第七章 四日目昼 館
人を呪わば穴二つ
くしゃみと共に、魚沼は目を覚ました。
最近は暖かくなってきていたので完全に油断していたのだが、山の中というのは普段彼が生活を送っている場所より多少冷え込む。そのせいで寒暖差が発生して、くしゃみが出るのかもしれない。窓がないのに皮肉なことである。それとも、誰か自分の噂話でもしていたのか。
のそりと寝床を這い出して、冷たい水で顔を洗ってぼんやりする頭を覚醒させる。
彼は忙しい日々から抜け出して、休息のつもりで『星見の館』に宿泊に来ていた。しかし、誰にも予想できなかった出来事が起こってしまったのだ。そう、招待客の一人が何者かに殺され、電話は通じず、館の扉も開けることができず、外に出ることも出来なくなってしまったのだ。
普段一人暮らしを送っている魚沼なので、息子が帰ってこないといった形で、両親が通報してくれるということはなさそうだ。バイトの予定はあるが、果たして気がついて連絡はしてくれるだろうか。
しかしとんでもない事態に巻き込まれてしまったものである。もしこれが、誰も殺されておらず、ただ外に出られないという状況で休暇が延長するのなら嬉しいことに変わりはないのだが、この場合は呑気なことは言ってられなさそうだ。
とりあえず身だしなみを整える。招待されていた二泊三日に追加料金を払って、宿泊日数の伸ばしているので洋服の心配はないのだが、正直この状況下で長時間閉じ込められるとなると、精神的にきついものがある。せっかく治りかけてきているというのに最悪なものだ。
時計を見ると、六時半。起きたときに時計は見ていなかったが、おそらく六時起床だろう。彼は平日だろうと休日だろうと、決まってこの時間に起きるのだ。
朝食の時間まではもう少しあるのだが、この状況でも管理人は時間通りに朝食にするのだろうか。一応確認しておくか、と思って内線電話を手に取ろうとしたのだが、なんとなく体を動かしたい気分だったし、飲み物も飲みたかったので直接聞きに行くことにした。
鍵を手に取り廊下に出ると、ある異変に気がついた。
廊下に敷き詰められている絨毯の色が変わっている箇所があるのだ。
なんだ?と疑問に思いつつよく観察すると、それはたった今魚沼が出てきた隣の部屋、明村が宿泊している『白羊宮』の扉から漏れ出してきている液体で、絨毯の色が変色しているのだ。
液体、とは言ったがなにか異臭がするわけではない。おそらく水道水なのだろうが、配水管がトラブルにあったかなにかで漏れ出してきているのだろうか。
首を捻りながら魚沼は扉をノックする。こんな状況になっているのに部屋の宿泊客が気づいていないはずがないので、おそらくまだ寝ているのだろう。少し大きめに、しかし周りの人間に迷惑にならないくらいの声量で、明村の名前を呼ぶ。
しかし、どれほど呼びかけでも反応がない。
そうしている間にも、部屋から漏れ出てきた水は容赦なく絨毯を濡らしていく。
ここまで返事がないとなると、最悪な事態が頭を過ぎる。まさかな、と思いながらその考えを頭を振って振り落とす。もうこうなったら管理人を読んだ方がいいだろう。
螺旋階段を上がって食堂に入る。さすがに七時前だったので中に誰もいなかったが、厨房には朝食を盛り付けている管理人の姿があった。
食堂に入ってきた魚沼の姿に気づいた管理人は、顔を上げて少し疲れ気味の顔で挨拶をしてくれた。
朝食の時間はまだ先ですよ、という彼を遮って『白羊宮』で起こっていることを報告すると、管理人は顔色を変えた。
合鍵を持ってくるので待っていてください、と言って彼が部屋を出ていくのと入れ替わるように、食堂に入ってくる人影があった。
「あら、真面目そうな大学生くんじゃない?」
妖しく笑いながら現れたのは、佐曽利だった。相変わらず一時代前のファッションに身を包んでいた。
「佐曽利さんですか、おはようございます」
めんどくさいので、大学生を大学院生とは訂正しなかった。しかし、相手が自分の名前を魚沼に語ったことがないにも関わらず、名前を知っていたことに驚いたようだったが、すぐに一緒にいた六波羅や識名から聞いたのだろうと納得したようだ。
「朝食を摂りに来たんだけど、管理人さんがいないからまだなのかしら」
「ああ、いいえ。ちょっと僕がお願いしたことがありまして、それで出ていっているだけです」
「おや、佐曽利様、おはようございます。朝食の時間まではまだ少しありますが、どうにかされましたか?」
ちょうどその時鍵をとってきた管理人が帰ってきた。その言葉を聞いた佐曽利は、あらそうなの?と返事をしたが、魚沼と管理人の間にただならぬ気配を感じたのか、急に顔色が変わった。
「ねえ、またなにか起こったの?」
その顔は心配で青ざめているというより、ほんの少しの興味と恐怖が入り混じった色をしていた。
魚沼は話していいものかと管理人の顔を見る。彼は困ったような表情を浮かべていたが、どうせそのうちバレるから、と諦めて何が起こっているのかというのを話した。
それを聞いた佐曽利の顔色が、ますます青くなった。
「ごめんなさい、こんなことで足止めさせてしまって。これは今すぐ行ったほうがいいわね」
そう言うと、何故か彼女が率先して食堂から出ていった。困ったように一瞬二人は顔を見合わせたが、とりあえずは行ってみないとわからないので、『白羊宮』の部屋に向かうことにした。
再び部屋の前に立つと、この場所を離れていたのは数分だったにもかかわらず、絨毯のシミは大きくなっていた。このまま水が漏れだすのを止めなければ、そのうちこの廊下中が水浸しになるだろう。
管理人は、先ほどの魚沼のように扉を叩いて明村の名前を呼んだ。しかし、しばらく経っても、何も返事はない。
こうなると、昨日の霜触同様扉を開けて確認するしかないと判断して、管理人は鍵を取り出した。それを鍵穴に差し込み捻ると、当たり前だが開錠する音が聞こえた。
「明村様、入りますよ」
声をかけながら管理人が扉を開ける。するとその瞬間、もわっとする蒸気が管理人を襲った。
思わず後じさった彼の代わりに魚沼が、そっと部屋の中を覗く。それでこの蒸気の正体がわかった。
風呂場から出てきた水蒸気が、部屋中に充満していたのだ。
そのまま床に目をやると、大量の水を吸った絨毯があった。開け放たれている風呂場から、水蒸気とお湯が部屋の中にあふれて来ているのだ。どうやら、廊下が水浸しになっているのはこれが原因らしい。
足を一歩踏み出すと、絨毯がグジュっという音をたてる。グジュグジュと音を鳴らしながら、風呂場に近づく。魚沼に続いて、佐曽利、管理人が続く。
風呂場の中を覗き込んだ瞬間、魚沼の動きがぴたりと止まる。
それを不審に思った佐曽利が、続いて中を覗き込むと、一瞬で顔が青ざめた。
お湯と水蒸気で満たされたその空間には、異様な光景が広がっていたのだ。
浴槽の淵から垂れる白い腕。蛇口からほとばしるお湯のせいで、ゆらゆらと不気味に揺れる長い髪。一瞬芸術的だと錯覚してしまうような、壁に飛び散った血痕。
カッと見開かれた瞳は虚ろで、しかしこちらを捉えて離さない。
明村だ。明村が、変わり果てた姿で、浴槽に浮いている。
魚沼の横で、佐曽利が「うっ」と嘔吐くのが聞こえた。しかし、すぐに気を取り直したのか、呆然と立ち尽くしている魚沼に指示を飛ばした。
「大学生くん、今すぐ『天秤宮』の秤谷さんと『磨羯宮』の青柳さんを呼んできて、早く!」
そう急き立てられて、魚沼は『白羊宮』の部屋を飛び出した。
彼はなぜ秤谷と青柳を呼ぶのか、という理由は知らなかったが、鬼気迫る表情でいわれれば、そうせざるを得ない。
廊下を反時計回りに周って、最初に『磨羯宮』の扉を叩く。すると、すぐに身だしなみを整えた青柳が姿を現した。
最初は突然部屋を訪れた魚沼に不信感を抱いていたようなのだが、明村さんが……と話を切り出すと、さっと顔色が変わった。
「わかった。明村さんはどこの部屋に宿泊していたの?」
部屋を飛び出した青柳の背中を見送り、また廊下を歩いて今度は『天秤宮』の扉を叩いた。こちらもすぐに、身だしなみを整えた秤谷が姿を現したが、こちらは眠そうに目をこすっていた。
再び明村さんが、と話を切り出すと、彼も顔色を変えた。詳細は語らなかったが、魚沼の声音と顔色で何かを察したのだろう、青柳さんには声をかけた?と聞かれた。
「青柳さんは先に声をかけて、もう部屋に入っています」
「そうですか、ありがとうございます。君も随分と顔色が悪いですが、一緒に来ますか?それとも部屋で休みますか?」
「いえ、大丈夫です。手伝わせてください」
秤谷と魚沼は連れだって『白羊宮』の部屋に向かった。
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