第六章 三日目 探偵事務所

最終日の朝

 夢というのは不思議なもので、その日に見たり聞いたりしたものを夢に見ることもあれば、気にもかけていなかった懐かしい人が突然登場することもある。

 今回見た夢というのは、まさしく懐かしい顔ぶれが揃っていた夢だったのだが、残念ながら、こういったものに限ってはっきりと覚えていられない。ただ、懐かしい夢を見たなあ、という感覚が残るだけだ。

 意識が表面世界に戻ってきて一番に感じたのは、鼻をくすぐるコーヒーの良い香りだった。そのあとに外を走る車の音、窓から差し込む朝日の光……、とそこでようやくこれがおかしいことに気がついた。

 私が普段生活を送るために借りている部屋は、あまり日が差し込まない場所にある。だから朝日の暖かな日差しは感じられないし、なにより車通りが少ない場所なので、こんなに朝から車の走行音を聞くことはない。

 まさか、と思って飛び起きる。その瞬間に体にかけられていたと思わしき毛布が、床にずり落ちた。勢いよく起き上がったせいか、ズキズキと頭が痛む。思わず額に手を当てると、背後から「起きたか、末治」と声をかけられた。

 思いがけない声に振り返ると、そこには片手にマグカップを持っている所長が立っていた。

 その姿と、自分が寝ていた場所を見て、ようやく事情を理解した。

 昨日は一日中調査をして、警察からの報告を受けた後、事務所でしばらく資料を読み込んでいたのだが、その先の記憶がないので、おそらくそのまま寝落ちしてしまったのだろう。

 慌ててソファーから起き上がり、とりあえずといった体で、所長に「おはようございます」と挨拶をした。

 怒っているだろうな、と想像して恐々顔を上げてみると、怒るどころか逆に申し訳なさそうな顔をしてこちらを見ていた。


「すまないな、普段なら分担する仕事を全てお前に任せているから、余計疲れているだろう?」


「え?ああいえ、これくらいは慣れているつもり、だったんですけどね」


「仕方ないよ、やっぱりどうしても年齢には勝てないからね。それに、あとは今日一日の辛抱だから」


「そうなるといいんですけどね」


 返事をしながら、私はミニキッチンに顔を洗うために入って行く。そうだ、明日には出張に行っているもう一人の所員が帰ってくるので、通常業務に戻ることが出来る。と、言っても警察からの依頼がある以上、これより依頼は増やせないが。

 この事務所には、今日みたいなことがあってもいいように、シャワー室が取り付けられているのだが、水回りの設備は固められているので、ミニキッチンに脱衣所の入り口があり、その先にシャワー室がある。しかし、洗面台は取り付けられていないので、顔を洗うにはミニキッチンの流しを使うしかない。

 そのおかげか、流しの前には鏡が取り付けられている。

 蛇口をひねり、ほとばしる水を両手で受け止めて、勢いよく顔を洗う。朝の冷えた水が顔に当たり、一気に目が覚めた。その爽快感からか、頭痛もいつの間にかなくなっていた。

 脱衣所に重ねてあるフェイスタオルを一枚手にとり、顔を拭きながら応接間に戻る。所長は、先ほど手に持っていたマグカップの中身をすすりながら、広げられている資料とにらめっこしている。先ほどの匂いから、カップの中身はコーヒーだろうと思われる。


「所長、今日は何をされる予定ですか」


「今のところは未定だ。ただ、警察からの連絡待ちの状態ではあるけどね」


 おそらく、昨日連絡をとったことに関する回答のようなものであろう。

 彼女がこう言ってしまえば、本当に何もやることはないので、とりあえずシャワーを浴びて、近くのコンビニに朝ご飯を買いに行くことにした。

 コンビニに行く、と言ったら、所長からいくつかお使いを頼まれた。と言っても、ただ自分の朝ごはんも買って来てほしい、というものだ。

 頼まれたものを忘れないようにぶつぶつと呟きながらコンビニに向かう。傍から見れば、不審者に違いない。

 その道中で、周りが普段の雰囲気と少し違っていることに気がついた。

 この道は、車通りこそ多いのだが、歩道があまり整備されていないので、歩行者がいることはあまりない。彼らは、一つ隣の歩道がある通りを歩いているのだが、今日はやけに通行人が多い。

 それに、歩いている人は皆、花束を手にしている。

 その理由はすぐにわかった。コンビニから少しも離れていない場所に、献花やお供え物が置かれている場所があったのだ。

 それだけを見れば、察しのいい人ならすぐに気がつくだろう。この場所で、誰かが亡くなったのだろう、と。

 しかし、私は誰かが亡くなっているというのは理解できても、誰が亡くなった、どのようにして亡くなったか、というのは知らない。

 だからと言って、むやみやたらにそこら辺の人に聞くわけにもいかない。ここに来ている人たちは、故人の冥福を祈りに来ているのだから、部外者の私が話しかけるのは失礼にあたるだろう。

 とりあえず私は、その場で軽く目を閉じて冥福を祈り、さっさと買い物を済ませて事務所に戻った。


「おかえり。おや、何か少し浮かない顔だね」


 事務所に入るなり、少し沈んだ気持ちになっていた私に、所長はすぐに気がついた。さすがの観察眼、と言うべきだろうか。伊達に探偵はやっていない。

 所長デスクに買ってきたものを並べながら、コンビニの近くで見たものを報告すると、どうやら何か合点がいったようだ。少し悲し気な表情を浮かべた。


「そうか、今年で三年目だもんな」


 それだけでは、なんのことかわからず首を捻っていると、覚えていないか?三年前に女の子が車に轢かれた事故だよ、と促されてようやく思い出せた。

 三年前、あのコンビニの近くで事故があったのだ。

 十代ぐらいの女の子だろうか、何かの帰り道にあの場所を通り、不幸にもかなり飛ばしていた自動車によって跳ね飛ばされ、短い人生に幕を下ろしたのだ。

 なぜ私がすぐに思い出せなかったのかというと、事故当時女の子は重体であるという報道を耳にしただけで、亡くなっていたとは知らなかったので、献花を見てもピンとこなかったのだ。

 また、自分の記憶が確かなら、女の子を轢いた後犯人は逃走、所謂ひき逃げである、をしている。その後の続報も耳にした覚えはないので、犯人は未だに逃げ続けているのであろう。なんとも腹立たしいものである。

 なぜ犯人が捕まらないのか、というのも、前述した人通りが少ないというのが影響している。事故発生時、人通りもなく、不幸なことに当時は車通りも少なかったため、目撃証言がほとんど出なかったという。

 一刻も早く犯人が逮捕されて、遺族が少しでも安心できるようになるのを願うばかりだ。

 少しばかり本来の仕事から離れてしまったが、とりあえず先程買ってきた朝食をお腹の中に収めた。朝食を食べると、少し疲れていても今日一日頑張ろうという気持ちになるので、不思議だ。

 後片付けを済ませた後、資料をもう一度確認しようと思ったが、所長が全て占領してしまっている。読み終わったものから私も読もうか、と思ったが、私が読んだところで何もわからなさそうだ。

 ここは大人しくプロに任せておくべきだ、と判断して応接間に積まれている書籍の分類を始めた。

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