8-3. 天城至
夜の帳は、深く重い。
それはまるで、半狂乱のままに施設を飛び出した僕を、闇の中へ誘おうとしているかのようだ。
先日よりも一際凍てついた風が吹きすさぶ。その寒波に耐え切れんと言わんばかりに、古びた街灯がばちばちと点滅を繰り返した。
僕の前世は来徒教団と何らかの関わりがあるのではないか、という疑念は、確信へと変わった。しかしそれと同時、更なる疑念が生まれることとなった。
『――あの女か! 音無とかいう、あの女! あの女が余計なことを吹き込んだんでしょう!?』
僕の前世について、来徒教団との関わりについて話している時に、何故音無の名が挙がるのか。職員の言う『余計なこと』とは、何だというのか。
その答えを、僕は知らない。
知っているとすれば、奴しかいないだろう。
「おや、天城さん。奇遇ですね」
淡く光る電灯の下、いつもように不気味で歪な笑みを浮かべているこの男――アナートマンしか。
「……やっぱり、いると、思ったよ」
彼がこうして施設の外で待ち構えているのではないかと、僕は薄々感じていた。これは予感と言うよりも、確信に近い。この男はいつだって、僕の心の隙を突くように待ち構えていた。
今回だってそうに違いない。僕は混濁する思考の片隅でそんなことを思いながら、施設を飛び出した。
「アナートマン……」
「はい」
僕の前世、音無、来徒教団。
これらはきっと、一本の道で繋がっている。
しかしその一本道は恐ろしいほどに暗く、前も後ろもわからない。そしてきっとこの道は、茨で埋め尽くされているのだろう。進むも茨、戻るも茨、歩むことはすなわち我が身を傷つけることだ。
「教えてよ、アナートマン。前世の僕は、現世の僕は、何者なんだ」
それでも僕は、進みたい。
これまで歩んできた道程をしっかりと目に焼き付けて、足元を茨で傷つけながらも、前へ。
前世を断ち切って、現世に生きる。
その気持ちは、今でも変わらない。
しかし、ここで前世と向き合わなければ、僕は一生後悔するだろう。その気持ちを抱かせてくれた人物が、僕の前世と何らかの関わりがあるかもしれないのだから、尚更だ。
「……その言葉を待っておりました」
僕の決死の言葉に、アナートマンは深く頷く。
やっぱりお前は僕の前世を知っているのか、やっぱり僕の前世は来徒教団に関係しているんだな――などと無粋なことは口にしない。僕が確信に至ったことにアナートマンは気づいていて、そのことに僕も気づいている。それだけで十分だ。
「貴方を導いて差し上げましょう、カルマ様へと」
溺れる者は藁をも掴む、とはよく言ったものだ。
前世と現世の狭間で溺れている僕は、来徒教団という藁に縋ろうとしている。
「ご案内しましょう、カルマ様の理想が叶う場所――来徒教団の本部へと」
あとは、前世の波に呑まれて溺死しないことを、祈るとしよう。
◆
来徒教団の本部というくらいだから、人目を避けた郊外にあるのだろうと、数時間前の僕は考えていた。どうやらその予想は半分当たっていて、半分間違っていたらしい。
アナートマンが運転する車の窓から見える景色を見る限り、人目がないのは間違いない。それどころか、神の目すら届きそうにない場所に思えてくる。車のライトを遮るものは何もなく、遥か先の闇の中にまで光が伸びていた。
この古びた車にカーナビは搭載されておらず、現在地を知ることは叶わない。三十分ほど前に、二つ隣の県の名前が書かれた看板を目にしたことは覚えているが、それまでだ。
車窓からうっすらと木々が見えることや、車内が大きく揺れる程度には地面が舗装されていないこと、上向きの急勾配であることから察するに、どこかの山中であることは間違いなさそうだ。
「もう少しです」
数時間ぶりに、アナートマンは口を開いた。僕は返事をすることも、頷くこともしない。ただ、覚悟を決めていた。
この男に聞きたいことは、山ほどある。僕の前世のこと、来徒教団のこと、音無のこと。列挙すればきりがない。
しかし、車中の僕たちに一切の会話はなかった。問いただすタイミングはいくらでもあったのだが、言葉を紡ぐことすら憚られるような緊張感で車内は満ちていて、どうにも切り出すことができなかったのだ。
あるいは、全てをアナートマンに委ねようという気持ちが、どこかにあったのかもしれない。
「着きました。足元に気をつけてください」
アナートマンの言葉と同時にエンジンが切られ、車内は闇に包まれる。アナートマンに従って恐る恐る車を降りると、固く冷たい土の感触が靴の裏から伝わってきた。
月の光すら木々に遮られた闇の中では、右も左もよくわからない。それでも、目の前に何やら建物らしきものがあるのはわかった。
「ここが、来徒教団の本部です。元はとある団員の別荘でして」
「随分と山奥にあるんだね」
「木を隠すなら森の中、とは言いますがね。世の中は、人を隠すにはいささか不向きでしたよ」
アナートマンはそう言いながら、コートのポケットをまさぐって鍵を取り出した。ガチャリ、という鈍い音が木霊した後、扉が開く。やはりというか屋内も実に暗く、僅かな月光が差し込む屋外よりも色濃い闇が広がっている。
「今ここには誰もいません。普段、我々は一つのところに集まらないようにしていますから」
教団の本部だというのにそれはどうかなのか、と小言を挟んでやろうとした瞬間、眩い光に目が眩む。どうやらアナートマンが玄関の電気をつけたらしい。
何度か強めに瞬きをして、目を細めながら屋内を見渡す。床、壁、天井、すべてが木目を強調した造りとなっていて、いかにも『避暑地の別荘』といったような印象を受ける。
「天城さん。本部はいかがですか?」
「いかがって……ただの別荘にしか見えないよ」
「ふふふ、そうでしょうそうでしょう。では、『ただの別荘』にはないものを、これからお見せします」
何が彼の琴線に触れたのかはわからないが、アナートマンは愉快そうな笑みを浮かべる。ただの別荘にはないもの、という言葉に背筋に冷たい汗が滴るのを感じつつ、廊下を突き進むアナートマンに従った。
廊下を進むと、他の部屋のものよりもこぢんまりとした扉へと突き当たった。アナートマンがそれを開くのを、息を呑みながら見守る。
扉の向こうにあったのは、やはりというか小部屋だった。小さなソファと机、大きな本棚があるのみだ。危ない物の一つや二つあるのではと思っていたが、あまりの何もなさに拍子抜けしてしまう。
「なんだよ、ただの書斎じゃないか。こんなの、特段珍しくもない」
「ふふふ。本棚の奥には秘密の部屋がある……というのがお決まりですよ、天城さん」
溜息をつきながら肩をすくめる僕に、アナートマンは再び愉快そうな笑みを浮かべた。
悪の秘密結社の本拠地、そこにある本棚には隠し扉が――だなんてお約束もいいところだ。しかしそのお約束というのは、フィクションの話である。現実は小説よりも奇なり、という言葉は、それこそ小説の中だけだ。
僕がそんな風に思っている最中にも、アナートマンは本棚の中から数冊の本を取り出していく。すると、露わになった本棚の背板に、小さな鍵穴のようなものが確認できた。
「実はこの本棚、スライド式の扉となっているのです」
アナートマンは懐から取り出した鍵を鍵穴に差し込んで、ゆっくりと回した。玄関を解錠した時よりも重く鈍い音が、小部屋中に轟く。そしてアナートマンは本棚にへばりつき、呻き声をあげた。どうやら、本棚を動かしたいらしい。
相当な力を込めているのだろうか、肩と背中は小刻みに震えている。するとそれに答えるよう、本棚はガタガタと大きく揺れ、僅かずつではあるが横方向へとずれていく。
人間ひとり分くらい本棚がずれたところで、アナートマンは力を抜き、ぜいぜいと肩で息をし始めた。彼が呼吸を整えている隙に、本棚の奥に現れたものを確認する。
「ち、地下室……?」
「そう、です。秘密の地下室、これも、お約束、でしょう」
そこには、地下へと続く階段があった。明かりはなく、その先には闇しかない。地獄に繋がっていると言われても、思わず信じてしまいそうな不気味さだ。
悪の秘密結社、隠し扉となっている本棚、秘密の地下室――アナートマンが言うように、お約束のオンパレードではないか。
「天城さん。これからご覧いただくのは、少しばかりショッキングな光景かもしれません。ですが、どうか取り乱したりしないようお願いいたします」
ようやく息を整えたアナートマンは、部屋の隅に置かれていた懐中電灯を手にしながら、僕に対峙する。彼には珍しく、その表情は穏やかでない。
秘密の地下室ときたら、次は秘密の研究施設だろうか。あるいは実験動物か、あるいは死体の山か。それらを想像して、恐怖しない訳はない。
それでもその先に僕の前世が待っているのならば、進むしかない。
「足元に気をつけてください」
僕が黙って頷いたのを確認して、アナートマンもゆっくりと頷く。懐中電灯に明かりを灯して、しっかりと壁に手を付けながら階段を下っていった。僕は深呼吸をひとつして、彼の背中を追う。
階段の幅は狭く、僕たちの肩幅よりも少し広い程度であった。階段を一歩降りる度に足音が反響して、それがより恐怖心を煽ってくる。
「着きました。ここが地下室です。明かりをつけますよ」
階段はそこまで長いものではなく、一分もすると開けた場所へと出た。アナートマンの言葉と同時、懐中電灯の明かりが消える。しかし一呼吸もしない内に、天井に取り付けられていた蛍光灯が眩く光り、地下室の全貌が露わとなった。
「な、何だよ、これ……」
「来徒教団が所有する銃火器の数々です」
地下室の壁には、武器の数々が掛けられていた。
銃、ライフル、マシンガン――知識のない僕には正式名称はわからないが、とにかくそんなものの類が所狭しと並んでいる。
部屋の中には大きな机がいくつもあって、その上にはこれまたよくわからない器具が鎮座している。
「薬物などの開発も行っていますからね。ですが、これらは本題ではありません」
呆気にとられる僕の肩をぽんと叩き、アナートマンは地下室の奥を指差す。現実のものとは思えない銃器の数々に圧倒されて気づかなかったが、部屋の奥に鉄格子のようなものが確認できた。
牢屋。僕の脳裏に浮かんだのは、そんな言葉だ。
「…………」
アナートマンに促されるまま鉄格子の方へ向かうと、その中には一人の女がいた。痩せこけ、目は虚ろで、だらしなく開けた口からは涎が垂れている。生気のない顔には数々の皺が刻まれており、頭の毛も薄い。
手と足には枷がつけられていることから察するに、来徒教団に捕らわれた者であるのだろう。
「……この人は?」
「哀れな前徒です」
捕らわれの女は、鉄格子の前に立った僕らに何の反応も示さない。既に正気を失っているのだろうか。それは死体であると言われても、なんら疑問を抱かない。生ける屍とは、こういう状態を指すのだろう。
「十年前、天城さんの記憶を奪ったのは事故ではない――以前私がそう言ったのを覚えていますか?」
そしてここで、アナートマンは本題を切り出した。
地下室、銃火器の数々、謎の女と、色々なことがありすぎて忘れかけていたが、僕は自らの前世を知るためにここへ来たのだ。
何故このタイミングで、何故この女の前で、などと色々聞きたい気持ちはある。しかし今は話を逸らすべきではないと、その気持ちをぐっと押し殺した。
「あれは事故ではなく――」
「アナートマン……お前、今何と言った……?」
しかしここにきて、鉄格子の中の女が口を開いた。
女性のものとは、それ以前に人間のものとは思えない、ひどいしゃがれ声だ。地獄の底から聞こえてきたようなそれに驚いてしまい、僕は女の方へと向き直った。
「天城、天城と言ったのか……?」
女の瞳には、生気が宿っていた。
虚ろであった目は大きく見開かれ、ただ僕だけを見つめている。
そして何故か、先ほどまで涎を垂らしていた口元は、しきりに僕の名を呟いていた。
「貴様あああああああ!」
困惑する僕をよそに、女は怒りの炎を瞳に灯したまま立ち上がり、鉄格子を掴んだ。彼女の手枷と鉄格子が激しくぶつかり、耳障りな金属音が地下に響く。
「殺す! 殺す! 殺す! 貴様は! 貴様だけは!」
女は何度も鉄格子を揺らし、殺意に満ちた言葉と視線を僕にぶつけてくる。その気迫は凄まじく、混じりけのない純粋な殺意だけが彼女を突き動かしているように感じられた。
どうして、この女は僕を知っているのか。
どうして、この女は僕を殺そうとしているのか。
どうして、この女は地下に捕らわれているのか。
それはきっと、僕の前世に関わることなのだろう。
彼女にこれほどまでに殺意を抱かせる何かが、僕の失われた記憶の中に埋もれている。
「天城さん」
ひどく困惑し恐怖する僕の肩を、アナートマンが掴んだ。その手にはきっと、僕の記憶を呼び覚ます鍵が握られているに違いない。
「十年前、貴方の記憶を奪ったのは事故ではなく、この女です」
十年もの間、固く閉ざされてきた記憶の扉が、ゆっくりと開かれようとしていた。
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