第五章  三日目  館

百聞は一見に如かず

 部屋に入った瞬間、生臭い臭いが鼻を掠めた。かつて救急に勤めていた秤谷にとっては、特に珍しい臭いではなかった。ただ、その臭いというのは、普通に生きていれば嗅ぐことはない、非現実的なものである。

 医界から離れた以上、もう二度と嗅ぐことはないと思っていた。

 血溜まりの中に倒れている霜触に駆け寄って脈をとる。しかし、このシーツに広がっている血の量を見れば、既に手遅れだということは火を見るより明らかだ。現に体を触れば、生き物とは思えない温度をしていた。少し体を動かそうとすると、死後硬直が始まっていることがわかった。


「識名様!」


 管理人の叫びに驚いて振り返ると、少し遅れて入ってきていた識名が、気を失って倒れるところだった。頭をぶつけないように、どうにか体を支えることには成功したようだったが、ちらりと見えた彼女の顔は真っ青だった。

 当たり前だ。こんな状況を見て、衝撃を受けない一般人などいない。


「管理人さん、『磨羯宮』に宿泊している青柳さんを呼んできていただけませんか。それと、警察を」


「わ、わかりました。すみませんが、識名様をお願いしてもよろしいでしょうか」


 秤谷が首肯すると、管理人は慌てふためきながら部屋を出ていった。

 管理人が抱きとめていた識名の体を、ゆっくりと床に寝かせる。呼吸にも脈拍にも特に異常は無いので、おそらくただ気絶しているだけであろう。これならしばらく待てば目を覚ますだろう。

 しかし、問題はベッドの上で永遠の眠りについてしまった霜触の方である。

 彼はベッドにうつ伏せになっている。その背中を刃物で刺した痕跡があった。司法解剖などで確認しないといけないが、傷の箇所や出血量から心臓を一突きされている可能性が高い。

 軽く部屋を見渡したが、一救急医でしかなかった彼には、遺体から見てとれる情報しかわからなかった。ただ、部屋のテーブルに置かれている酒の瓶と一つのグラスを見て、お酒が入って熟睡している時に、背中から刺されたのではないだろうか、という想像をした。

 そうしているうちに、部屋の扉を小さくノックする音と、秤谷の名前を呼びかける声が聞こえた。それでこの部屋が全てオートロックである事を思い出して、慌てて入口に向かった。鍵を開けて扉を押すと、そこには想像通り青柳が立っていた。時間が時間なので、もう既に布団に入っていたか、もしくは眠る準備をしていたところだったのか、化粧はしておらず、寝間着のようなものを着ており、肩にかかる髪の毛も、若干濡れているように見える。

 彼女は管理人から大雑把に呼ばれた理由を聞いていたようで、深刻な顔つきで


「何があったの」


 と尋ねた。秤谷は顔を引き締めると、無言で部屋の中に招き入れた。

 青柳は、かつて秤谷が勤めていた病院の先輩にあたる医師だった。彼女は秤谷が辞める随分前に、実家の都合で病院を辞めて田舎に帰っている。

 勿論、かつて医師であった青柳にも、部屋に入った瞬間この臭いの正体に気がついたようで、眉間に皺を寄せた。ただ、秤谷のある程度落ち着いた態度で、怪我をしている人間の状態を察したのだろう、患者に駆け寄ることは無かった。


「法医学を専攻していないので知識程度しかわかりませんが、亡くなってから三、四時間ぐらいでしょうか。脈をとるために首元を触ったら、死後硬直が始まっていました」


「おそらくね。それを考えると、私たちがプラネタリウムを楽しんでいる時に殺されたか、その時には既に、だったかもしれない」


 青柳は霜触の腕を持ち上げた。死斑を確認しているのだろう。

 想像通り死斑は、うつ伏せになっているため、体の前面に現れているようだったが、初期の死斑は体を動かすと移動する。だが、傷は背中にあり、遺体に隠れているシーツに血痕は見られないので、そのまま放置されていると見た方がいいだろう。

 そこで青柳はちょっとした異変に気がついた。

 今持ち上げた霜触の左手首に、なにか巻き付けられていたような痕がある。

 その痕の正体には、すぐに合点がいった。おそらく腕時計を付けていた痕だろう。それも、きっちり巻き付けていたようなので、痕が残っているのだろう。

 しかし、軽く辺りを見渡してみたが、それらしき時計は見当たらない。大体時計を外したあとに置く場所は、ベッドサイドか机の上のような気もするが、該当するものは置いてなかった。

 また、血の生臭い臭いに混じって、アルコールの匂いも感じられた。最初の秤谷の見立て通り、酒に酔って眠りこけているところで、背中を刺されたのだろか。

 本当は遺体を動かして確認したいのだが、下手に扱わない方がいいだろう。


「秤谷先生、識名さんの体は抱えられる?」


「識名さんぐらいだったら大丈夫ですよ」


「わかった。とりあえず、現場をこれ以上荒らしたくないから部屋を出ましょう。管理人さんが通報しているようだから、サロンで報告を待ちましょう」


 そう言って青柳が先導して部屋を出ようと扉を開けようとしたが、ノブを掴む前に手を止めた。先程は何も考えずに触ってしまったが、この部屋の主が殺された以上、警察の捜査が入るのは確かである。それならば、不用意に触ってしまって証拠を消さないようにした方がいいだろう。

 長袖の寝間着を引っ張って伸ばし、指先を覆うようにして鍵を開け、ドアノブの端をほんの少しだけ触って扉を開けた。識名を抱えた秤谷が部屋を出る間も、足先で扉を押さえていた。

 少々上りにくい螺旋階段を、人一人抱えて苦労しながら上っていると、ちょうどパタパタと音を立てながら管理人が戻ってくるところだった。彼は識名の姿を見て、こちらです、と言いながらサロンに案内してくれた。

 管理人が即席で作ったソファーのベッドに識名を寝かせ、秤谷が問う。


「警察は、どれぐらいで来られますか」


 すると、管理人の顔がはっきりと青ざめた。


「それが、電話が通じないんです」


 秤谷と青柳は思わず顔を見合わせる。この現代において、電話が通じないなど有り得るのだろうか。しかし、彼らもここに来る間に携帯が圏外になっていることを確認している。

 すると、インターネットも通じないということだろうか。

 その疑問をぶつけるように無言で管理人を見つめると、それを察したように「ついてきてください」と言われ、部屋を出ようとした。

 再びお互いの顔を見ると、アイコンタクトでついて行くよう青柳が言った。彼女はここに残って、識名を見ているつもりなのだろう。

 管理人に続いて部屋を出ると、真っ直ぐ管理人室まで案内された。

 管理人室は宿泊用の部屋とは違い、管理用のパネルやファイルなどが沢山置かれており、事務所のような場所だった。薄手のカーテンの向こう側に生活スペースがなければ、如何にも管理人室、というような部屋になっていただろう。

 問題の電話は、デスクの上に置かれていた。よくオフィスなどに置かれているような黒い電話なのだが、電気は届いているようで、モニターに時刻は表示されている。

 受話器を上げて耳に当ててみる。しかし、通常聞こえる、プーという音は聞こえず、ただ無音なだけだった。

 よく見ると、この電話機は内線も兼ねているようなので、内線でかけてもいいか管理人に聞く。管理人は「わかりました」と言って、厨房に通じる番号を教えてくれ、部屋を出ていった。

 彼が出ていってから三十秒ほど経ってその番号にかけると、今度は呼出音がする。ワンコール、ツーコールと数えたところで、管理人が受話器をとった。

 向こう側から『内線は通じているようですね』と声が聞こえた。

 内線を切って管理人が戻ってくるまでの間に、一一○の番号を押してみる。今度は呼出音がない。続いて電話機の横に、客室の番号が書かれていたので、その中から自分の部屋の番号を探し出してそこにかけてみる。すると、受話器からは呼出音が聞こえた。おそらく、天蠍宮の部屋では電話の音が鳴っていることであろう。勿論、電話をとる人間はいないので、通話が繋がることはなく電話を切った。

 やがて部屋に戻ってきた管理人に、客室の内線も通じたことを告げる。


「そうなると、外に通じる電話線にだけ異常が生じていることになりますね」


「ここの電話線は地下に埋まっているタイプですか?それとも引き込み線のようになっているタイプですか?」


「引き込み線のようになっています。そうなると、もしかしたら電話線が切れているのかもしれません。しかし、なぜ?」


 管理人曰く、この館の電話線は二階部分に直接繋がっているという。その電話線が切れているとなると、倒れた木などが引っかかったなどの可能性が高いのだが、周りに引っかかるような場所に木は生えていないし、まず今日は木が倒れるような風も吹いていない。

 外に電話線を見に行ってきます、ということだったので、それに秤谷も同行することにした。

 まだ外は暗いので、懐中電灯を片手に外に出る。その灯りを頼りに電話線が繋がっている場所に赴く。

 そして、館の壁を照らしていた管理人の動きがハタと止まる。

 壁には、切れた電話線が垂れ下がっていた。

 管理人は辺りを照らすが、周りに倒れた木は見当たらない。また、強風が吹いた程度でちぎれるようなものではない。

 ちぎれた電話線の先を見ると、切れ味の良い刃物で切ったような、綺麗な切り口をしていた。

 秤谷が思わず管理人の顔を見ると、彼も気づいていたようで、厳しい顔つきをしていた。


「これってもしかして……」


「ええ、人為的に切断されたとしか思えません」


 こうなると、電話での連絡は絶望的だ。電話線が切れているので、館の中でWiFiも通じないだろう。


「仕方ありません、車で麓まで降りて連絡をとるしかないですね」


 管理人は車を置いている車庫の方に歩いていく。秤谷さんは館にいてくださいということなので、建物に戻ろうとしたのだが、車に乗り込んだ管理人の様子がおかしい事に気がついた。

 受け取っていた懐中電灯で足元を照らしながら、車庫に向かって歩いていくと、運転席から真っ青な顔をした管理人が降りてきた。


「エンジンが、かからないんです」


 秤谷は、顔から血の気が引くのを感じた。

 ボンネットを開けてくださいとお願いして、エンジンルームを確認する。彼は車にはあまり詳しい方ではないが、どこかに繋がれている線が、これも明らかに刃物を使って人為的に切断されていた。


「この山は歩いて下山できますか」


「不可能ではありませんが、遭難する可能性が高いので、日が昇ってからでないと厳しいです。それに、下山できたとしても、あの駅には公衆電話のような類はありませんので、近くの集落まで行くしかありません。しかし、その集落までがかなり離れておりますので……」


 そうか、自分たちは陸にいながら、この山の中に閉じ込められたのか。

 絶望して、天を仰ぐ。空には、天体ショーの時には見えなかった星が、チカリチカリと瞬いている。

 なぁ、お前たちはこんな事をした人間を見ていたのか。

 心の内でそんな疑問をぶつけたが、当然返事はなかった。

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