夜空を仰ぐ

 晩御飯を終え、部屋に戻ったのが七時半。集合時間の二十一時まで時間があったので、ひと眠りでもしようかと思ったが、諦めた。

 特に今日何か体を動かしたわけではないが、妙に疲れている。昼間の精神的な疲れだろうか、正直今眠ってしまったら、朝まで安眠コースをたどりそうだ。時間を潰すため、先ほどおすすめしてもらったばかりの小説を開く。


 読書に夢中になっていて、ふと時計を見ると、なんと集合の二十一時が迫っていた。

 慌てて本を閉じてベッドの上に放り出し、鍵をとって廊下に出た。すると、同じような行動をとっている人間がもう一人いたようで、六波羅の宿泊している真向いの部屋から、男が一人出てくるところだった。

 年のころは、二十代半ばぐらいだろうか。短く切った黒髪に、まだ五月ながら日焼けした顔。ガタイの良さを考慮すれば、おそらく建築業関連の職人だろうか。

 彼は、六波羅の姿には気づいているようだったが、会釈などなにも反応を見せることはなく、螺旋階段を上って行ってしまった。その背中を追うようにして、六波羅も二階に上る。

 サロンに集合と言われていたので、そちらに足を向けると、両開きの扉が開け放たれており、どうやらもう全員集まっているようだった。先ほどの男性に、相変わらず喋り続けるおじさん集団、図書室メンバーも本の話題に花を咲かせており、最初に話しかけられた佐曽利という女もいる。そして、もう二人見知らぬ男女も話をしていた。この二人が、残りの招待客だろう。

 六波羅がサロンに足を踏み入れると、部屋の真ん中に立っていた管理人が、待っていましたと言わんばかりに、話を始めた。


「皆様、大変お待たせいたしました。これより皆様を、三階、『星見の間』にご案内いたします。二階から三階に上がる階段は、少々狭くなっておりますので、どうぞ一列になってゆっくりお進みください」


 最初にぞろぞろと動き出したのは、もちろんおじさん集団だ。先頭を社長が、続いて専業主婦が、といった感じに進んでいく。図書館メンバーに続いて歩いて行こうとするが、その前を作業員が半ば割り込むような形で歩き始めた。

 ここがラーメン屋なら、「割り込みだ!」と言って非難しているところだぞ、と六波羅は内心毒づく。

 最後尾となってしまい、螺旋階段に足をかけて数段上ったが、上で詰まっているのかなかなか動かない。もしかしたら、牛島が上るのに苦労しているのかもしれないと思ったが、どうやら違うようだ。既に三階にたどり着いたであろう人間の歓声と、どうぞ立ち止まらずに中にお進みくださいと言う管理人の声が聞こえてくる。

 目の前の男が、たまらず舌打ちをする。気持ちはわからなくもないが、彼の目の前にいる識名が、自分が舌打ちされたのではないかと勘違いし、恐縮しているので、人に聞こえるようにやるのは褒められた行いではない。

 のろのろと進んでいた列が、ようやく二階から姿を消した。最後の階段を上りきったとき、驚きのあまり、目を見張った。

 そこには、満天の星空が広がっていた。

 漆黒のキャンバスの上に飛び散った色とりどりの絵具。天の川ミルキーウェイとはよく言ったものだ。テーブルの上にこぼしてしまった牛乳のように、白い川がつらつらと流れている。天板の上から滴り落ちる水滴が、やがて流れ星となるのだろうか。チーズのような味を想像して、少しだけ口が寂しくなる。

 なんて、小学生の社会科見学以来だ、と懐かしさに浸ったところで、違和感を覚える。

 頬をかすめ、髪を揺らす風が少し肌寒いが心地よい。それに、先ほどから聞こえ続けるこのノイズはなんだろうか。ジィジィと鳴り続けている音が、気にはなるが不快感はない。

 いや、違う。これはではない。


「都会育ちの皆様にはあまり馴染みがない光景かと思われますが、こちらは正真正銘、星空でございます」


 いつの間にか管理人は姿を消しており、その代わりにスピーカーから彼の声が聞こえてきた。

 彼のゆったりとした声が、近くにある椅子に、好きなように座って欲しいと促した。明かりらしい明かりがないので、探すのに手間取ったが、パイプ椅子のようなものを一脚見つけ、そこに腰を下ろした。


「それでは、今見える星座の解説をしたいと思います。十分程度スクリーンに映し出される星空に変わりますが、解説が終わり次第、元の星空に戻ります」


 管理人がそう言い終わると同時に、低い機械の作動音が聞こえだした。空を見上げると、無機質な天井が星空を遮っていった。

 やがて作動音が止むと、先ほどまで星見の展望台だった場所は、よく見るプラネタリウムへと姿を変えていた。

 天井のスクリーンには、先ほど見たばかりの星空が映し出され、管理人のゆったりとした解説が始まった。


 ――こちらのスクリーンに映し出されているのは、先ほど皆様がご覧になったものと同じものですが、普段なら見えない星も少しだけ明るく設定しております。

 ではまず、皆様は『夏の大三角』ご存知ですか?ベガ、デネブ、アルタイルからなる三角形ですね。それと同様に、春には『春の大曲線』と『春の大三角』が存在します。

 『春の大曲線』とは(ここでスクリーンに色つきの線で、場所が示された)北斗七星の柄の部分から伸びて、アルクトゥールス、スピカに続く曲線です。さらにこの曲線をのばすと『からす座』という星座に到達します。

 『春の大三角』は、先ほども登場したアルクトゥールスとスピカ、さらにデネボラを結んだ三角形です。

 この星空には、何種類もの星座が浮かんでいますが、誰もが知っている星座の解説から始めましょう。

 こちらの館で皆様がお泊りになられている部屋には、それぞれ十二宮の名前を付けております。また、この十二宮というのは、よく星座と言われて想像する十二星座と同意義です。

 この十二星座がどのように選出されたかと言いますと、こちらの(今度は黄色い線がスクリーンに表示される)黄道を通る星座であるからです。そのために黄道十二星座とも言われております。

 前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。今黄道に見えているのは、ふたご座、かに座、しし座、おとめ座、てんびん座ですね。ふたご座は冬の星座に分類されますが、残りの四つは春の星座と言われています。

 この中で一番探しやすいのは、先ほど『春の大三角』に登場したスピカをもつおとめ座と、デネボラをもつしし座でしょうか。こちらをご覧ください……。


 招待客は、すっかり星空に魅入られていた。特に、都会育ちで、街の明かりに負けて本物の星空を見たことがなかった若い世代には、かなり新鮮な体験だった。最初はたかが星空と侮っていたが、星空に想いを馳せ、昔の人々が紡いだ物語には、誰もが魅了された。

 また、それは今まで生き抜いてきた世代にも同様だった。日々の生活に忙殺され、子供の頃のように無邪気に空を見上げるなんてことを、すっかり忘れていた。あの頃は、夜にぽかんと口を開けて、少し間抜けな顔で空を見ていたというのに、今は夜道を早く帰ろうと、帰路を急ぐことしかしていない。

 やがて、管理人の解説は終わり、ゆっくりと星空が消えていった。それと同時に、再び機械の作動音が聞こえ、星が姿を現した。

 自然と拍手が沸き起こった。解説されている間に見つけた機械室のような場所を見ると、管理人は恥ずかしそうに、でもどこか誇らしげに笑っていた。


「素晴らしい星空と解説でした!本当に、ここに招待していただいたことに、なんとお礼を申し上げたら!」


 興奮しているのか、社長の言葉が演説めいている。椅子から立ち上がり、管理人に握手を求める。まるでスタンディングオベーションだ。


「お褒めに預かり光栄です。オーナーにもしっかりと伝えておきます」


「ええ!是非ともそうしていただきたい!ここが正式にオープンしたときには、是非とも家族を連れてやってきたいものです」


 言葉だけ聞くと、大層なお世辞に聞こえるのだが、どうやら本当に感動しているらしい。彼なら有言実行しそうだ。


「これで星空の解説は終わりますが、もうしばらくお付き合いください。こちらの『星見の館』についても少しだけ解説いたします」


「ぜひともお願いするわ。招待状が届いて、あんな場所に建物なんてあったかしら?と思って調べても、なあんにも出てこなかったわ」


 雑誌記者が興味深そうに言う。確かに招待状が届いて、ホームページを見たが、それ以外にこの館に関する記事などは見当たらなかった。素人が探すのでは限界があるが、その手のプロである雑誌記者が見つからないと言うのだから、本当になにも見つからなかったのだろう。


「そうでしょう、この館はオーナーが自分で山を登って発見するまで、人に忘れ去られて朽ち果てる寸前でした。周辺の住民、と言ってもここから歩いて一時間半はかかりますが、に聞いても、そんなところに館があるだなんて知らなかったと言っていました。そこからどうにか持ち主を探して、ここを買い取られたわけです」


「なるほどね、それと、オーナーさんが山を登ったのは、もしかして夜?」


「正解です。オーナーは星を見るのが好きですから、時間さえあれば、全国各地星の名所と言われる場所を駆け回り、時には自ら穴場のような場所を探し回ることもあります。そんなさなかに見つけたのがこの館で、一目で気に入ったオーナーは、これを独り占めするのはもったいないと、宿泊施設に改築して、最初のお客様、皆様方を招待いたしました」


 星空を独り占めしたくないとは、このご時世になかなかの聖人である。その心優しい行いによって、疲れていた気持ちが一気に浄化されたのは事実だ。どこにいるのかはわからないが、姿の見えない聖人に、六波羅は心の中でお礼を言う。

 それで今日の話は終わりだったようで、管理人はごゆっくりお休みくださいと頭を下げた。


「消灯時間、日付が変わる頃まではここを開放しておりますので、ご自由にお入りください」


 その言葉を合図に、何人かは螺旋階段を下りていったが、おじさん集団と図書室メンバーは、管理人に聞きたいことがあったらしく、そちらの方に歩いて行った。

 六波羅は席から立ち上がらなかった。ぼんやりと星空を眺め、胸いっぱいに息を吸い込む。

 しばらくは、ここから動けそうにない。

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