9-3. 天城至

 山奥にひっそりと佇む、来徒教団本部。その地下室にある、鉄格子。その中には、痩せこけた中年の女がいた。アナートマン曰く、この女が僕の記憶を奪ったのだという。


「お前だけは! お前だけは殺す!」


 手足を枷で縛られた女は、鉄格子を何度も揺らしながら、僕に怨嗟の言葉を投げかけてくる。これまで向けられたことのない感情と表情に、思わず一歩たじろいでしまう。


 この女が僕の記憶を奪ったとは、どういうことだ。


 彼女が超能力のような何かを持っていて、僕から前世の記憶を抜き取ってしまった――なんてことはあるまい。


 それに、ここまで敵意や殺意を抱かれる理由にも心当たりがない。きっとその心当たりとやらは、失われた前世の記憶の中にあるのだろう。


「殺す! 殺す殺す殺す殺す殺す!」


 女が鉄格子を揺らすたびに、格子と手枷が何度もぶつかり合い、甲高くも鈍い金属音が地下中に轟く。初めこそその剣幕に恐怖したが、段々と煩わしくなってきた。色々とアナートマンに問いたいことがあるのだが、こうも煩くてはたまらない。


「お前だけは――」

「少し黙っていろ」


 そう思っていた矢先、アナートマンは握った拳を鉄格子の隙間に突き出した。その拳は女の細い腹に突き刺さって、彼女はそのままくの字に折れ、声のない絶叫とともにうずくまる。


 再び訪れた静寂の中で、アナートマンは鬼の形相で佇んでいた。皺の刻まれた肌には青筋が浮かび、相貌はさらに歪んでしまっている。


「な、なにも殴らなくたって……!」

「失礼しました。しかし、これで静かになりました」


 困惑の言葉を口にすると、アナートマンは僕へと向き直る。その表情には、いつもの胡散臭く歪んだ笑みが貼りついていた。


 乱暴極まりないやり方ではあるが、女が静かになったのは正直なところありがたい。僕は全てを知るために、全てを聞くために、全てを取り戻すために、ここにきたのだ。


 だから僕はそれ以上何も言わず、ただアナートマンの言葉を待った。



「天城さん。十六年前に我々が起こした事件について、ご存知でしょうか」



 しかし彼が語り出したのは、僕の前世についてでも、鉄格子の中でのたうち回る女についてでもなかった。


 十六年前に来徒教団が起こした事件を知っているか――それは、あまりにも今更過ぎる質問だ。


「それは、まあ……」

「愚問でしたね」


 来徒教団について、そして2004年のテロ事件について、知らない人間はまずいないだろう。


「十六年前、我々はとあるライブ会場での離来徒リライトを行い、その後に来夢来徒ライムライトを実行する予定でした」


 今から遡ること十六年前、小さなライブハウスに霧状の毒が散布され、会場のスタッフや観客、合わせて百人近くが亡くなった。世界的に見ても大規模なテロ行為ということもあって、国内のみならず世界中が震撼したらしい。


「しかし、それは失敗に終わりました。我々はカルマ様を失い、警察に追われる身となったのです」


 そのテロ行為を画策したのが来徒教団であり、教団の代表である『カルマ』を含めた教団幹部ら数名が首謀者とされている。


 事件当日、教団員を名乗る者からの通報を受けた警察がライブハウスに駆け付けたことにより、教団員のほとんどは逮捕された。また、カルマの死体もそこで見つかっている。どうやら彼は教団員と争い、命を落としたらしい。


「私の顔、傷だらけで歪んでいるでしょう。警察から逃れるために、自分の顔を自分で弄った結果なのです」


 しかし、首謀者である幹部数名や教団員の一部は警察の手を逃れ、現在も全国指名手配中だ。そして、事件に使用された毒物に関しても、その者たちに全て持ち去られてしまい、現在も見つかっていない。このままでは第二の事件が起きるのも時間の問題だと、警察は躍起になって逃亡した幹部らを今も探しているようだ。


 とまあ、その年に産まれた僕ですら、事件の概要は知っている。


 毎年冬になれば、事件に関する特番や追悼番組がテレビで放送されるのだから、嫌でも知識として入ってしまう。とにかく、それほど凄惨かつ有名な事件だったということだ。


 だから、来徒教団を名乗るこの男が僕の目の前に現れた時は、ひどく恐ろしかった。それも、テロの首謀者の一人であり、今もなお指名手配されている『アナートマン』であると名乗ったのだから尚更だ。


「……過去に類を見ない凶悪犯罪だ。当事者から改めて説明されなくたって、誰でも知ってるよ」

「はははは。お恥ずかしい限りです」


 言葉に精一杯に嫌味を込めてみたが、アナートマンというぬかに嫌味の釘は刺さらない。それどころか、心底楽しそうな笑みさえ浮かべている。


「……今更、そんな話をしてどうなるんだよ」


 一方で僕は、怒りに震えていた。


 敢えてか無自覚か、とにかく核心に触れようとしないこの男に、段々と腹が立ってくる。わなわなと肩が震え、腹の底から感情が沸き立ってくるのを感じていた。


「僕は、僕の前世を知るためにここに来たんだ。僕がどうして前世の記憶を失ったのかを知りたくて、ここに来たんだ」


 怒りを言葉にしている内に、感情の抑えが効かなくなってくる。僕はアナートマンの肩を掴み、彼へと詰め寄った。


「この女が僕の記憶を奪ったってどういうことだ。僕の前世は何者だ。前世の僕はお前たちとどういう関係だったんだ。お前らの起こした事件なんて、心底興味がない! 御託はいい! 答えろ! アナートマン!」


 アナートマンの肩を揺らす度、僕が怒りをぶつける度、彼の表情から笑顔が剥がれ落ちていった。僕の想いを汲み取ってくれたのか、それとも『興味がない』と言われたことに腹を立てているのか、それはわからない。


「……今から十年前。この女は、貴方の命を奪おうとした」


 僕の慟哭からしばらく経って、アナートマンは口を開いた。実に、苦々しい表情を浮かべながら。


 彼が告げたのは、思いもよらない過去だった。鉄格子の中でうずくまる中年の女は、かつて本当に僕を殺そうとしていたのだと、アナートマンは言う。


「え……」

「貴方が施設に入って間もない頃です」


 言葉を詰まらせた僕をちらりと見て、アナートマンは話を続ける。


「職員が目を離した隙に、この女は貴方を物陰へと引きずり込んで、首を絞めた。私がそれを阻止できていなかったらと思うと……考えるだけで恐ろしい」


 アナートマンの言葉を聞きながら、僕は自らの首筋を撫でてみる。かつてこの首に手をかけたのがこの女で、その手を払ったのがこの男だという。


『前世の記憶をもたぬ者、我々はそのような人間を求めていたのです。そして十年前、貴方を見つけることができた。ですが貴方はまだ幼かった。ですので、理想的な来徒として覚醒するまでの間、見守ると決めたのです』


 彼のかつての言葉が、頭の中で何度も反響する。その言葉に嘘偽りはなく、この男は十年前からずっと僕を見ていたのだ。そしてそれは、アナートマンだけでなく、この女もそうであったという。

 

「そのショックで、貴方はこれまでの記憶を失った。現世での六年間と、前世での記憶。その全てを、です」


 何故、どうして、どういう理由で――そんな言葉が出てこないほどに、僕はアナートマンの言葉に聞き入っていた。


 彼の言葉は今、確実に僕の記憶の扉をこじ開けようとしている。とてもじゃないが、それを邪魔する気にはなれなかった。



「この女は、アニッチャ。かつて、来徒教団の幹部だった人間です」



 アニッチャ。

 彼女の名を聞いた刹那、記憶の扉の向こうから光が差し込んでくるのを、確かに見た。


「カルマ様が亡くなったのも、あの日ライブ会場に警察を呼び寄せたのも、我々が開発した毒を持ち去ったのも、すべてはこの女、アニッチャの仕業なのです」


 光はやがて、点から線となる。


 アニッチャ、来徒教団、殺意。

 前世、アナートマン、離来徒リライト


 まばらであった情報たちが、記憶の光によって結ばれていく。結ばれてゆく線の数々が集まって、ぼんやりとした形を成す。今は輪郭しか見えないそれは、僕の前世の姿に違いない。


「このアニッチャと、新たに幹部となったドゥッカという男が共謀し、来徒教団へ謀反を起こしたのです。ドゥッカはカルマ様の命を奪い、アニッチャの手引きでライブ会場にはすぐさま警察が押し寄せた」


 ドゥッカ。

 その名前は、記憶の扉に亀裂を生じさせた。


 強固な記憶の扉は瓦解して、もう見る影もない。

 前世から現世、現世から来世を繋ぐ暗く淀んだ一本道を、記憶の光が照らす。そしてその光は、僕が歩むべき道を示してくれていた。


「この女、アニッチャこそ諸悪の根源。前世の母を誑かし、貴方の前世を恨み、貴方の現世を奪わんとした。まさしく愚かな前徒と言えるでしょう」


 アナートマンが指差す方には、苦悶の表情を浮かべながらこちらを睨むアニッチャがいた。うずくまったまま顔だけを上げてはいるが、言葉を口にするほどまでには回復していないようだ。


 愚かな前徒。アナートマンの言う通りだ。アニッチャは、人生という道の歩き方を忘れてしまっている。前世という鎖に縛られて、その場で足を止めてしまっている。


 前徒を導くのが来徒教団の使命であるならば、やはり彼女も導かねばなるまい。前世の憎しみから解放された、来徒へと。 



離来徒リライトの準備は、できております」



 気づけば、アナートマンの手には一丁の拳銃が握られていた。


 すぅ、と大きく息を吸い込んだ後、彼は銃口をアニッチャの額へと向ける。その直後に、拳銃の安全装置を解除する重苦しい音が、地下の静寂を切り裂いた。


「アニッチャ」

「くそ、くそ、くそ……! お前だけは、お前だけは……!」


 ゆっくりとアニッチャへの方へ向き直った途端、彼女は絶望に満ちた表情を浮かべた。これから我が身に起こること、自らの無念が晴らされなかったこと、そして私が前世の記憶を取り戻したこと――ありとあらゆることを察した表情だ。



「来世で、また会いましょう」



 だから私も、彼女の絶望に笑顔で答える。



「カルマ―――」



 私の魂に刻まれた名を、アニッチャは叫ぶ。

 その絶叫は、乾いた銃声と硝煙の中へと溶けていき、やがて聞こえなくなった。


「ああ……! ああっ……!」


 代わりに、アナートマンの嗚咽の声と、彼の手から零れ落ちた拳銃が床に叩きつけられる音があった。ちらりと彼の方を見ると、皺だらけの顔をぐちゃぐちゃにしながら、大きく歪んだ両目から大粒の涙を流している。


 私の記憶の中にあるアナートマンの姿は、粗暴でありながらも凛々しいものであったはずだ。けれども今の彼には、その片鱗すらない。丸まった背中と細い体は、まさしく老人のそれだ。傷と皺で埋め尽くされた顔面は、狂人のそれに近い。


 けれどもそれは、逆風に煽られながらも彼が歩みを止めなかった証明でもある。かつて私が抱いた理想に殉じ、前世主義の蔓延る社会と戦い続けてきた勲章なのだ。


 彼が歩み続けてきた結果、こうして私たちの道は再び交差することができた。ならば私も、彼と共に歩まねばなるまい。



「老けましたね。アナートマン」

「お帰り、なさいませ……カルマ様……」



 2020年、秋。


 十年間にも及ぶ足踏みを止めて、私は前を向く。

 そして、無限に伸びる一本道を、再び歩き出した。

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