夏の夜空に

 午後は読みかけていた本を片付けることにした。大学生活を送る中で、休みの日でバイトがない日は、むさぼるように本を読んでいたが、これから卒論や就活などに本腰を入れなくてはならないということを考えると、今の内に読めるだけ本を読んでおこうと考えている。この休暇は、所謂読書今日週間とでもいうようなものだ。

 図書室で本を読んでいると、魚沼や明村が「外に散歩しに行かない?」と誘って来たが、丁重にお断りした。識名は外に出るのがあまり好きではないのだ。

 本に没頭しており、我に返って時計を確認すると、もうすぐ夕食の時間だった。

 夕食の後は、昨晩と同じ様にプラネタリウム兼星空を眺めることができるのだが、今日は昨日のように招待客が全員参加するわけではなく、自由参加とのことだった。

 本を置いて、少し早めだが食堂に向かうために部屋を出る。そのついでに、もう一度だけブレスレットが落ちていないか確認しながら歩く。

 下を向いて歩いていると、ふと誰かの気配を感じて歩みを止める。目線を上げると、そこには識名が苦手なギャルが立っていた。


「こんばんは、今日は朝から何かお探しのようだけど、まだ見つかっていないようね」


「こ、こんばんは。ええと、落とし物をしてしまって、探しているんです」


 佐曽利はふーん、とだけ反応して、識名のことをなめるように観察した。

 なんなんだろうこの人……。

 佐曽利といい釣瓶といい、識名にとって苦手な人間が多いこの館の中は、少々ストレスになってきていた。いくら誰に文句を言われることもなく好きなことができたり、きれいな星空を眺められたりしたとしても、こんな不愉快な環境では気が休まらない。その上に、大切なブレスレットの紛失である。

 佐曽利が観察していたのは、三十秒くらいだったのだが、識名には十分ほど経過しているように感じられた。満足したのか、なんとも表現しがたい不敵な笑みを浮かべて、


「よければ一緒に食事でもどう?」


 と聞いてきた。

 普段なるべく感情を顔に出さないように努めてはいるが、このときばかりは露骨に嫌な顔を浮かべてしまった。正直、あまり仲が良くない人間、しかもほぼ初対面かつ苦手なタイプの人間と食事だなんて願い下げである。

 だが、明らかに拒否するような表情を目の前にしても、佐曽利は引き下がることなく、変わらない笑みを浮かべ続けている。傍から見ても、この表情は恐怖すら感じられた。


「ご、ごめんなさい。先約があるので……」


 識名は苦しみ紛れに断ったが、これは嘘である。昨晩は図書室の三人と食事をとったが、今日は約束をしていない。今までの食事のすべてを彼らとともに食べているので、佐曽利がそのうち一回でも目撃していれば、いくらか信ぴょう性は増すだろう。

 その作戦が功を奏したのか、はたまた苦しみ紛れの嘘に同情したのか、「そう、なら仕方ないわ」と言って大人しく引き下がった。

 一人取り残された廊下で、少しだけ大きなため息をつく。

 それにしても、佐曽利という女は一体何者なのだろうか。

 初日に出会ったが、名字を管理人の口から聞いただけで、下の名前もわからないし、職業もわからない。辛うじて「申年だもの」という発言から、現在二十九歳であることがわかるぐらいだ。

 ただ、あの他人を探ってくるような言動には覚えがあった。あれは、他人の不幸で糧にしている人間の"それ"だ。

 嫌なことを思い出してしまったな、と呟きながら二階へ続く螺旋階段を上った。



 今日の夕食は、館の近くの畑でとれた野菜スープと、ここで育てられた名産牛のローストビーフだった。普段なるべく質素な食事をしている一人暮らしの大学生には、随分と豪勢な食事だ。それと同時に、こんな食事を十二人分用意してくれるオーナーの懐具合も少しばかり気になった。

 幸い、食堂に行くとちょうど明村と鉢合わせたので一緒に食事をとることができた。先ほど佐曽利に会ったという話をすると、明村は顔をしかめた。どうやら、彼女も同じように話しかけられたようだった。


「私が思うに、多分あれは同族ね。こっちは百パーセント休暇のつもりで来ているのに、こんな時にも取材を怠らないのはプロ精神あって素晴らしいと思うけど、取材対象に不快な思いまでさせるのはやりすぎだと思うわ」


「明村さんと同族、ということはマスコミ関係とかそういう感じですか?」


 明村が首肯したのを見て、道理であの目線に覚えがあるのか、と識名は一人納得した。その様子には明村は気づかなかった。

 夕食を終えて部屋に戻ると、荷物の片づけを始める。二泊三日の招待だったので、今日が最後の夜であり、最後の星空を見られる日だ。

 かなり疲れることが多かったが、いい心の休養になったのも事実だ。これから家に帰ることを考えると少し憂鬱だが、まだ一日あるのだからそれは忘れて楽しもうとその考えを、頭を振って消した。

 ただ、唯一ブレスレットのことが気がかりである。今のところ管理人に聞いても、見かけていないという返答だったが、招待客が全員帰ったあと、どこからかひょっこり出てくるかもしれない。淡い期待を抱いて、今晩の星空のショーに備えることにした。



 昨晩と同じ二十一時。今日はサロンに集合ではなく、直接プラネタリウムに上がってきてください、とのことだった。時間より早めに識名が到着すると、既に数人の人影があった。図書室のメンバーとおじさん集団、だが霜触という政治家だけは見当たらなかった。あまり星には興味がないのだろうか、せっかくの機会なのに少しもったいないような気がする。

 時間が近づいてくると、よく一緒にいるのを見かける男女が入って来た。六波羅曰く、元同僚同士の秤谷と青柳というようだ。


「それでは時間になりましたので、解説を始めましょう。夏の夜空を中心に、秋、冬の星座も軽く紹介します」


 本物の夜空を、大きなスクリーンが遮っていく。今日は昨日と違って曇っているのか、星は一つも見えなかった。それに代わるようにして、ゆっくりと作り物の星空が現れてきた。


 ――夏の星空で有名なのは、やはり『夏の大三角』でしょう。『こと座』のベガ、『わし座』のアルタイル、『はくちょう座』のデネブ、これを繋ぎ合わせて『夏の大三角』が出来上がります。それぞれ見つけやすい星ですので、今年の夏は是非とも星空を見上げて探してみてくださいね。

 次に黄道を通る三つの星座、いて座、さそり座です(ここで星と星を繋ぐ線が夜空に現れた)。

 そしてもう一つ、基本的には星座占いなどには使われませんが、黄道を通っている星座があります。そう、このへびつかい座です。

 このへびつかい座は非常に大きな星座で、先ほど申したように黄道を通っていることから、十三星座として占いに使う方法も存在しますし、へびつかい座から独立してへび座というのも存在します。

 この星座にまつわる神話では、医師アスクレピオスの姿であるとされています。そのためにへびつかい座というのは、医療のシンボルとして扱われることが多いのですが、皆様見たことありませんか?

 そうです、これは人命救助に関わる人々の守り神として、アスクレピオスの杖をモチーフにしたマークが世界各国の救急車に描かれているんです。もし今度見かける機会があれば見てみてください。

 さて、その周りの星座の解説に移りましょう……。


 周りの星座の紹介を終えた後に、管理人は機械を動かして、秋の夜空、冬の夜空と順番に映していった。

 秋の夜空には、『秋の四辺形』というものが存在し、黄道にはやぎ座、みずがめ座、うお座、おひつじ座がある。

 冬の夜空には、『冬の大三角』とその三角形を覆うように『冬の大六角』というものも存在する。黄道を通るのはおうし座とふたご座、そして忘れてはならないのがオリオン座だ。この星座は恐らく日本一有名かつ誰もが見つけやすい星座ではなかろうか。小学生の理科の宿題で、オリオン座の観察をしようという宿題が出されるくらいなのだから。この星座だけは、識名も肉眼で見つけたことがあった。

 やがてショーは終わり、スクリーンがどかされてどんよりと曇った空が姿を現した。今日ぐらいは偽物の星空でも映し出してくれていていいのに、と思ったが開けておかないといけない理由があるのかもしれない。

 そういえば、猪原はどうしてここの管理人をしているのだろうか。

 ふとそんな疑問が浮かび上がる。

 ただ収入がいいから、という理由でやっているわけではなさそうだ。というのも、彼が星座の解説をしているとき、随分と楽しそうな顔をしているのだ。その楽しさが、星座そのものなのかその先にある宇宙なのかはわからないが、かつて夜空に魅せられた少年時代があったのだろう、というのは容易に想像できた。

 ただ、今見る限りでは憧れはしたもののそういった職業には就かなかった、就けなかったのかもしれない。だが、今彼が仕事をしている姿を見る限りでは、どうやら天職のようである。自分が魅せられた美しさを、多くの人に伝えられるのだから。

 その姿勢を見ていると、これからの就活にうんざりしそうになっていた気持ちが、奮い立ってくるのが分かった。

 私も、あんな職業に就けたらいいな。

 今は見えない、雲の向こうの星空に向かって、そっと願った。

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