陸の孤島

 建物の中に戻った二人は、青柳がいるサロンに戻ることにした。状況を報告するためと、気を失っている識名が心配だからだ。

 部屋の中に入ると、識名はまだ眠っていた。彼女の横に、心配そうな顔の青柳が座っているが、目覚めないことの心配というよりも、この状況を心配しているのだろう。案の定、電話線が何者かに切断されていること、車が壊されて動かないことを報告すると、顔が青ざめるのが見えた。

 二人の様子を確認した管理人は、一度招待客の部屋を周って安全を確認してくると言って部屋を出ていった。もしかすると霜触を殺した人間が、館の中にいるかもしれない、と同行を申し出たのだが、寧ろ女性二人がいるこの部屋にいてほしいとのことだったので、おとなしくそれに従うことにした。

 管理人が部屋から出ていくと、サロンの中はしんと静まり返る。この二人は普段よく話す方なのだが、人間が殺されている状況で何かを話すほどの元気はない。だが、この沈黙はあまりにも耳が痛いし、何より何か少しでも話していないと、不安で心が押しつぶされそうだった。


「青柳先生、そういえばどうして病院を辞めてしまったんですか」


 秤谷から話を切り出すと、青柳は苦い笑いを浮かべた。


「先生はやめてちょうだいよ、もう病院には勤務してないんだからさ。それより、私は秤谷先生がやめたことの方が気になるんだけどね」


 彼女はそう言うと、席から立ち上がり、備え付けられているコーヒーメーカーの方に歩いていった。

 やがて二杯分のコーヒーを入れて戻ってくる。秤谷に手渡したのは、ミルク入りのコーヒーだ。どうやら好みの味を覚えてくれていたようだ。

 青柳は自分のブラックコーヒーを一口飲んでから話をつづけた。


「まあ、なんていうのかなあ。医者として人の命を救うことに疲れちゃったというか、なんというか。いくら医者でも、助けられない命がいくつもあることを知ってはいたんだけどね。しかも、救急医なんて、手遅れになった患者さんが来ることも多いっていうのにね」


 それには秤谷も同意だ。他人の命を救いたいがために医者になったのは良いのだが、それで助けられなかったら、落ち込んでしまうことはままあるのだ。彼自身も、医者になる前から、全ての命を助けられるわけではない、所詮自分は人間で神などではないのだから、できることなどたかが知れている、というのを頭では理解していたのだが、実際現場に立ってみると、自分の無力さに打ちひしがれた。

 二人が勤めていたのは救急科だったので、入院患者と交流して、その患者を亡くす、という経験は少なかったのだが、搬送されてくる患者から零れ落ちる命を救い取ることができず、悔し涙を飲んだこともあるし、なにより人手が足りず、受け入れられなかった患者のことを思うと、胸が締め付けられる思いがするのだ。おそらく別の病院には搬送されているのだろうが、助かったかどうかまではわからない。

 そんな人たちを助けたいという思いから、二人は救急医になったのだが、それでもできることは限られていた。仕方のないことだと割り切ろうとしたが、それでもなかなかうまくいくことはなかった。


「多少割り切ることができるようにはなって来たんだけどね、でもちょうどその時期に、父親が倒れたって話が入って来たから、これ幸いと田舎に引き返しちゃったんだよね。秤谷先生も?」


「先生はやめてください。まあ、でも僕も同じようなものです。ただ、先生ほど長くは勤められませんでした」


「まあ、限界ってのは、人それぞれだからね。たまたま私は秤谷先生より耐えられただけで、たまたま私より限界が短かっただけだから、そんなに気にすることはないよ」


 青柳はそう言って、ニッと笑った。彼女はよく、この太陽のような笑みを浮かべて、患者だけにとどまらず、医療関係者、患者の家族も不思議と安心させてきた。どんなに疲れていても、あの笑顔を見ると、もう少しだけ頑張ってみようかな、という気持ちにさせられるのである。

 今回も思いがけないトラブルに巻き込まれたが、再びこの笑顔を見ることができて、どこか安心できた秤谷がいる。

 話がひと段落したところで、扉が控えめにノックされる。はい、と青柳が返事をすると、顔を出したのは管理人だった。

 疲れ切った彼の顔を見た青柳が、反射的に立ち上がる。そのまま、再びコーヒーメーカーに向かい、もう一杯コーヒーを持って帰ってきた。今度は、ミルクとシュガースティックを二つずつ手に持って。


「管理人さん、お疲れ様です。どうでしたか?」


「すみません、青柳様、ありがとうございます。一応、残りのお客様全員の安全の確認と、車を修理できそうな方、今の状況でも電話が通じそうな方を探してきました。皆様お部屋で就寝しておりました。また、電話が通じそうな方はいらっしゃりませんでしたが、牛島様がもしかしたら修理できるかもしれない、とおっしゃっていました」


「もしそれで車が修理できればいいのですが……。一つお聞きしたいのですが、客室を周るときに、霜触さんが殺されていることを話しましたか?」


「いいえ。とりあえずは、明朝皆様がお揃いになってから話した方がいいかと思いまして。部屋を周る際には、電話線が切れているので、外に連絡ができないこと、またインターネットが使えないことをお知らせしてきました」


 そこでようやく管理人は、コーヒーを一口飲んだ。彼はもしかすると、猫舌なのかもしれない。

 その後しばらく、今後のことについて話し込んでいたのだが、時計が四時を指したところで、管理人が中座した。これから、宿泊客の朝食を作るという。

 こんな状況でも、料理を作るという彼のプロ根性は脱帽ものだが、そういえばこの館すべてを、彼一人で管理しているのだろうか。

 宿泊客が数人だけなら、彼一人でもすべての業務が間に合うかもしれないが、入れ替わり立ち代わりで宿泊客が入るようになれば、彼一人では追いつかないのではなかろうか。

 その話を少しだけ振ってみると、


「楽しいので問題はないですし、これから本格的に動きだす、ともなれば、清掃業者は別に入れる、とオーナーもおっしゃっていました。それに、今回にしても、食べ物だけはある程度下準備を済ませているものなので、特に問題はないですよ」


 とだけ言っていた。

 彼が部屋を出ていくと、再び沈黙が襲った。識名は相変わらず眠ったままなのだが、呼吸に乱れはないので大丈夫だろう。

 自然と二人の口からあくびがこぼれる。昔は夜更かしなど余裕だったのだが、年を重ねるにつれて段々と辛くなってきた。だが、今はコーヒーのお陰で、どうにか起きていられる。

 せめて識名が目覚めるまでは起きていよう。朝食を終え、管理人が警察を呼んで、到着するまでの間に多少は眠ることができるだろう。

 そう考えていると、誰かがサロンの扉を開いて中に入って来た。

 驚いて立ち上がって身構えたが、顔を覗かせたのは六波羅だった。

 彼は、室内にいる三人の姿を認めると、不思議そうな顔をした。


「あれ、お二人とも寝なかったんすか?」


「ええ、ちょっとトラブル……。識名さんが倒れちゃったみたいでね。六波羅くんこそ、こんな時間にどうしたの?」


 彼は少し恥ずかしそうに頭をかいた。


「いやあ、先ほど管理人さんが部屋を周ってきてですね、起きて話を聞いたのは良いんですが、一回起きると寝られなくなる体質なもんで」


「それは羨ましい体質ね、私朝が弱いから譲ってほしいくらい。暇つぶしにサロンに来たの?でも、図書室の方が時間は潰せない?」


「まあ、それはそうなんすけどね。廊下を歩いていたら、ここの部屋の明かりが漏れていたんで、誰かいるのかな、と思って覗いたんですよ」


 その説明をしながら、彼もコーヒーを入れた。どうやらこのまま朝食まで起きているようだ。

 しばらく三人で話し込んでいると、廊下の方から鈍い衝撃音が連続して聞こえることに気がついた。なんの音かはわからず、三人で顔を見合わせて首を傾げていると、六波羅が「見に行ってみますか」と切り出した。

 それに賛成した秤谷が椅子から立ち上がろうとしたのと、管理人が青い顔をしてサロンに飛び込んでくるのが同時だった。


「管理人さん!どうかしましたか」


 驚いた秤谷が駆け寄り、それに続いて六波羅も側にやって来る。

 六波羅の姿を認めた管理人は、少し混乱しているのか、状況に似合わず「六波羅様、おはようございます」と挨拶をした。


「挨拶はいいんすよ、何があったのかだけ教えてください」


 促された管理人は、深呼吸をして少し心を落ち着かせる。


「玄関が開かないんです」


 え?と驚く三人に、見に来てもらった方が早いです、と言った管理人は、そそくさと部屋を飛び出して行ってしまった。男二人は即座に続いたが、青柳だけは未だに眠っている識名が心配だったので、迷った挙句部屋に残ることを選択した。

 長い廊下を抜けて、先日くぐったばかりの玄関扉の前に立つ。


「管理人さん、ここの鍵は?」


「そこの取っ手の下に二つあります。つまみが真っ直ぐになっていれば開いています」


 そう言われたので、早速つまみを確認する。二つとも真っ直ぐな状態になっている。一度捻って横にしてみると、カチリと鍵が閉まる音が聞こえた。もう一度元の方向に戻すと、またカチリという音がした。今度は開錠されたのだろう。扉と扉の隙間を覗き込んでみても、何かが飛び出しているようには見えないので、管理人の言う通り、これが開錠されている状態なのだろう。

 今度は、この状態のまま扉を押してみる。びくともしない。この館に入るときに、この玄関が外開きということは確認しているのだが、まさかと思って引いてもみたが、勿論開くことはない。

 スマホのライトをつけて、扉と扉の間を覗き込んでみる。しかし、真ん中でぴったりと合わさっているのか、外の様子をうかがい知ることはできない。


「この館には、ここ以外の出入り口はないんすか」


「はい。ここ以外からは出入りはできないです」


 その言葉に、二人は思わず天を仰ぐ。

 閉じ込められた。

 山の中だけでなく、この館の中にも。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る