく、霜触さんの腕でですが」


 やっぱりか、と魚沼はため息をつく。その後秤谷がハンカチを取り出して、指紋をつけないようにそっと腕時計を持ち上げた。そして文字盤の裏にあたる部分を確認すると、そこには霜触乙英のイニシャル『O.S』と刻印してあった。これは、彼の腕から消えていた時計で間違いないだろう。

 だが、どうしてここに彼の時計があるのだろう。


「霜触さんが落としたのを拾ったのでしょうか」


「希望的に考えればね、でもそれを持ち続けることになんの意味がある?盗んだと考えるのが妥当じゃないかな」


 いつの間にか撮影を終えた青柳が、浴室から出てきていた。下手に色々触ったわけではないが、しばらく這いつくばるようにしていたため、彼女の洋服は所々濡れている。


「盗む?でも、霜触のおっさんの高そうな時計ならともかく、識名ちゃんのブレスレットは盗む価値ないと思うのだけど」


 続いて浴室からは佐曽利が姿を現した。背中から一突きされたのが死因なのだが、それでも凄惨な姿をしている遺体を長時間見続けていたというのに、彼女はほんの少し顔色が悪くなっているだけだ。素人がこういったものを見て、よく吐かないものだと秤谷は感心した。


「でもそれは佐曽利さんから見た印象でしょう?識名さんにとっては、命の次に大切なものだったかもしれませんよ。それを知っていた犯人は、困らせてやろうと盗んだのかもしれませんし」


「どうだかねぇ。そんなに大切なものを身に着けているとしたら、軽率に由来を見ず知らずの他人に話さないと思うけどね。私の見た限りでは、識名ちゃんは早々簡単に教えてはくれない子だと思っているけど」


 佐曽利に対して魚沼が食い気味に反論するが、彼女もそれに応戦する。

 このままだと口論になってしまいそうだ、となったところを青柳が手を叩いて制止する。


「故人の前で、そんな不名誉な話をしないでちょうだい。今から明村さんをベッドに寝かせる準備をするから、寝具に異常がないか確認して。あと、管理人さんは綺麗なシーツを一枚、余っていたら持ってきてくれませんか?」


 わかりました、と返事をした管理人は足早に部屋を出ていった。

 ベッドの確認を命じられた男性陣は、今度も不用意に触らないようにベッドの周りを確認した。特に異常はなかったので、少し荒れていたベッドの上を綺麗にした。

 それを確認した女性二人が、明村の亡骸を運んできた。力が完全に抜けている体を運ぶのは大変なので、男性陣も手伝おうとしたのだが、農作業で力仕事に慣れている青柳と、何故か力のある佐曽利の二人だけで運ぶことができた。

 運んできた亡骸をゆっくりとベッドに寝かせ、身体に残っている水気を拭きとる。そうしている間に管理人がシーツを持って戻って来たので、それを被せる。顔にシーツをかけようとしたところで、青柳の手が止まる。


「青柳様?どうにかなさいましたか?」


 心配になった管理人が声をかけるが、それに応答はない。ただ持ち上げたシーツをその場に下ろして、じっと顔を見つめだした。

 どうしたのだろう、と一同は見守っていたのだが、急に明村の口をこじ開け始めた。

 驚いた秤谷が、慌てて駆け寄ったのだが、彼もしっかりと顔を捉えた瞬間に動きを止めた。

 明村の口から、なにか白いものが覗いているのだ。

 といっても、半開きになった唇の隙間から歯が覗いているわけではないのだ。歯のような固いものではなく、紙の切れ端のようなものが覗いているのだ。

 それを見つけた青柳が口を開けようと試みているのだが、死後硬直の影響かなかなかこじ開けられない。

 どうにか数ミリこじ開けたところで、目配せをしてきた。取り出してほしいということなのだろう。

 ほんの少し開いた隙間から、どうにかそれを取り出す。取り出してみると、口の中に入っていたのは、四つ折りされた小さな紙切れだった。

 明村がお湯に浸かっていたことと、口の中にあったことが影響して、紙切れはじっとりと湿っている。それを破かないように慎重に開くと、中には若干にじんだ文字が書いてあった。


『ユキを思い出せ』


 その七文字だけが書いてあった。それも、筆跡鑑定に出されることを想定したかのように、定規を当てて書かれたような文字だった。

 秤谷が紙切れを机の上に置くと、その場にいた全員がそれを覗き込む。

『ユキを思い出せ』という文字を読んだ全員が、顔を見合わせる。

 全員の顔が真っ青になっている。

 このメッセージは、一体何を伝えたがっているのだろうか。


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