第三章 二日目 館

夜明けの館

 夢から覚める、今日はなんだかいつもよりいい夢を見られた気がする。

 しょぼつく目をしばたせながら、ゆっくりと体を起こす。この部屋には窓が一切ないので、恐らく朝なのだが部屋は真っ暗なままだ。夜中に台風が来るので、雨戸を閉めて眠った日の朝みたい、と識名はぼんやりする頭で考える。

 枕元の時計を確認すると、午前六時。彼女は毎日この時間に起きるので、いくら部屋が真っ暗でも、体内時計が狂わなかったために目覚まし時計なしでも起きられた。

 せっかくの休日なのだからもう少し寝坊してもよかったのだが、識名は昨日の本の続きを読みたかったし、その本を早く読み終えて図書室で出会った人におすすめしてもらった本も読んでみたかった。

 いきなり照明をつけると目がくらみそうだったので、ベッドライトだけ点灯させて起き上がる。足先の感覚だけでスリッパを探し当て、歩き出したところで何かに躓いて転ぶ。

 なんだなんだと思って床を見たが、なにも見えない。それもそのはず、彼女はかなりの近眼なのに、今は眼鏡をかけていなかった。慌てて昨晩眼鏡をどこに置いて寝たのかと部屋中を探す。いつもなら、眼鏡を置く定位置があるので探すのに苦労はしないのだが、昨日は特に何も考えず適当な場所に置いて寝た気がする。

 果たしてメガネは枕元に置いてあった。やれやれこれで一安心だと眼鏡をかけて、改めて床を見ると、どうも昨日自分が脱ぎ捨てた靴につまずいたようだった。

 なんで片付けておかなかったんだろう、と愚痴をいいながら今度はクローゼットの中にしまい込んだ。

 眼鏡をかけると視界はクリアになるが、まだ頭の方はぼんやりしている。とりあえず顔でも洗ってしまおうと、バスルームに入る。構造自体はそこら辺のビジネスホテルと変わらないユニットバスなのだが、この館は随分と広さがあり、大きな鏡も備え付けられていた。

 鏡に映りこんだ顔を見て、識名の口から思わず「うわぁ……」と声が漏れた。

 彼女は自分の顔に自信がない方なのだが、その中でも今朝は特にひどい。昨晩、どうせ明日も休みなのだからと夜更かししたのと、髪の毛を乾かさずにおいたのが災いした。目の下にはくっきりとクマが現れ、髪の毛もぼさぼさに乱れている。とても休日の大学生とは思えない顔に、これは髪の毛を梳かすのに苦労するぞ、と溜息をついた。

 じっと鏡を見つめていた彼女だったが、ある違和感に気づく。普段と何かが違う。なんだろう、クマも乱れた髪の毛も今日は一段と酷いというだけで、別に珍しいものではない。

 手櫛で髪を梳こうとして、それがなんなのかにようやく気付いた。



「ブレスレット?見てないっすねぇ」


「私も、見てないわね」


「僕も見てないですね。いつまではつけていた記憶がありますか?」


 朝食の席で、昨日仲良くなったばかりの三人に尋ねてみるが、三人とも同じ答えだった。

 昨日図書室で仲良くなった三人とは、夕食を一緒に食べ、そのときに「よかったら朝食も一緒にどう?」と誘われ、他人と食事をする機会が少なかった識名は、少し戸惑ったが憧れではあったので快諾した。


「いつもつけっぱなしでいるのでなんとも……。三階でプラネタリウムを見たときにはつけていた記憶はあります」


「ってことは、プラネタリウムを見た後に立ち寄った場所、通った場所に落ちているかもしれないわね。私も後で見てみるけど、双葉ちゃんももう一回部屋の中を探してみて。他人に部屋に入られるのは嫌でしょ?」


「そ、そうします。でも、なんか私のなくしものを探してもらうのは申し訳ないっていうか……」


「いいんすよ、それくらい。識名さんの顔色を見る限り、どうもそのブレスレットは大切なもののようだし」


 六波羅の言う通りだ。識名が常に身に着けているブレスレットは、数年前に亡くなった姉の形見だった。昔ビーズで作ってくれたもので、大学生の彼女がつけるには少々子供っぽさがあるのだが、それでも大好きな姉がくれた宝物であることには変わりはない。

 もう何年もつけているので、何度も紐が切れておりもしかしたら今回も知らぬうちに切れてしまったのかもしれない。もしビーズが床に散らばっているなら、誰か見つけてくれそうだが、いくつかは見つからないかもしれない。

 朝食を終え、食べ終えたお皿を厨房にいる猪原のところに持っていく。ちょうどその時、食事を受け取った男が識名とぶつかった。

 その衝撃で識名は持っていたお皿を落としてしまう。床が絨毯なのでお皿は割れなかったが、ぶつかった男は舌打ちだけを残してテーブルがある方に去ってしまった。

 六波羅にはその男に見覚えがあった。昨晩プラネタリウムに集合するときに同時に部屋を出た男であり、彼の前に割り込みをした男でもあった。そう、あの作業員風の男である。


「識名さん、大丈夫ですか!?」


 驚いた魚沼が駆け寄る。識名はぶつかってきた衝撃か、舌打ちをされた恐怖からか床にへたりこんでいた。

 何あいつ、と言って抗議しにいこうとする明村を六波羅が止める。言い寄りたいのは彼も同じだったが、ああいったタイプの人間に真正面から突っ込んでいくと、激高して殴りかかってくるのがオチだ。とりあえずこういったトラブルがあった、というのを管理人に報告したほうがいい。

 六波羅が説得している間に、管理人が厨房から飛び出してきた。


「識名様!怪我はありませんか?」


「だ、大丈夫です。それより、絨毯が……」


 絨毯には、識名が落とした皿の汁が零れ、染みを作っていた。

 管理人は大丈夫です、この程度なら直ぐに落とせますので、と言いながら明村と六波羅の視線の先を追って、全てを察したようだった。


釣瓶つるべ様ですね……」


「釣瓶って言うんすか、あの男」


 六波羅の問に管理人は首肯する。そして声をひそめて続きを話した。


「釣瓶一生いっせい様です。あまり管理人がお客様の個人情報をベラベラ喋るのはよくないのですが、実は彼には少し困っておりまして……」


 管理人は眉を下げて、如何にも迷惑していますという顔をする。確かに昨日の態度は目に余るものがあったが、その他にも何か迷惑しているのだろうか。


「オーナー、星川ほしかわ様といいます、は皆様に日頃の疲れを癒していただくためにここに招待されましたが、彼一人の影響で不愉快な思いをされないかというのを危惧しているのです。幸い、あまり外には出てこられないようですので、今のところは何とかってところですが、他のお客様に危害を加えられたとなると……」


「だ、大丈夫です。私がぼーっとしていたから、ぶつかってしまっただけだと思います、こちらこそすみません」


 明村が謝らなくていいんだよ双葉ちゃん、と言っていたが、識名は全て自分の責任だと言わんばかりに謝り続けた。

 このままでは埒が明かないと思った六波羅が、年長者らしく先導して三人を食堂から連れ出した。

 最初は昨日のように図書室で話をしようかと思ったのだが、先客がいた。

 まだ挨拶をしていない男女と、蟹江と初取が椅子に座って読書をしていた。

 蟹江と初取が図書室にいるのならば、とサロンを覗いてみると、案の定誰もいなかった。

 識名と明村を座らせて、六波羅と魚沼が飲み物を持ってくる。識名と魚沼が紅茶で、明村と六波羅がコーヒーだ。


「落ち着いた?双葉ちゃん」


「はい、さっきはすみませんでした……」


「あれは識名さん悪くないんだから、誤らなくていいんですよ」


 魚沼が優しく声をかけるが、相変わらず識名は悲観的な顔をしている。おそらく彼女のこの性格は生まれつきなのだろう。生まれつき、とまではいかなくとも育った環境がそうさせてしまっているのだろう。


「大体ここのオーナーさん、星川氏でしたっけ?私たちの名前を調べて招待するんだったら、人となりまで調べてから招待するべきよ」


 明村が憤慨する。それに三人とも同意したが、ぽつりと識名が


「でも、私たちの名前をどうやって調べたのでしょうか」


 と呟いた。その質問には雑誌記者の明村が答えた。この手の問は彼女の専門分野だ。


「おそらく、SNSを活用したんでしょうね」


「Twitterとか、Facebookですか?」


「最近ならInstagramとかもね。もし本名で登録しているなら、星座の名前から連想される文字を検索したんでしょうね。SNSをやってなかったとしても、人によっては引っかかるでしょうね」


「僕だと論文とか、あの社長さんとかなら会社のサイトで引っかかりそうですね。明村さんも記事の署名で?」


「多分。基本的にはペンネームだけど、隠さなくていいものは本名で載せたものもあるからそれでしょうね。双葉ちゃんと六波羅さんは?本名でSNSやってる?」


「Facebookが本名なんで、多分それっすね」


「わ、私は本名でSNSはやっていませんが、学校関係で載せられたことがあったのでそれかも……」


 それってどうなの?と明村は眉間にしわを寄せる。学校関係で本人も認知しているとはいえ、誰でも見られるインターネットに名前を公開するのはいかがなものだろうか。


「釣瓶さん、でしたっけ。あの人がどういう探し方で引っかかったのかはわかりませんが、せめて身辺調査でもしてほしかったですね」


「探偵雇ってまではやりたくなかったんじゃないすか?」


 それには三人とも同意した。こんな大規模に招待客を集めるくらいなのだから、探偵を雇うぐらいのお金も持っていそうなものだが、その手間がめんどくさかったのだろうか。

 名前だけしか知らないオーナーを、ほんの少しだけ呪った。


「さてと、双葉ちゃん落ち着いたみたいだしブレスレット探し始めますか」


「えっ、あれ本気で言っていたんですか」


「当たり前じゃない、困っている人がいたら助ける。これ基本よ」


 私の落としてしまったブレスレットなのだから、自分一人で探すので大丈夫です、自分の責任なので……、と今にも言い出しそうになった識名を六波羅が手で制止した。


「識名さん、こういう好意は素直に貰っておくべきっすよ」


 でも、と言いかけた識名だったが、不思議と優しく笑いかける三人の顔を見ると、その言葉は心の奥に引っ込んでしまった。

 彼女は他人の好意というものが怖かった。これは彼女の生い立ちが、というのもあるが、彼女の周りには好意の対価として何かを求める人間が多かったのだ。そのために、いつの間にか好意の裏側に何か隠されているような気がしてならなくなったのだ。

 しかし、彼らの顔を見る限り純粋に困っているなら助けたい、と心の底から思っているように見えた。

 この三人の好意なら、受けてもいいもしれない……。


「で、ではよろしくお願いします」


「よしよし、それでいいんすよ」


「よし、じゃあ探しに行きましょう、と言いたいところですが」


 魚沼の制止に三人が怪訝そうな顔をうかべる。


「六波羅さん、その微妙な敬語やめませんか?変な敬語に文句を言っているんじゃなくて、この中では六波羅さんが一番年上なのに、敬語使わなくていいんですよ」


「あ、そっちに意見があったんすか。この敬語に慣れちゃったからなぁってのはあるんすけど、三人とも敬語に文句ありそうな顔しているから敬語やめるね」


 年下の目線に怖気付いた六波羅が敬語を外した。三人とも年上が敬語を使っていることに恐縮していたのだ。勿論、その敬語に他意がないことはわかっていたのだが。


「よし、それじゃあ探しに行きましょう」


 明村の号令で、全員立ち上がった。

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