非常事態
星空のショーを終えて、各々部屋に戻り、今日が最終日だという人は荷造りを始めた。
そういえば自分の貰った招待状には二泊三日と書かれていたのに、その前の日からいた人たちは泊数が多かったのだろうか。明村たちに聞いてみると、基本的には二泊三日だが追加で料金を払えば長くいられるようだ。その制度を利用して、彼女や魚沼が帰るのはまだ先らしいが、そのために払わなくてはならない追加料金の額を聞いて、顎が外れるかと思った。もう一泊したいだなんて贅沢を言わなくてよかった。
荷物をまとめ終え、図書室から持ってきていた本を整理する。読み終わらなかった本がいくつかあるので、タイトルをメモして家に帰って図書館なり書店なりで探そうと決めた。
ベッドに入る前にシャワーを浴びる。日の光が差さない部屋というのは少々苦痛ではあったが、雨戸を閉めたまま生活していると思えば多少楽になった。
この部屋に初めて入ったときに「これはなんだろう」と思っていた黒丸の飾りも、星空の解説を見ると何を現しているのか理解できた。部屋の名前の通り、ふたご座の星の並びをかたどった飾りだ。
たった二日過ごした部屋だが、今は少しだけ名残惜しい。もし就活が終わって、希望している会社に就けたら、またここに来よう。一泊の値段を聞いて顎が外れるかと思うくらい驚いたが、頑張れば払えなくない金額ではある。
就職祝いとして、かつこれからの自分を鼓舞するためにはよさそうな考えである。
お風呂から上がり、頭を乾かして、寝る前に読書をしようと本を選んでいるときだった。
廊下から何か物音がする。
時計を見ると、日付が変わる少し前だ。こんな夜中にいったい誰が廊下で騒いでいるのだろうか。直接注意する勇気はないので、人物だけを確認して管理人を呼ぼうと考えた。
そっと扉を開けて確認する。扉を開けた瞬間、廊下にいた人物と目が合った。
「あ、識名様、申し訳ございません、起こしてしまいましたか?」
「い、いいえ、まだ寝ていなかったので大丈夫です」
驚いたことに、廊下で声を張り上げていたのは通報しようとした管理人だった。
彼は識名の左に三つ隣の部屋、処女宮の部屋の前に立っていて、扉をノックしようとしているのかこぶしを振り上げていた。どうやら、その部屋に宿泊している霜触を呼び出そうとしていたらしい。
「どうかしたんですか?さっきから声がしていましたが」
ちょうどそのタイミングで、二階から降りてきた人物がいる、秤谷だ。彼は水分をとりに二階に上がっていたのだが、管理人室に管理人はいない、食堂にもいない、挙句の果てに階下から大きな声が聞こえたので一階に降りてきたのだ。
「お騒がせしてしまって申し訳ありません。実は霜触様が出てこられないのです」
「霜触……、あの自称有名政治家の人ですか?今シャワーを浴びているとかそんなんじゃないんですか?」
秤谷が尋ねるが、管理人は首を振って否定する。自称有名政治家と言っているあたり、彼は霜触の名前に聞き覚えはないようだ。
「いいえ、シャワーの音は聞こえませんし、実は今日の夕食に霜触様だけ出てこられていないのです」
「体調が悪くて寝ているとか?ああ、でもいくらそれでもこれだけ声をかけていたら起きて返事くらいしそうなものですよね。そちらのお嬢さんも、声が聞こえて廊下に出てこられたんでしょう?」
突然話を振られた識名は、無言で頷いた。ただ、正確には廊下までは出てきていない。半身を扉の外に出しているだけだ。
「夕食の席で蟹江様や初取様、牛島様にもお尋ねしたのですが、ノックして呼びかけても出てこられないとおっしゃっていたので……」
「何かあったらいけない、ってことで確認しに来た感じですね。確かにそれはちょっと不安だな、管理人さん合鍵は持っていますか?」
「ええ、一応。これだけ呼びかけて反応がなければ、開けて確認した方がよさそうですね」
管理人はそう言うと、ベルトにつけられたポーチから鍵束をとりだした。
識名はこの状況下に自分もいていいのだろうかと悩んだが、ここまでくると件の部屋に泊まっている人間の安否を確認しないと安心できないので、鍵入れに差していた鍵をとって部屋の外に出た。
三つ隣の識名が騒がしさに気づくくらいなのに、隣の獅子宮に泊まる六波羅は気にならないのだろうか。通り過ぎざまに扉を見つめたが、こちらも物音ひとつ聞こえない。
「霜触様、部屋を開けますよ!」
管理人はもう一度だけノックし、声をかけながら鍵穴に鍵を差し込み、鍵を開けた。当たり前なのだが、ちゃんと「カチリ」という音がした。
「霜触さーん」
開いた扉の隙間から秤谷も声をかける。ちらりと部屋を覗くと、明かりがついている。霜触が部屋にいて、鍵を所定の場所に差し込んでいる証拠だ。
管理人が部屋に立ち入った瞬間、「うっ」と言って鼻をおさえた。それから一瞬遅れて識名も秤谷も鼻をおさえた。
部屋からは異臭が漂っている。
識名は思わず顔をしかめた。しかし、この異臭はどこかで嗅いだことのある臭い、一体どこで嗅いだんだっけ……。
秤谷は一瞬鼻をおさえたが、この異臭の正体に即座に気づいた。何度も何度も嗅ぎ慣れた臭い、決して慣れたくはなかったし、今の職業に就いてからは二度と嗅ぐことのないと思っていた臭い。
「霜触さん!」
管理人と秤谷が部屋に飛び込むのは同時だった。猪原が扉から手を離したために、ゆっくりと閉まり始めたので、識名は慌ててそれを阻止してしまった。咄嗟に手を出して扉が閉まらないようにしたのは良いものの、これからどうしよう、と一瞬悩んだがここに立っていても仕方がないので、二人の後に続いて部屋に滑り込んだ。
部屋に入ってまず目に飛び込んできたのは、真っ青な顔をして立ち尽くす管理人、床に膝をついてしゃがみ込み霜触の名前を叫び続ける秤谷、普通の速度で歩いているはずなのに進む速度は随分と遅いし、全ての動きがスローモーションに見える。
(ああ、やっぱりこの臭いには覚えがある)
管理人は自分が真っ青になっているのも関わらず、それよりも青い顔をしている識名に気づき、見ちゃだめです、と言いながら手で進路を妨害する。
だが、その努力は報われなかった。識名はもう、その光景を捉えていた。
ベッドの血だまりに倒れる、霜触の姿を。
ほとんど無意識に、そして意味もなく、自分の部屋にある時計を見るように、枕元に視線を向ける。時計は午前零時を指していた。
それきり、彼女の意識は途切れてしまった。
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