2-3. 天城至
来徒教団。男は確かにそう言った。
アナートマン。男は確かにそう名乗った。
緊急事態である、即刻退避せよと、僕の頭は警報を鳴らし続けている。しかし、指の先すらも動かせないほどに体は固まってしまって、アナートマンと名乗った男から目が離せないでいた。
「貴方のように前世の記憶を持たず、前世に縛られないことこそが、人類の本来あるべき姿なのです。既に自らの手を離れた過去の記憶なんて、幻影以外の何物でもない。人々はその幻影に惑わされている。陽炎のような幻影の中でもがき苦しむのが人の性であると、切り捨てるのは簡単です。しかし来徒教団には、その幻影を払う使命がある」
無数の皺が刻まれた男の顔が歪み、笑顔のような何かを作り出す。本人は満面の笑みを浮かべているつもりなのだろうが、大きく湾曲した口と目がさらに曲がるのだから、その表情は不気味と称する他ない。
「天城さん! 前世という幻影を払うには、前世の記憶がない貴方の存在が不可欠です! さあ! 我々来徒教団と共に世界の変革を!」
狂気じみた形相で、狂気に満ちた台詞を列挙するのだから、その恐ろしさはひとしおだ。人間社会の常識や言語が通じなさそうな異形さが、この男にはある。
「か、勘弁してくれよ。あんたらみたいな危ない集団とつるむなんて――」
「おや。我々のことをご存知なのですね。これは話が早い」
震える唇をなんとか動かし、男を拒絶する言葉を述べてみせる。だがそれも逆効果となってしまったようだ。
来徒教団。人類を前世という呪縛から解放するなどとのたまい、その実現のためには手段を選ばないという危ない連中だ。その存在や狂気に満ちた思想を知らぬ人間は、まずいないだろう。
「さあ、天城さん。さあ、さあ」
「な、なんで僕なんだ。そ、それになんで僕のことをそんなに知っているんだ」
そんな『ヤバい集まり』である来徒教団の、アナートマンという男が、執拗に僕へと迫ってくる。その事実がどうしても不可解で、僕はそのことをアナートマンに問いかけた。
大声で助けを呼んだり、警察のところへと駆け込むべきだったのかもしれない。しかし、僕は足がすくんで動けなくなってしまった上、恐怖でまともに頭が働かなくなっていた。
「我々は、ずっと貴方を追ってきました」
「はあ……?」
「我々は、貴方のような人間を求めていたのです。そして十年前、天城さんを見つけることができた。ですが貴方はまだ幼かった。ですので、理想的な来徒として覚醒するまでの間、見守ると決めたのです」
アナートマンの言葉に、僕は何も返せないでいた。
僕が前世の記憶を失うこととなった、十年前の事故。来徒教団はその時から僕に目をつけていたのだと、アナートマンは言う。それを聞いて、大量の疑問と恐怖が喉に詰まり、息をすることすらままならなくなってしまった。
「そして、時は満ちた。前世の呪縛から解き放たれた方こそ、来徒教団のシンボルとしてふさわしい。さあ天城さん、我々と共に人類の救済を!」
アナートマンはこれまでにないほど仰々しく両手を広げ、血走った目をこちらへ向けてみせた。貼りついたようにも、ひきつったようにも、無理やり作ったようにも見える笑顔が僕を見つめている。その顔には、もはや狂気しか宿っていない。
「来徒のシンボル」
「はい」
詰まった喉をなんとか開き、彼の言葉を復唱する。ようやく絞り出せた言葉は、それだけだった。それに対してアナートマンは、ただ大きく頷いてみせる。
「それが僕だっていうのか」
「はい」
「前世の記憶がないから」
「はい」
「来徒教団に協力しろと」
「はい」
まるで思考を整理するかのように、アナートマンの発した台詞を復唱する。彼も彼で、僕の思考整理を促すよう、ただただ『はい』と肯定し続けるのだった。
そうしている内に、僕を支配していた疑問と恐怖が段々と霧散していき、思考能力が手の内に戻ってくる。
「ふざけるな」
完全に我に返ったその時、新たに僕の中を埋め尽くした感情が、喉の奥から溢れ出てきた。
「お前たちは何もわかっちゃいない。前世の記憶が鎖だと? 前世の記憶がない僕は、解き放たれたと? ふざけるな」
冷静を取り戻した僕の中に生じたのは、怒りだった。
「僕にとっちゃ、前世の記憶がないことが鎖なんだ。前世の記憶がないのに、前世のせいで現世が割を食ってる。こんな納得できないことってあるか」
この十年間、僕は前世という鎖に縛られ続けてきた。
鎖の正体がわかっていれば、怒りをぶつけたり諦めたりできたことだろう。だが僕の場合、その鎖の正体すら掴めないのだ。
自身には見えないが、僕は確かに鎖に縛られている。
施設暮らしであったり、前世が原因でまともな教育を受けられない環境であったり、大人たちが僕を見る目であったり――そういった様々な事象が、見えない鎖の存在を物語っている。
自らを縛る鎖が、他者には見えている。
このもどかしさを、僕は十年間も味わってきた。
それなのに、なにが理想の来徒だ。
なにが前世の呪縛から解放された人間だ。
前世なんて関係ないだとか、大事なのは現世だとか、こういう類の人間たちは決まってそんな無責任なことを言う。
この来徒教団とかいう奴らも、本質的なところは前世主義者と変わりない。自らの理解が及ばないものを否定して、自らの都合がよいものを肯定する。前世か現世か、そのどちらに重きを置いているかが違うだけなのだ。
「前世の記憶が原因で、両親には捨てられた。前世の記憶が原因で、進学先も限られた。存じております」
そんな僕の怒りを知ってか知らずか、アナートマンは少しも動揺することなく、先ほどまでと同じように頷いてみせる。
両親に捨てら、他の学校から入学を拒否された学生が集まる高校に行く他なかった。それらは確かに事実である。どうやら、僕を十年間追ってきたというのは事実であるようだ。
だがその事実を突きつけられると、やりどころのない怒りが再び湧いてきてしまう。
「天城さん、貴方の言うことは最もです。ですから私は、貴方を『理想的な来徒でありながら前徒でもある』と称したのです」
アナートマンは、努めてゆっくりと低い声を出しているように思える。それはまるで僕の怒りを宥めるかのようでもあり、僕に言い聞かせているかのようでもあった。彼からすると、僕は孫ほどに年齢が離れているであろう。そんな彼の所作は、僕にいるかもわからない祖父の姿を想起させた。
確かにアナートマンは、僕を来徒だと言い、同時に前徒であると先ほど述べた。それらの言葉の意味を聞いたわけではないが、大体の察しはつく。
前世に苦しむ者でもあり、前世から解き放たれた者でもあると、アナートマンは言いたいのだろう。都合の良いことばっかり言いやがって、と反論する気は何故だか失せていた。
「ですが天城さんの場合、前世の記憶自体が鎖となっているのではありません。この社会に蔓延る前世主義が鎖となっている……そうではありませんか?」
僕の心から何かを掘り起こすように、アナートマンは問いかけてくる。彼の言うことは間違いではない。その者を評価する指標として『前世』が第一に挙がる社会であるから、僕は今苦しんでいる。
「だったら何なのさ」
「世界が前世の呪縛から解き放たれたら、誰もが前世について語らない世界となったら、天城さんの悩みも解決するとは思いませんか?」
否定も肯定もしない僕へ、アナートマンは畳みかけてくる。どうやら、僕の奥底に眠る不満や疑念を見つけ出したようだ。それを、この男は見逃さない。
誰もが前世について語らない世界。
ありもしない世界を夢想して、虚しくなる。
前世の記憶を持ち合わせて産まれてくること。それは世界の理であり、不変の事実である。僕らは人間である以上、その理から外れることはない。
人間が二本足で地を歩いてる以上、『空を飛べたらいいのに』と思いを馳せるだけ無駄なのだ。それと同じように、『前世の記憶のない世界』というのは、夢物語でしかない。
「そんなの当たり前じゃないか。そんな世界になんてならないから僕は――」
「人類を前世の呪縛から解き放つ方法を、我々は知っています」
だがその夢物語を、来徒教団の一員であるアナートマンは真顔で語る。その表情には、一点の曇りもない。僕を騙そうだとか、妄想を語ろうだなんて気配はなく、真剣さ以外の一切を排除したものだった。
「前世主義は悪であると、全ての人々に植え付ければよいのです。人類全ての前世を、統一すればよいのです」
その瞳は真剣に理想郷を見据え、その口は真剣に夢物語を語った。
真剣に語れば語るほど、夢物語は現実味を帯びていき、狂気を内包することとなる。アナートマンが語るそれは間違いなく狂気に満ちていて、来徒教団ならば現実のものとしかねないと思わせるほどの恐ろしさがあった。
「人々を前世主義を崇拝する現世から引き離し、前世主義を畏怖するまっさらな来徒へと昇華させるのです。我々は、『
その言葉の響きと意味を咀嚼する度、背筋に冷たい汗が伝う。
人を現世から引き離す、来徒へと昇華する。それはまさしく、アナートマンが言うように、前世の
「ど、どういう――」
「つまりですね」
現世を捨てさせ、来世へと旅立たせる。
その方法は、想像に難くない。心当たりだとか予想だとか不明瞭なものでなく、確信めいたものがある。そうやって彼らは、様々な人間を葬ってきたのだろう。
だがそれを理解することも、口にすることも恐ろしい。そんな僕の言葉尻を遮って、来徒教団の目指す理想郷についてアナートマンは語る。
「すべての人類を、『来徒教団に
彼の口元は再び歪み、そこからは歪んだ理想が語られる。
「皆が来徒となり、夢のような世界が来る――これが我々の計画、
俗に言う『危ないカルト集団』、来徒教団。
その噂に違わぬ鋭い牙が、垣間見えた。
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