9話
9-1. 仰木信彦
俺の頭の中と視界は、無限に広がる白で埋め尽くされた。
「――――うああああああああ!」
「仰木さん! いけません!」
自分で自分が何をしているか、何を口にしているのか、何を考えているのか、わからない。カルマが何かを叫びながら俺の体を抑え込もうとしているような気もするが、それが夢か現かさえもわからない。
そんな中でも、唯一わかることがあった。
『私はお前を許さない! 来世まで、お前を呪ってやる!』
俺の中で蠢いている前世の呪いは、今にも俺を食い尽くそうとしている。そしてまた現世でも、俺は呪われようとしている。
呪われる。また俺は、呪われる。
どうしたらいい。俺はどうすればいい。
「――――」
やがて視界が晴れ、意識が戻ってきた。
先ほどまで暴れていた女だが、今は俺の腕の中で力なくだらりと項垂れている。力なく、というよりも、彼女からは生気を感じない。まるで人形か何かのように、女の体はぴくりとも動かない。
そして俺の手には、ロープが握られていた。この女を縛るため、カルマから受け取ったものだ。
「仰木さん……」
「お、俺は、何を」
そのロープは、力なく項垂れる女の首にかけられていた。他でもない、俺の手で。
何が起きたのかわからず、わなわなと震えながらそっとロープから手を放す。ロープはそのまま地面に落ち、細い女の首元が露わとなった。そこにはくっきりと、一本の太く青い痣が残っている。
「……仰木さんはここにいてください。あとは私が何とかします」
女の首元に残された凄惨な絞め痕と、俺を見つめるカルマの表情が、全てを物語っていた。
呪いに蝕まれ発狂した俺は、正気を失った。
そしてこの手で、女を絞め殺したのだ。
前徒でもなんでもない女を、
正気でなかった俺に、その記憶はない。
だが、この手には残っている。女の首を絞めた感触が。
「俺は、また……」
そしてそれは、懐かしい感触でもあった。
◆
「仰木さん」
あれから、どれくらいの時間が経過しただろう。
恐らく数時間ほどだと思われるが、とにかくその長い時間、俺は本部の玄関でへたり込んでいた。
黒磯茂、呪い、前世、来世、生、死――様々なことが俺の中で渦巻いて、動けないでいたのだ。
「カルマ……」
「終わりましたよ」
そんな俺を現実に戻してくれたのは、カルマの声だった。あんなことがあった後でも、彼は俺の肩にそっと手を置いて、優しく微笑みかけくる。
終わった、というのは、女の死体の処理がという意味に違いない。カルマはあの後、様々な団員に電話をかけて、女をどこかに運ばせていた。彼のことだ、上手いこと処理してみせたことだろう。
カルマは腰を降ろし、片膝をつきながら俺と目線を合わせてくれた。その小さな心遣いが、今はひどく心に染み入ってくる。
「女の身元がわかりました。女の名は、
カルマ曰く、団員たちに死体の処理をさせている一方で、自身は女の素性を調べていたらしい。といっても、女の所持品に免許証があり、素性自体はすぐに判明したそうなのだが。
そんなことよりも俺は、女の名前に心当たりがあって、そちらが気になってならなかった。
「……春日?」
「仰木さんが初めて
春日智弘。その名前は、記憶に新しい。
前世の功績を重視した会社運営を行っていた社長で、俺の初仕事の対象となった男だ。先ほどの女は、その男の妻であるらしい。
「……そうか」
「どうやってかはわかりませんが、彼女は夫の死に我々が関わっていると知ったのでしょう」
「それで復讐しにきた、と」
そうとわかれば、女がここへやってきた理由や、俺たちの命を狙ってきた理由にも説明がつく。俺たちに呪いの言葉を浴びせてきた理由も、簡単に理解できる。
ようするに、一緒だったのだ。
かつての黒磯茂に呪いをかけた、被害者の父親と。
それを理解した途端、恐怖が全身を支配した。息が詰まり、心臓は締め付けられ、脳内は黒く塗りつぶされる。
「ロープで首を絞めたのが不幸中の幸いです。自ら首を吊ったと見せかけるよう、彼女の死体を処理させました。調べたところ、彼女は夫の死で相当に参っていたようですから、まず自殺で片付けられるでしょう」
カルマの言葉は、あまり頭に入ってこない。何となく、彼が色々と尽力してくれたのは理解できる。しかし、それに対して礼を述べることも謝罪することも、今の俺にはできなかった。
「……仰木さん。今回の件は、正当防衛と言っていい。貴方が気に病む必要はありません」
それを察したか、カルマは俺を気遣うような言葉を口にする。死体も処理したし問題はない、春日公子は我々の名前も知らないだろう、だから自分を追い詰めないでください――そんな優しい言葉を。
しかし、一度再燃してしまった恐怖を消すことは、やはり不可能だった。黒磯茂に息子を殺された父親は、世界のどこかで俺を憎み、呪っている。貴様は前世から逃れられないのだと、呪いが俺に耳打ちする。
それを考えるだけで、俺は恐怖にすくんでしまう。
「また俺は、呪われる。来世まで、俺は呪われ続けるんだ」
「仰木さん……」
「カルマ……俺はどうすればいい……?」
俺にできることは、縋ることだけだった。
数時間前、春日公子の襲撃によって遮られた問いを、改めてカルマにぶつける。救ってほしい、導いてほしいと、駄々をこねる子供のように彼に縋りつき、泣き喚く。
「助けてくれ……カルマ……」
そうしないと、今にも俺は呪いに喰い殺されてしまいそうだった。
「仰木さん。聞いてください」
頭を抱え震える俺の肩に、カルマはそっと手を置いた。
前世から続く呪い、それを打ち消せるのは、現世の希望だけだ。俺にとっての希望は、もうこの男以外ありえない。
きっとカルマならば、俺を導いてくれるだろう。
これまでも、そうだったのだから。
「崎山弘、柴崎清子、田所幸代、輪島勝」
けれども、カルマが口にしたのは、予想だにしない言葉だった。
それは、黒磯茂が奪ってきた者の名前だ。数時間前に俺がそうしたように、彼も指を一本ずつ折りながら、無残にも散った者たちの名を列挙していく。
「な、何で今、それを……」
カルマの意図がわからず、俺はひどく狼狽えた。
俺が求めていたのは、救いだ。けれども今カルマがしているのは、俺の前世に土足で踏み入る行為に他ならない。黒磯茂という前世を断ち切るどころか、それを手繰り寄せてしまっている。
狼狽え困惑する俺を他所に、カルマはどこか遠い目をしながら話を続けていく。
「私もね、彼らの名前を諳んじることができるのですよ。仰木さん、貴方に出会うもっと前から」
そして俺は、更に狼狽えることとなった。
黒磯事件は、全国的に報道されていた凄惨な事件だ。殺された子供たちの名を調べるくらいは容易だろう。俺の前世が黒磯茂であると知り、事件について調べたというのならば、納得はできる。
しかしカルマ曰く、そうではないらしい。
全国を震撼させた事件とはいえ、被害者全員の名前を諳んじることができるというのは些か妙だ。よっぽどこの事件に関心があったか、事件の関係者でない限り、そうはならないないだろう。
事件の関係者というと、加害者の俺はもちろん、事件を追っていた警察やマスコミなんかも当てはまる。そして、あるいは――
「私の前世の名は、
黒磯事件の、被害者本人か、その家族か。
「う、嘘だ」
理解が追い付かない、というよりも、脳が理解を拒んでいる。
輪島勝の父親、忘れるはずもない。黒磯茂に呪いをかけた、張本人だ。息子を殺され、絶望と殺意を露わにしながら、来世まで俺を呪うと言い放った男である。
その男こそ自らの前世であると、カルマは言う。
カルマは、前世という鎖から俺を解放しようとしてくれている。そんな人間の前世が、俺を鎖で縛りつけている人間だなんて、どうして信じられようか。
「仰木さん。私が以前、自らの前世について語ったのを覚えていらっしゃいますか?」
カルマがそう言った瞬間に、かつて彼が語ったことが脳裏によぎる。数ヶ月ほど前、俺がまだ正式に来徒教団の一員ではなかった時のことだ。
『私の前世は、憎しみに支配されていました』
『どうしても許せない人間がいたのです』
カルマもかつては、前世の記憶に苦しんでいたと言っていた。だがその虚しさや無意味さを悟り、来徒教団を設立したのだと。それを聞いて、初めてカルマに人間臭さを感じ、どこか親近感を得たのは記憶に新しい。
「許せない人間って、まさか……」
その憎しみを生み出したのは、俺だった。
許せない人間とは、俺だった。
真実を知り、当時の浅慮さと滑稽さを思い知らされる。カルマは、かつて憎んでいた男を目の前にしながら自らの理想を語り、笑顔でいたのだから。
「それは違いますよ、仰木さん」
しかしカルマは、そんな俺の心の声を読んで、否定する。
「憎んでいたのは、黒磯茂です。黒磯茂を許せなかったのは、輪島三郎とかつての私です。仰木さんでも、今の私でもない」
彼の言葉ひとつひとつが、俺の体に染み込んでいく。その度に、体が軽くなっていき、背中に纏わりついていた影が段々と薄くなっていくのを感じていた。
「だから、もうよいのです。黒磯茂を憎む者は、貴方の現世を呪う者は、もういない。呪いなんて、もう既にありません。消え失せた幻影に、どうか苦しまないでください」
その瞬間、何とも言えぬ浮遊感が全身を巡る。
それはまさしく、俺を縛る前世の鎖が解け、呪いが霧散した瞬間であった。
「ああ……ああああっ……!」
俺は大粒の涙を零しながら、カルマの肩に縋った。彼も俺の肩を抱き、何度も頷いている。何か言葉を発してカルマに思いを伝えたいのだが、嗚咽がひどくそれも叶わない。
しかし俺は、カルマに何を伝えればよいのだろう。
すまなかったと謝罪するのも、違う。
ありがとうと感謝するのも、また違う。
それらはどちらも、カルマに対する侮辱であるように思われた。謝罪も感謝も、黒磯茂という前世あってのものだ。それは、前世に囚われないという彼の理想と逆行することになる。
今、俺が述べるべきは、言葉ではなく感情だ。
俺を前世という鎖から解き放ってくれた男に対する感情を、人類を前世の呪縛から解放するという理想を掲げる男に対する感情を、そのまま口にすればよい。
「カルマ……様……」
その感情とは、敬意であり、崇拝だ。
「俺――私は、貴方に一生着いていきます。貴方の理想を、私の理想としたい。どうか私にも、貴方と同じ世界を見させてほしい」
心に湧く感情を、そのまま口にしていく。来徒教団のカルマという人間を尊敬し崇拝する感情を、ひたすらに吐露し続ける。
彼と同じ世界を見たい。
彼と同じ理想を信じ、彼が理想とする世界を実現したい。
今の自分にあるのは、それだけだった。
「私と同じ世界、ですか。仰木さんは――」
「仰木信彦という男は、今日死んだと思ってください。今の私は、ただ貴方の理想を追う者です」
服の袖で涙を拭いながら立ち上がり、決意を言葉にした。
前世と、黒磯茂と、仰木信彦と決別するという決意を。
私が立ち上がるのと同時、カルマ様も立ち上がる。その表情には、いつもの笑顔が戻っていた。やはりというか、彼には笑顔がよく似あう。
「では、私の『カルマ』と同様に、教団内でのみ名乗る名前をつけてはいかがでしょう?」
カルマ様は、ぽんとひとつ手を叩き、そんな提案をしてみせた。
当たり前のことではあるが、『カルマ』というのは本名でないだろう。彼の話を聞く限り、それは教団内でのみで名乗る、言わば洗礼名のようなものであるらしかった。
そんな名前を名乗ること、それ自体にはあまり魅力を感じない。だがしかし、『カルマと同じ』という言葉が、私の心を大いに震わせた。
「その名前、ぜひカルマ様につけていただきたい」
「私がですか?」
「自分が来世に、そのまた来世に行っても、決して揺るがない名前を魂に刻んでいただきたい。他でもない、カルマ様に」
前世と現世、そして来世は、別物である。しかしこの心だけは、カルマ様を信ずる心だけは、幾度の人生を経ようと揺らいでほしくない。
「魂に刻まれた不動の名、ですか。それはいい」
カルマ様は、一瞬だけ目を丸くする。その発想はなかったな、と言いたげな表情であった。カルマという名前に、そこまで意味を考えていなかったのかもしれない。
「輪廻を経ても変わらぬ魂の名……
「もう少し遊び心のある名称の方が私は好きですが、発案者は貴方です。そうしましょう」
しかしそれも束の間、いつもの笑顔に戻り、私の手を握った。
ああ、この手だ。この温もりだ。
いつだってこの手が、私を導いてきてくれた。
「私の……いや、我々の理想を実現するために、これからもよろしくお願いいたします――」
私は縋るように、祈るように、その手を握り返す。
「――アナートマン」
1984年、春。
永遠に変わることのない魂の名を授かると共に、私はカルマ様に永遠の忠誠を誓った。
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