不安は広がる

 部屋をノックしても反応がない、という時点で蟹江が今どういう状況であるのかの想像はついていたのだが、ここはさすがのプロ精神か、管理人は鍵を開ける時に声をかけるのを忘れなかった。

 秤谷も青柳も、念の為と耳をすませていたのだが、物音一つ聞こえない。

 やがて鍵が開き、管理人が先導する形で部屋に入っていく。

 蟹江は、部屋に備えつけられている机にうつ伏せになる形でこと切れていた。

 先を歩む管理人の足が止まる。声も出せず、真っ青になってただ震えるだけだ。

 そんな彼を無視するように、元医師たちは蟹江の傍に近づく。

 社長は、今の彼の拠点である部屋の中にいるにもかかわらず、きっちりとした白シャツとスーツ地のズボンを身につけていた。あまり洋服に詳しくない秤谷ですら、よい品であると理解出来た。

 こちらに向けられた背中は、血でぐっしょりと濡れている。おまけに、彼のまとっているものが白シャツなので、余計にその赤味が目立っている。血を見慣れている人ですら、目を逸らしたくなるくらいに。

 そこで秤谷は、ある違和感を覚えた。思わず青柳の顔を見ると、彼女も気がついていたようで、小さく頷いてから蟹江に駆け寄った。

 蟹江の着ている白シャツは、ぐっしょりと血に濡れており、光が当たって光っているのだ。

 流れ出た血が、ほとんど固まっていない。つまりこれは、


「蟹江さんは、まだ殺されてから……?」


「そうみたい。脈はないけど、まだ体がほんの少しだけ温かい」


 首筋に手をあてがっていた青柳が答える。


「で、では、蟹江様に救命措置を施せば、助かる可能性は……?」


「いいえ、申し訳ないけど、この出血量じゃ無理。まだせめて、医療器具が揃っているなら、少しだけ希望はあったかもしれないけど」


 その言葉で、管理人はわかりやすいぐらいに落胆した。それもそうだろう、四人目の被害者が出てしまったのだから。


「見た感じ、まだ殺されて一時間も経過していない。死因は、背後から心臓を一突きされての出血多量、失血死ね、今までの被害者と同じ。そして、口の中には」


 そう言いながら、青柳は蟹江の口の中から見覚えのある折り方をされた紙片を取り出した。

 じっとりと濡れている紙を開くと、案の定そこには『ユキを思い出せ』という文字が書いてあった。


「蟹江さんまで……。もしこれが誰かの企てた復讐だとして、蟹江さんは誰かに恨まれるようなことをする人のようには見えなかったのに」


「外見だけで人を判断しないの。もしかしたら、この場所に来ている間だけは善人ぶっていて、実社会に戻れば暴君だったのかもしれない。そもそも、社長という役職についているんだから、恨まれてなんぼの世界よ。大体、その理屈ならとっくに殺されていてもおかしくない人が一人いるでしょう?」


 そう言われると、なぜか妙に納得してしまった。管理人は顔をしかめただけだったが、一人というのが誰を指しているのかは理解したらしい。特に同意もすることなく黙っている。


「さて、先程『管理人さんは殺人犯ではない』的なことを言っていた秤谷くん。この状況は非常によろしくないと思わないかしら?」


「ええ、それはもう、とても」


 秤谷は憐れむような顔で管理人を見つめた。

 話題に挙がっている張本人は、ただ悲しげに微笑むだけだった。


「一応、私ではない、と否認はしておきます。ですが、マスターキーも持っている、殺害したと思われる時間帯に、誰にも怪しまれることなく客室階にいた。この条件がある中で、誰が無実だと信用してくれるでしょうか」


「誰も入っていない管理人さんの部屋から、被害者たちを殺害した凶器でも出ようものなら、言い逃れは出来ないでしょうね。ただ、私たちには犯人を追及する権利、誰かを裁く権利というものは持っていない、これは司法の仕事ですから。とりあえず、管理人さんが不当に責められはしないように努力はしてみますが、この状況ですからね」


 そう言いながら、青柳は大袈裟に肩を竦めた。

 最後にこの現場をざっと見て、数枚携帯のカメラに状況を収めてサロンに戻ることにした。

 蟹江の死因は、先程青柳が判断したように、背後から心臓を一突きされたことによる失血死。例のごとく、凶器はない。

 流れ出た血によって洋服及び椅子が濡れているのはもちろん、凶器を引き抜いた時に飛び散ったと思われる血飛沫の痕跡が、絨毯の床に広がっている。

 先程遺体で発見された牛島は苦悶の表情を浮かべていたのに対して、意外なことに蟹江は穏やかな表情で死んでいた。机で居眠りしていたときに殺害されたように思える。

 しかし、机で居眠りしていたというのには少々無理がある。何かしらの作業があって、眠気が襲ってきたのでほんの少し眠るだけのつもりで居眠りしたと仮定しても、机には何か物が乗っていた形跡はない。

 もちろん殺害された後に片付けられた、というわけでもなさそうだ。飛び散った血痕が不自然に途切れている箇所はないので、殺害された当時から何もなかったことが見てとれる。

 それに、そもそもこの時間に机で居眠りするというのも不思議な話だ。

 蟹江が学校の机で居眠りスタイルというものでしか睡眠をとることが出来ない体質ならともかく、この時間帯でベッドに入って睡眠をとらないことがよくわからない。

 少しばかりこのことが気がかりだったが、自分が考えても仕方ないと、秤谷は考えるのを諦めた。

 時間の経過とともに変化してしまう箇所だけを撮影し終えた青柳は、皆の待つサロンに戻ろうと声をかけた。


「管理人さん、この出来事を皆に話しますよね?」


 青柳が発した疑問の趣旨をよく理解できなかったようだが、管理人はそのつもりではいますが、どうしてでしょうか?と質問を返す。


「ああ、いえ、ちょっと個人的な質問なので気にしないでください。お辛い役割を押し付けてしまっているようで申し訳ないです」


「お気になさらないでください、今この館の責任者は私ですので、ここの中で起こった出来事の説明責任は私にありますので。仕事の一つだと思って気にされないでください」


 管理人は相手を納得させるためか、それとも自分を鼓舞するつもりなのか場に似合わない笑みを浮かべて答えてくれた。

 再び管理人が先頭に立って部屋を出ようとすると、青柳はそっと秤谷に近づいてきて、耳元で囁いた。


「ここからが正念場だよ、秤谷くん。決して集中を切らさないようにね」


 彼女が何を言いたかったのかというのはわからなかったが、かつて同じ職場に勤めていたときに、彼女の判断が正しかったことを思い出した。

 離れてしまって暫く経つが、そんな青柳がそういうのだから、その言葉に従ってみるか、と胸の内で呟いて秤谷も部屋を後にした。

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星見館の殺人 末巳 怜士 @Missofish

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