忘れてはいけない

 青柳は一日ぶりに『処女宮』の部屋の前に立った。それに同行している魚沼は、少しだけ隠しきれない好奇心を覗かせた表情で、扉に阻まれた向こう側の空間をぼんやりと眺めているようだった。

 もちろん管理人には、魚沼が何を見にここに来たのかは告げてあった。そのため、鍵を開ける前に鍵穴を覗きますか、と聞かれていたのだが、実はあんなことを言っていたにもかかわらず、鍵穴でピッキングされたかどうかの判別はできないようで、困ったように、また、恥ずかしそうに少しだけ顔を赤くしていた。

 それを聞いて、二人とも特に何も言わなかった。知識として知ってはいても、それを訓練なしで実践に持ち込むのが難しいことを知っているからだ。

 だが、念には念を入れよではないが、とりあえず見ておくことに越したことはないので、一応確認できる程度に鍵穴周辺を確認しておき、写真も撮っておいた。これが役に立つのかどうか、魚沼には判別がつかない。

 管理人が鍵を開け、扉を開くと三人の鼻を不快な臭いがかすめた。

 おそらくこの臭いが心臓が止まり、肉体が朽ちかけている臭いである、というのは容易に想像できた。一日と半日しか経っていないが、やはり冷房だけではドライアイスのような効果は期待できないようだ。

 ほんの少し前まで活動していた人間も、いつかはこうして腐っていくのか、という想像をした魚沼は、なぜだか足元が不安定になったように感じた。

 彼はまだ、この世に生を受けて二十四年しか経過していないが、その短い時間でも何人かの人間を見送ってきた。もう年を取った曽祖父母をはじめとするお年寄りたち、あまり交流はなかったが在学中に病気や事故で亡くなったクラスメイトもいた。

 彼らは皆、亡くなるほんの数時間前まではいつもと変わらぬ日常を過ごしていたのだ。

 一番はっきりと記憶に残っているのは、初めて葬式に参列した曽祖父のときだろうか。彼の曽祖父は、九十代で大往生を遂げたのだが、その死因というのが老衰、ぽっくり亡くなったという表現がふさわしい亡くなり方をしている。

 おまけに、亡くなる数時間前に彼は曽祖父の元で遊んでいた。そしてそれから数時間後、物言わぬ姿で布団に寝かされており、当時小学生だった魚沼はかなりの衝撃を受けた。

 そうやって見送られてきた人々は、残された人々の手を借りて、丁寧に扱ってもらい最期の別れの儀式を行う。葬式のときには、生きていた時のような顔にメイクもしてもらえる。

 しかし、今この部屋で寝かされている霜触はどうだろう。何者かに命を奪われ、そのあとも冷房を入れるという手間しか加えられていないため、段々と元の姿を失っていくのだろうか。それも、誰にも見送られずに。

 魂が離れた人間の肉体は、こんなにも簡単に滅びていくのか、例え生前どんな功績を残していたとしても。

 物思いに耽っていた彼の意識を、青柳の声が引き戻した。


「魚沼くん、あったよ。霜触さんの口の中にも、同じ文字が書かれた紙片が」


 彼が最後に部屋に入ったので、まだ入り口から少し入ったところで尻込みをしていたのだが、そう言われると霜触の遺体の側に寄らざるを得ない。小さく息を吸って、自らを奮い立たせた。

 霜触の遺体は、相変わらずうつぶせに寝かされたままで、血の気は引き間違っても生者と判断してしまうことはないような顔色をしていたが、表情だけはまだ眠っているだけのように見える。眠っているうちに刺されたので、苦しむことはなく死ねたのだろうか。

 遺体を調べている青柳は、マスクと薄手のゴム手袋を着用して、ベッドの脇に立っている。彼女は霜触の口腔内を確認していた。既に亡くなってかなりの時間が経過しているので、死後硬直は緩解していたので、少しは楽に口を開くことができた。

 さすがにピンセットの類は常備していなかったようなので、申し訳ないと思いつつ箸を利用して紙片を取り出した。

 そうやって取り出された紙片は、今青柳の手のひらの上に開かれた状態で置かれている。

 一瞬見てしまった遺体から目を逸らすようにして、紙片を覗き込む。そこには文字の形こそ微妙に違っているが、明村の口の中にあったものと同じ様に定規をあてたような文字で『ユキを思い出せ』と書かれていた。


「また“ユキ”ですか。このような書かれ方をされているので名前、人名のように思えるのですが、明村様と霜触様の間に共通のお知り合いでもいたのでしょうか」


「さあ、どうなんでしょう。二十代のまだ社会人一年目というような子と、四十代の政治家のおじさんとの共通の知り合いって、どんな知り合いでしょうね。若い、ってだけを考慮すれば、そういう接待のお店、とかの可能性も出てきますが、これはこのメッセージが二人に宛てられたものだった場合ですけど」


「ええと、それはどういうことでしょうか」


「そのままの意味ですよ。“ユキ”という存在を思い出してほしいのが、殺された二人ならこの二人がユキを思い出さないままに亡くなっている。ですが、このメッセージはどうも二人が亡くなった後に送られている。死者へのメッセージとでも言いましょうか、しかしお二人もご存知の通り死者はメッセージを読むことは叶いません。もしも、この紙片が亡くなる直前にでも受けとっていたのなら、二人は思い出せなかったから殺されたことになる。こればかりは推測の域を出ない話だけど、彼らがこの紙片を受け取ったのが、生前ではなく死後だったら?」


「死者はメッセージを読むことはできない。つまり、メッセージを読むことができる生者、この館の中に生きている人間に宛てたものってことですか?」


 青柳は厳しい顔つきで首肯し、そのまま話を続ける。


「彼らが“ユキ”というものを思い出せなかったことが殺された理由なら、私たちの中の誰か、もしかしたら全員かもしれないけど、に思い出せと言っているのかもしれない」


 その瞬間、管理人の顔色がサッと青くなる。一瞬彼は何かを知っているのではないか、と邪推したがどうやら違うようだ。自分が任されている場所で復讐劇が始まってしまったのかもしれない、生者に向けたメッセージの中に自分も含まれているのだろうか、という様々な不安が彼を支配したのだ。

 それに追い打ちをかけるように青柳は言う。


「もしも本当にこれが彼らの殺された理由なら、この手紙のことをほかの方にも共有するべきではないでしょうか」


「仰りたいことは理解できますが、そんなことをしてしまっても大丈夫なのでしょうか」


「下手に恐怖心をあおるのは、精神衛生上よくないということでしょう?ですが、この犯人の誘いのようなものに乗らず、この館の中の人間が全滅してしまうようなことになってしまえばどうなりますか。証人が一人も残されていなかったがために、犯人ではない誰かが無実の罪を着せられることになるかもしれませんし、そもそも私はこの場所を死に場所にするために来たわけではありません。もしも思い出すことで助かる道があるのなら、それに乗ってみようと思いませんか」


 青柳にそう説得されたが、管理人はすぐに答えを出せないでいた。

 確かにこの誘いは魅力的だ、今この館の中には十一人の人間がいる。その中の一人でも思い出すことができれば、連鎖的に他の人も思い出せるかもしれない。しかし、もしも思い出せなかった場合、この場所にあと何日留まるのかわからない状況で、得体の知れない恐怖心を抱えることになる。そうなったときに、自分一人で宿泊客全員をサポートできるのだろうか。

 いや、そもそも招待した客の中に殺人犯が紛れ込んでいるのだ。最初は霜触を殺した犯人は、外に逃げ出して時間を稼ぐために館の扉を閉ざしたものと考えていたのだが、同じ文面が書かれた紙片が見つかった以上、その可能性は低くなった。

 明村と霜触を殺した人間は同一人物、そして、犯人はこの館の中にいる。

 決定的な証拠があるわけではないが、彼の頭の中では、そうとしか考えられなくなっていた。

 どれぐらい悩んでいたのだろうか。管理人の体感時間ではかなり長い間考え込んでいたように思えたが、実際はほんの数分しか経過していなかった。


「申し訳ありません、もう少しだけ、考える時間をいただいてもよろしいでしょうか。せめて夕食のお時間まで。今日は全員が集合されてから夕食にしようと考えていますので、そのときに話すか否かをお伝えするでもよろしいでしょうか」


 青柳も少しだけ考えたようだが、ややあって「わかりました」と返事をした。


「お任せします。ここの管理を任されているのはあくまで猪原さんですので、私たち客はその判断と指示に従うまでです」


 その返答を聞いて、ようやく一息をつくことができた。安堵感に胸を撫で下ろし、そろそろよろしいですか、と告げようとしたとき、青柳に先を越されてしまった。


「私の用事は終わったけれど、魚沼くんの方はどう?」


 その言葉で、いつのまにか魚沼が話の輪から離れて、部屋の中を物色していたことに気がついた。

 確か彼は、青柳を監視するため、ピッキングなどの形跡がないか確認するため、と聞いていたが、他にもなにか用事があったのだろうか。

 魚沼の返答を聞いて、その答えが分かった。


「ピッキングされたのかされていないのか分からなかったので、せめて誰か部屋の中に招かれていた形跡でもあれば、とでも思ったのですがダメそうですね。テーブルの上にお酒は出ていますが、グラスが一個しかないので霜触さん自身が飲むためだけに持ってきたのでしょう。他のグラスが片付けられた形跡もないので、犯人を招き入れてお酒を一緒に飲んでいた、ということはなさそうですね」


 どうやら彼は、霜触自身が部屋に犯人を招き入れた場合、どのような理由で中に入れたのかを考えているらしい。

 しかし、彼のその発言に違和感を覚えた管理人が、思わず口を挟んだ。


「グラスが一個?それはおかしいです。このグラスは部屋に設置しているものではありませんし、第一霜触様がお部屋でお酒を召し上がりたいとのことでしたので、食堂のグラスを二つお持ちしました」


「それは本当ですか?ですが、どうして霜触さんにグラスを二つ持っていったんですか?」


「ええと、正確には覚えておりませんが、一昨日の昼過ぎでしょうか。部屋で二人で飲みたいので、お酒とグラスを二つ持ってきてくれないだろうか、と内線がありました。それでお部屋までお持ちしたのですが、入り口で受け取られたので中に誰かいたのかはわかりませんでしたし、電話口でもとは仰っていませんでした」


「ざっと見た感じでは、どこにももう一つのグラスはありませんね。ということは、霜触さんと一緒に飲んでいた人間が、殺した挙句に証拠の隠滅をしたとか」


「それはいきなり話が超越しすぎじゃない?あくまでその可能性がある、とだけにとどめておいて。それだと、警察の捜査でいう重要参考人をすっ飛ばして、いきなり冤罪かもしれない犯人にしてしまうようなものよ」


 青柳に注意され、早とちりをしてしまった魚沼は、名前を知らない霜触と最期に酒を酌み交わした人間に謝罪した。


「すみません管理人さん、お時間をとらせました。私たちはもう大丈夫です、もうそろそろ昼食の準備をしないといけない時間ではないですか?」


 そう言われて、管理人は慌てて時計を確認する。もうすぐ十一時になろうとしているところだった。いくら簡単なものでいいとはいえ、人数がいるのだからそろそろ取り掛からないと、十二時に間に合わないかもしれない。


「失念しておりました、ありがとうございます」


 そう告げて管理人は部屋の出口に向かう。その後に青柳、魚沼が続く。

 全員が部屋から出て、管理人が支えていた扉から手を離すと、魚沼の背後から扉が閉まる音の後にカチリと施錠する音が聞こえた。

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