第二章 一日目 探偵事務所

探偵は、椅子の上に

「げえっ、なんですかこの部屋は!」


 出張から帰ってきたばかりの私の目に飛び込んできたのは、床一面に広がった本、いや、出張に出る前には本は積みあがっていたはずなので、雪崩を起こしたというのが正解だろう。少しは片付いているものと思ったが、甘かったようだ。少しでも期待した数日前の自分に文句を言いたい。


「おかえり、明日帰るんじゃなかったのかい?」


 この部屋の主は、キャスター付きの椅子の上に座り、本を持ってくるくると回転していた。毎度思うが、よく目が回らないものだ。


「ゆっくりしてくるつもりでしたよ。でも刑事さんが仕事を依頼したいって連絡があったんでしょ?それに、出かける前にここを散らかしていきましたからね、そんな状態で客人を迎え入れるわけにはいかないでしょ」


「そうかなぁ、あまり気にしないと私は思うよ」


 あなたが気にしなくても俺が気になるんです!と言いたいのをどうにか堪え、まだ手に持ったままだったボストンバックを、給湯室に押し込んだ。

 ちらりと時計を確認すると、午前十時、来客があるまであと一時間。全部片づけられるとは到底思えないので、とりあえず人様が見ても大丈夫なくらいにはしておきたい。


「自分で片付けるって言いだしたんですからね、手伝わないといけませんよ。そこの引き出しにビニール紐とハサミが入っているので持ってきてください」


 ワイシャツの腕をまくりながら言うと、椅子の主はしぶしぶそれに従った。いくら何でも立案者はあなたなんだから、無理やりやらされている感を出すのはやめてほしい。

 床に散らばった本を、種類ごとに集め始めた私――大神おおがみ末治すえはるは、ここの主――仙谷せんごくれいに雇われてかれこれ数年は経っただろうか。

 私の職場は、探偵事務所だ。

 勿論基本的な業務は不倫調査、信用調査に人探しである。先日までの出張も、その仕事の一環だ。本当ならもう少し羽伸ばしに滞在したかったが、来客があると聞いて、急いで帰ってきたのだ。

 今横で本を縛る作業をしている、この探偵事務所の所長・仙谷怜は、自称年齢不詳の女探偵である。自称年齢不詳とは言うが、少なくとも私よりは年上だ。

 セミロングで少し色素の薄い髪を一つにまとめて後ろに落とし、そこそこよれたスーツに身を包んだ女性。顔の形が悪くないのだから、もう少し自分の身だしなみに気を使ってほしいものだ、と常々考えている。

 彼女がまた変わった人間で、探偵事務所というものを構えておきながら、設立二年目に私が入社するまで、依頼を受けていなかった。

 それもそのはず、ただ探偵事務所というものを作っただけで、建物に名前も出さず、何かしらの手段で宣伝することもなかったために、誰も依頼に来なかったのだ。

 また、その間彼女がどうやって食い扶持を繋いでいたのか、どうして私がここに入社することになったのか、といった話は割愛させていただく。なにせ、早いところ片付けてしまわないと、客人が来てしまうのだ。

 なぜこんなにも客人におびえているのかというと、理由は二つある。第一に、この散らかりすぎた事務所で、人を迎えるのは人間としてどうかと思う。

 幸いなことに、この部屋を埋め尽くしているのは、ゴミではなく書物のみであるということだ。いや、自分で言っておいてなのだが、何が幸いだ。そもそも事の発端としては、所長が住居スペース(事務所は二階建ての建物で、二階の部分が彼女の住居になっている)にある書斎の本を整理したいと言い出したことから始まるのだ。

 ただでさえ今は人手が足りていないので難しいですよ、と言ったのに、このまま私が書斎で埋もれてしまってもいいのか、職を失うよと半ば脅されてしまっては仕方がない。応急処置として、事務所スペースに書物を移動させていたのが災いしたのだ。

 その災いの張本人はというと、


「ああ!この本は本棚の中に入れておきたかったやつだ!」


 呑気に再びの本の選別を始めた。終わる気配がしない。

 二つ目の理由は、これはもう、説明するより先に来てしまいそうだ。

 コンコンと扉をノックする音が聞こえた。気が付けば約束の時間が迫っていた。誰にも聞こえないよう、そっとため息をつき、返事をしてから扉を開けた。


「こんにちは、大神さん。ご無沙汰しております」


 扉の前に立っていたのは、品のよいスーツに身を包んだ男性と、こちらもまた、おしゃれなパンツスーツに身を包んだ女性が立っていた。

 男性は人懐っこい笑みを浮かべているが、その顔はどことなく疲れている。女性も、笑みこそ浮かべていないが、引き締められた顔の中に、疲れが見えている。


「来たのか、さあさあ入ってくれ」


 奥から所長が催促し、男性は「お邪魔します」と言って事務所の中に足を踏み入れた。

 二人が応接セットのソファーに腰掛けると、彼らの九十度右手に設置してある一人用のソファーに所長が腰掛け、にやりと不敵に笑う。


「今日はまた、随分とお疲れじゃないかな?


 二つ目の理由は、これだ。

 先ほども述べたように、ここの所長は随分と変わり者である。私が入社するまで依頼というものを受けず、ここに就職した後も、依頼された仕事をこなすのは私の仕事だった。そう、彼女はのだ。

 しかし、彼女の職業はである。それも、の仕事を受けているのだ。

 どういった経緯で、彼女がこの探偵稼業を始めたのかは知らない。難事件に携わっている探偵とは知らず、初めて刑事がここにやってきたときは、自分が就職した会社が、裏で危ない仕事をやっていたのではないかと疑ってしまった。

 それまでこの仕事のことを、所長自ら話すことはなかった。彼女が活躍してくれたおかげで、解決することができた事件がいくつもある、と教えてくれたのは、当時担当していた刑事から聞いた。


「ええ、世間一般は大型連休ですが、犯罪は連休なんて関係なく起こりますからね」


「まあ、確かに。でもここ二、三日は私のところに来るような事件は起きてないんじゃないか?少なくとも発表されている分には」


「ここ数日は、ですけどね」


 男性の刑事――猿渡さわたり源貴げんきは、意味深にそう呟く。

 これは何年もこういった事件に携わるうちにわかって来たのだが、こういった空気になるとき、彼らはとんでもない爆弾を運んでくるのだ。

 これは長丁場になるぞ、そう覚悟して、お茶を出そうと給湯室に足を向ける。その瞬間、私のシャツの背中の部分を誰かが掴み、無理やり空いているソファー、刑事たちの目の前に座らされた。

 誰が引っ張ったのかと後ろを振り向くと、所長が怖い顔をして立っていた。


「お茶は私が入れる、お前は座っていろ」


 そう言い残すと、彼女は給湯室に消えていった。

 雑用は基本的に私の仕事、ともう一人今はいない同僚の仕事なのだが、どうして般若のような顔をして、自ら雑用をするのだろう。いままでこんなことはなかったのだが。

 私が呆気に取られている顔が面白かったのか、今まで無表情だった女性の刑事――飯沢いいざわみのりが、こらえきれなくなったように笑いだした。

 急になんだ、疲れすぎておかしくなってしまったのだろうか。そう思っていると、隣に座る猿渡も、くすくすと笑いだしたではないか。やっぱり、二人はおかしくなるほど疲れているのだ。


「大神さん、どうして仙谷さんが給湯室に行ったかわかりますか?」


 猿渡が、男性にしてはぱっちりとした目を、三日月のような形に細めながら言う。言葉にすると少し怪しい笑みのように聞こえるのだが、彼はその笑みの時が一番面白くて笑っているときなのだ。

 なぜ所長自ら給湯室に行ったのか、考えられるとすれば、冷蔵庫に何か隠している?いや、それなら自室の冷蔵庫を使うはずだ。

 そうしている間にも、盆に人数分の湯飲みを乗せた所長が帰ってきた。


「お前が出張に行っている間に、いい茶葉をもらったんだよ。いい茶葉にはいい入れ方というものがあってね……」


 そこまで言われると、ある一つの記憶がよみがえった。

 この事務所に就職したての頃だった。


「あの時は驚きました。先輩刑事に連れられてここに来たんですが、あまりの個性的な味にびっくりしてしまって……」


 顔が一気に熱くなるのを感じる。

 そうだ、就職したてで、初めて急須でお茶を入れたときのことだった。猿渡は『個性的な味』だと、オブラートに包んで言ってくれたがとんでもない、ただお茶を入れただけなのに、この世の飲み物とは思えない味になったのだった。

 当時の猿渡は思わずお茶を吹き出し、彼を連れてきた先輩刑事も「才能がある助手が入ってきたね」と皮肉のような誉め言葉を残していた。それ以来、私がお茶を入れるのは禁止され、長いことペットボトルの飲料しか使ってこなかったのだ。

 先ほど飯沢が笑い出した辺り、私の良くない噂は、しっかりと後輩に受け継がれていってしまっているようだ。なんと、まあこれは、末代までの端である。猿渡と先輩刑事には、墓場まで持って行ってもらいたかった。

 私が恥ずかしさのあまり、身をこわばらせている間にも、所長はお茶をテーブルに並べ終えていた。そして彼女の定位置に座る。その瞬間に、彼女の顔つきが変わる。


「お待たせしました。改めて話をお伺いしましょう」


 場の空気が一気に引き締まる。刑事たちは顔を見合わせて頷き、後輩が話を切り出した。


「仙谷さんは、昨年、世間を騒がせた連続殺人事件をご存知ですよね?」


「もちろん、ニュースにはしっかりと目を通していますから」


「今回お願いしたいのは、この事件です」


 刑事がそう発した瞬間、探偵の顔が少し眉をひそめたように見えた。いや、実際そう見えたのは私だけだ。長年助手をやっていると、微妙な顔色の変化に気づけるようになっていた。

 私は、探偵のその反応が意外だった。毎回、警察が持ってくる事件に対しては、「絶対に解決してみせます」と自信ありげに言っているのだが、この反応は彼女の何かを刺激したらしい。


「連続殺人事件……ですか」


「はい、是非とも仙谷さんの力をお借りしたいんです」


 刑事たちは、探偵の表情の変化に気づかない。いつもなら即座に「わかりました」と返事をするところなのだが、今回は少しだけ間が空いている。

 だが、その時間はほんの数秒だった。


「わかりました、事件の概要を聞きましょうか」


 彼女は真っ直ぐ刑事を見据える。


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