9-2. 轟潤一

 かつて夢見たもの、かつて味わったもの、かつての仲間たち。ありとあらゆる過去が屍となって、控室の床に這いつくばっている。


 この屍を踏み越えなくては、未来を見ることは叶わない。そう自分に言い聞かせてみるものの、本能や理性といった諸々が理解することを拒んでいた。


「主要関係者たちの離来徒リライト、完了いたしました」

「ご苦労様です、アナートマン。こちらも滞りなく終わりましたよ。これで、観客以外の人間は全員離来徒リライトできたと思われます」

「あとは語死カタルシスの準備をするだけですね。外にいるアニッチャと連絡を取ります」


 いつの間にか控室にやって来ていたアナートマンがカルマと話し込んでいるのが見える。彼らの目には、足元に転がったオレの仲間たちは映っていない。ただひたすらに、彼らが理想とする未来を見据えていた。


 だがオレは、どうしても足元に、過去に目がいってしまう。

 かつて苦楽を共にした仲間たちから、目を離すことができない。


『いいか、轟潤一。この計画は、絶対に成功させるんだ』


 アニッチャの言葉が脳裏をよぎる。先日、彼女と一夜を共にした際の言葉だ。


 彼女の思いを、決意を、オレは全て受け入れた。だというのにオレは、今もこうして二の足を踏んでしまっている。


「ドゥッカ、どうしましたか?」

「顔色が優れませんね。無理もありません。あとは我々がやりますので、休まれてはどうでしょう」


 足元に転がった仲間たちをじいっと見つめていると、カルマとアナートマンの二人がこちらに歩み寄ってきた。彼らは口々にオレを心配する言葉を述べている。だが言葉の端々に、早くこの離来徒リライトを実行したいという気持ち――焦りのようなものが滲み出ていることに気づく。


 冷静に見える彼らとて、焦りがないはずがない。成功しても逃げおおせなければならないし、失敗は破滅を意味するのだから。


「そうですね。この通り観客も揃いましたし、あとは語死カタルシスを撒くだけです。ドゥッカは休んでいて構いませんよ」


 この通り、と言いながら、カルマは自らの背後を指さした。そこには、年季の入った古びたブラウン管がある。それは、控室にいる人間たちが暇つぶしにテレビ番組を見るのに使われていたものだ。


 それはテレビ番組を見る目的だけでなく、会場に設置されたカメラの映像を映すことにも使われていた。今画面に映っているのも、観客席とステージを俯瞰した映像だ。



『いつかはこの観客席を、俺たちのファンだけで埋め尽くそうぜ』



 ふと、いつだったか仲間の一人が語った夢を思い出した。


 ブラウン管の向こうには、人で埋め尽くされた観客席が見える。所狭しと肩を並べる人々は皆、オレたちのファンだ。かつて語らった夢は現実となり、現実は形となって、こうして目の前に広がっている。


 そして、形を成した夢は、これから霧散する。一人残らず殺しつくされて、来世へと導かれる。


 他でもない、オレの手によって。


「――――ッ!」

「ド、ドゥッカ! どうしたのですか!」

「待ちなさい! ドゥッカ!」


 気づけばオレは、控室を飛び出していた。


 オレを呼び止める二人の声が背中越しに聞こえてくるが、もう止まれない。教団の一員だと思われる人間たちと、廊下で何度も肩がぶつかるが、気にも留めない。


 目的を達成する機会は、何度もあった。いくらでも隙はあったというのに、踏み留まったのは自分自身だ。そのことを悔やんでも、もう遅い。


 頭と心を渦巻く後悔の念から目を逸らしながら走り続けている内に、舞台袖へと辿り着いた。薄暗い舞台袖の向こうには、見慣れたステージが見える。その先にはきっと、大勢のファンたちがいるのだろう。


「うおっ――」


 ステージに躍り出ようと再度駆け出したところで、何か大きな塊のようなものに躓いた。駆け出した勢いのままにオレの体は前のめり、床に叩きつけられ、そのまま派手に転がっていく。


「なんだなんだ」

「見ろ、轟だ!」

「ど、どうしたんだ……?」


 悲痛の叫びをあげる体に鞭打って顔を上げると、目の前には観客席があった。どうやら、ごろごろと転がりながら舞台上に飛び出してしまったようだ。


 それに気づいた観客たちの視線が、一様にオレへと集まっている。皆それぞれが、動揺の言葉を口にしているのが聞こえてくる。 


 ふと舞台袖の方へ目をやると、先ほどオレが躓いた大きな塊が見えた。それは、ぴくりとも動くことなく地に伏せる、顔馴染みの男性スタッフだった。きっと、アナートマンによって離来徒リライトされたのだろう。


 ゆっくりと、視線を観客席へと戻していく。数百もの瞳が、まっすぐにオレを見つめていた。この者たちも、あと少しもすれば、あのスタッフと同じようになる。


 そんなことが、あってよいのか。

 煮え切らないオレに巻き込まれる形で、多くの命が奪われていいのだろうか。



「――今すぐ逃げろォ!」



 自問に対する答えが出る前に、オレは叫んでいた。


『ドゥッカ! 何をしているのですか!』


 右耳につけたイヤフォンから、アナートマンの怒号が聞こえてくる。ちらりと天井を見ると、そこに取り付けられたカメラがこちらを覗き込んでいた。彼らはきっと、その映像を控室で見ているのだろう。


 オレは、じっとカメラを見つめる。


 そしてゆっくりと、右手の人差し指を口の中に突っ込み、口角を引張って――『牙のポーズ』をしてみせた。


「このライブ会場は今、来徒教団って奴らに狙われてる! 会場の関係者も、オレのバンド仲間も、誰も彼も殺された! すぐにここにも毒が撒かれる! だから早く逃げろ!」


 カメラから観客席へと視線を戻すと同時、オレは叫んだ。幾度となく慟哭をあげてきたこの舞台上だが、ここまで魂を込めたのは初めてかもしれない。


 何が正しくて、何が間違っているかは、後で考えよう。とにかくこれ以上、オレを慕ってくれる者たちに死んでほしくない。その思いだけが、今のオレを突き動かしている。 


「え、何……?」

「演出か何かだろ?」

「それにしては趣味の悪い演出だな」


 オレが決死の思いで叫んだ一方、観客たちはただ困惑するだけであった。無理もない、いきなり『みんな殺されるから逃げろ』だなんて言われて、真に受ける方がどうかしている。


 ましてやここは、ライブ会場だ。演出のひとつだと言われても、何ら不自然なことはない。


『……皆さん! 語死カタルシスを!』

『ま、待ってくださいアナートマン!』

『カルマ様! 観客に逃げられては全て終わりです! こうなってはもう一刻の猶予もない!』


 小さくどよめく会場に対して、右耳はやかましい。

 どうやらアナートマンは、このまま離来徒リライトを実行するつもりらしい。


 そうなっては一巻の終わりだ。こうしてオレが飛び出した意味がまるでなくなってしまう。なんとかしなければ。寸でのところでカルマがストップをかけているが、それもいつまで続くかわからない。


『ですが、ドゥッカが――』

『あの裏切り者に何の慈悲がありますか!? カルマ様、ご決断を!』


 アナートマンが叫ぶと同時、右耳が大人しくなった。故障かとも思ったが、二人の息遣いはきちんと聞こえている。カルマが首を縦に振るのを待っている、といった状況なのだろう。


 カルマの反論が聞こえてこないあたり、もう時間がない。あと数秒もすればきっと、彼は離来徒リライト実行の号令を出すだろう。


「お願いだ! 早く! 早く逃げ――」


 急がなければ、と再度観客に向かって叫んだ刹那、会場の扉という扉が固く閉ざされる音が響き渡った。まるで、断頭台の刃が振り下ろされるような、重苦しい音が。


「と、扉が……!」

「おい! 開かないぞ!」


 何事かと扉へと駆け寄った観客たちが、悲痛に顔を歪ませながら喚き散らす。それを聞いた他の観客たちが、一斉に席を立って扉の方へと向かっていく。オレは膝から崩れ落ちて、ただただそれを眺めていた。


 もう、おしまいだ。

 すべてが遅すぎた。オレが決断するのも、こうして離来徒リライトを止めようと駆け出すのも、何もかも。


 舞台上に両膝と両手をついて項垂れていると、ふと頭上から生暖かい風がオレに吹き付けた。顔を上げて天井を見ると、そこには通気口のようなものが見える。


 この風はきっと、死を運ぶ風だ。

 密閉されたライブ会場内に、語死カタルシスが散布されたに違いない。



「あっ――ああ――」

「くるしっ――たすけ――」

「なん――おおっ――ああっ――」



 死は、会場中に運ばれていった。


 一人、また一人と倒れていき、声にならない声をあげながら藻掻き苦しんでいるのが見える。そしてそれを眺めるオレ自身も、段々と意識が遠のいていくのがわかった。


 霞んでいく意識の中で、オレは自責の念に駆られていた。

 悔やんでも悔やみきれない思いだけが、首の皮一枚でオレを繋ぎとめている。


 こうなったのは全て、オレのせいだ。

 バンドメンバーの仲間たちよ、スタッフの人たちよ、集まってくれたファンたちよ、どうかオレを許さないでほしい。来世まで、オレを恨んでくれ。


『いいか、轟潤一。この計画は、絶対に成功させるんだ』


 そして、アニッチャ。本当にすまない。

 オレは成し遂げることができなかった。君の思いを、決意を、執念を、踏みにじってしまった。



「……ドゥッカ」



 いよいよ終わりの時が近づいてきたその最中、頭上からオレの不廻名まわらずなを呟く声があった。依然として呼び慣れないその名前を聞きながら、必死の思いで視線だけを動かして、声の主を探した。


「どうして……このようなことを……」


 そこには、防護服のようなものに身を包んだ男が立っていた。誰だ、と問う力はなかったが、その正体を察するだけの意識は残っている。


 言うまでもなく、カルマだ。右耳から『お止めください』、『お戻りになってください』とアナートマンの声が聞こえてくることからも、間違いないだろう。


「私の責任です。貴方にはまだ、来徒教団の理想を伝えきることができていなかったのかもしれません」


 彼が何かを呟いているが、死に体となった今、それもよく聞こえない。


 いや、違う。

 カルマの声が聞こえないのは、死にかけているからとか、意識がはっきりしないから、そういう理由ではない。


『いいか、轟潤一。この計画は、絶対に成功させるんだ』


 それは、靄のかかった頭の中で、アニッチャの声が何度も反響していたからだ。彼女がオレに伝えてくれた思いを、願いを、最期に果たすことができるかもしれないと、魂が震えていたからだ。


『それが私のためであり、お前のためであり、人類のためでもある。ありとあらゆる全てのために――』


 この死の間際で、アニッチャとオレの計画を成功する機会がやってきたのだと、心臓が再び動き始めたからだ。



『――カルマを殺す』



 カルマを殺すという計画を実行に移す絶好の機会だと、魂が震えているからだ。



『私の目的は、前世から何も変わっちゃいない。殺された夫の無念を、志半ばで殺された春日公子の未練を晴らす。そのために私は己を殺して、あいつらに従ってきた。復讐の心だけが、今の私の原動力だ。離来徒リライトも、来夢来徒ライムライトも、実を言えばどうでもいい。私は奴を殺せれば、何だっていいんだ』


 人間は死の淵に走馬灯が見えると言うが、どうやらオレもその例に漏れなかったようだ。


『前世に囚われている? 愚かな前徒? 上等じゃないか。人間は前世からは逃れられないんだから。喜びも感動も、もちろん恨みや憎しみだって、前世と現世で繋がっている。それから目を背けようなんて、奴らこそ愚かだと私は思う』


 ただしその走馬灯は、アニッチャの姿と言葉で埋め尽くされていた。オレが彼女からすべてを受け取った、あの夜のやり取りだけが脳裏に浮かぶ。


『これまでカルマを殺す機会を幾度となく窺ってきたが、奴はやはり聡い。奴は決して、私と二人きりで会おうとはしなかった。私と会う時は、必ずアナートマンを横に置いていた。アナートマンは人の殺意に敏感だ。なんでも前世では人殺しだったらしいからな。前世の私も、奴に返り討ちにされた』


 オレの前世――桂小百合の娘は、春日公子は、自殺などしていなかった。彼女は、殺されたのだ。来徒教団の者たちの手によって。それを聞いた時、自身の中に確かな怒りが芽生えたのを、よく覚えている。


『だから、協力者が必要だった。前世の私の母だった人間、轟潤一を勧誘するように言われた時は、天啓だと思ったよ』


 そして奴らは、そんな彼女の現世までもを利用した。この離来徒リライトを成功するために、春日公子に負い目を感じているオレを利用しろと持ち掛けたのだ。


 しかしアニッチャはそれを逆手にとって、オレに協力を依頼してきたのだが。


『当日、きっと私は会場外の担当となる。余計な邪魔が入らぬよう見張る役目になるはずだ。となれば、私はカルマに近づけない。だから、頼む。ライブ会場に語死カタルシスを放った後、きっと奴らには隙ができる。その時を、狙うんだ』


 そして彼女は、オレの手を取った。


『これはアニッチャからではなく、かつて春日公子であった、貴方の娘であった者からのお願いだ』


 一人の女ではなく、かつてのオレの娘として。

 一人の男ではなく、かつての母である桂小百合の手を。



『お願い……お母さん。私の仇を取って……』



 その言葉は、呪いに近かった。


 桂小百合は、『娘の力になりたい』という思いを抱きながら亡くなった。現世となった今、男として生きる今、その思いは幻影でしかない。幻影でしかない、はずだった。


 だがこうして、公子は再び現れた。

 オレを『お母さん』と呼び、助けを求めてきてくれている。


 娘の無念を晴らしたくないと思う母親が、どこにいようか。

 娘のために手を伸ばさない母親が、どこにいようか。 


 気づけばオレは、公子の手を握り返し、カルマを殺すと誓っていた。彼女のすべてを受け取って、それを携え今日という日に臨んだのだ。


「――え、ロ――よ――」

「……え?」


 オレは床に這いつくばりながら、必死に喉の奥から言葉を紡ぎ、胸ポケットをまさぐった。


 公子から受け取ったものは、すべてこの胸にある。

 彼女の思いや怒り、決意や信念は、胸の内に。



「今のお前……ロックじゃないんだよ……」



 そして、彼女が愛用していた拳銃は、胸の外に。


「それは……アニッチャの……」


 震える腕を決死の思いで押さえつけ、拳銃をカルマに突きつける。その銃口は彼の眉間を捉え、残された僅かな力は引き金に込められた。



「ドゥッカ――」

「じゃあな。来世で会おうぜ」



 2004年、冬。

 乾いた銃声が鳴り響くと同時、オレは意識を手放した。

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