7-2. 轟潤一

 高村啓一の離来徒リライトは何事もなく終了し、新型の語死カタルシスの効果も確認された。特に後者は、来徒教団の理想実現への大きな飛躍となるに違いない。


語死カタルシスがとうとう完成しましたか。カルマ様、来夢来徒ライムライトの時がいよいよ間近に」

「ええ、ええ。我々の理想の世界が、ようやく来るのです」


 一足先に地上へと戻ってきたオレの報告を聞いて、カルマとアナートマンは実にわかりやすく歓喜した。彼らの喜びはもっともだろう。あらゆる人間を離来徒リライトするという途方もない夢が、一気に現実味を帯びたのだ。


「カルマ様、アナートマン。高村啓一の処理、完了しました」


 すると、背後から低く冷たい女の声があった。高村の死体を処理すると言って地下室に残ったアニッチャが帰ってきたのだ。


「お疲れ様です、アニッチャ。お二人とも、本当にありがとうございました。特に轟さん、貴方の協力がなければ、今回の離来徒リライトはここまでスムーズに行えなかったでしょう」


 ただアニッチャを見つめることしかできないでいたその時、カルマは満面の笑みを浮かべながらオレの手を握った。肌寒い空気の中でも、彼の手はほのかに温かい。


「いや、オレは別に……」

「我々の計画は、いよいよ最終段階へと入ります。次は、この語死カタルシスがどこまで広範囲に影響を及ぼすかを確認しなければなりません」


 カルマの手が、更なる熱を帯びる。


 語死カタルシスの検証は、どうやらまだ続くらしい。よく考えてみれば当然のことで、今回確認できたのは『霧状の毒薬はちゃんと人を殺せる』というだけのことなのだ。検証は四畳ほどの密閉された小部屋で行われたに過ぎず、これが例えば巨大ホールのような場所であったら結果は変わっていたかもしれない。


「人々が多く集まる会場のような場所で、語死カタルシスの検証を行う必要があります。その場にいる全ての人間を離来徒リライトすることができたならば、十分でしょう。あとは来夢来徒ライムライトを実行するのみです」


 仮に街の中心部で語死カタルシスを散布したとして、それが霧散してしまっては意味がない。人々を悉く離来徒リライトするためには、高い殺傷力を広範囲で維持することが求められるだろう。


 カルマの言うことは、理解できる。

 だが何故か、オレの心を埋め尽くすもやは、一向に晴れる気配がない。


「ひ、人が多く集まる、会場のような場所って……」


 その理由には、察しがつく。

 人で埋め尽くされている広い空間。そんな光景を、オレは、幾度となく見てきたからだ。心当たりがある、だなんてレベルのものではない。



「そうですね。例えば、ライブ会場のような」



 オレの嫌な予感、拭えぬ疑念は、あっさりとカルマによって肯定される。


「轟さん。来夢来徒ライムライトを成し遂げるには、貴方の力が必要です。無関係の我々がライブ会場に潜り込んで、語死カタルシスを撒く……これは至難と言えるでしょう。協力者がいなければ、検証はまず不可能です」


 来夢来徒ライムライトの前段階として、語死カタルシスの検証が必要だ。その検証を行うには、人を一箇所に集められるような人物の協力が不可欠である。


 ライブ会場を観客で埋め尽くすことができるオレは、まさにうってつけではないか。アナートマンのような中年が何故オレのライブに来ていたか、ようやく合点がいく。思い返せば、アニッチャもオレのライブに足を運んでいたと言っていた。


 つまるところ、オレはずっと目をつけられていたのだ。


 語死カタルシスの検証を実行するのに必要な仲間として、来徒教団に引き入れるために。


「初めての離来徒リライトでお疲れでしょう。今日のところはお帰りになって、一晩じっくりと考えていただけたら幸いです。良い返事を期待しています」


 カルマの理想には、共感できる。

 離来徒リライト来夢来徒ライムライトにも、協力していきたいと思っている。


 だが、一抹の不安のようなものが心の中でしこりとなり、違和感を覚えてしまうのも事実だった。 



 ◆



 アニッチャの運転する車中、窓の外で流れていく光をただ見つめていた。家まで送ると言った彼女に促されるまま車に乗り込んだきり、ずっとそうしている。様々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、何かを考えることができないでいた。


「着いたぞ」


 アニッチャの声にはっと気づけば、ハザードランプが焚かれる音で車内は満ち、車窓から見える光は動くことを止めていた。見慣れたマンションの姿だけが、窓の外に確認できる。どうやらオレは数十分もの間呆けてしまっていたらしい。


 車から降りる素振りすら見せないオレを、アニッチャはただ見つめている。それはまるで、オレからの言葉を待っているようにも感じられた。


「なあ、アニッチャ。オレが来徒教団に目をつけられたのって……」


 その視線に促されるように、オレは恐る恐る口を開く。


 自らの中で渦巻く疑念は、もはや確信に近い。それが肯定されることに何か意味があるとは思えなかったが、どうしても聞かずにはいられなかった。


「隠しても仕方がない。その通りだ、轟潤一。私たちは、求心力のある前徒を探していた。人々を集めることができるような前徒をだ。来夢来徒ライムライトの前哨戦とも言える、語死カタルシスの最終検証を行うために」


 アニッチャは顔色ひとつ変えず、さらりとそう言ってのけた。オレが既に確信めいたものを抱いていることに、彼女も気づいているのだろう。


「来徒教団に対して、不信感が生まれたか?」

「いや、それはないんだが……」


 この言葉は嘘ではない。アナートマンが執拗にオレを訪れてきた理由、それが判明してむしろすっきりしたと言える。オレの中にある靄のようなものが晴れないのは、もっと別の理由だろう。


「まだ煮え切らないか?」


 オレの心を見透かすように、アニッチャは言う。

 確かに彼女が言うように、『煮え切らない』というのがオレの心情を表すのにはぴったりかもしれない。


「……オレはまだ、来徒教団の思想に染まりきっていない。カルマの理想は理解できる。前世主義の連中を離来徒リライトしていくことも、その理想に近づくための手段だとも思う」


 まとまらない思考をなんとか整理して、ぽつりぽつりと言葉を零していく。アニッチャは、黙ってそれを聞いていた。


「でもわからないんだ。一度世界をまっさらに戻さなくちゃならないとはいえ、罪もない一般人たちを殺してもいいのかって。オレたちのやろうとしていることは、本当に正しいのかって」


 次の離来徒リライトは、今回のものとはまるで違う。


 それは人数の話だけでなく、前世主義に傾倒する人間でない者を来世へ導くという点が、圧倒的に今回と異なっている。しかもその対象は、オレたちの曲を聞きたいがために集まってくれたファンなのだ。


 その者たちを殺し尽くす作戦に加担することが、オレはたまらなく怖い。前世の記憶に縛られない世界を作るためだ、と割り切ることができないでいる。アニッチャの言う『煮え切らない』という言葉は、まさにその通りだろう。


「なあ、轟潤一」


 まるで懺悔するかのように言葉を紡ぎ、頭を抱えて震えていると、アニッチャがオレの名を呼ぶ。そして彼女は、ゆっくりとシートベルトを外し、助手席に座るオレにもたれかかってきた。


 何が起きたか理解できないオレをよそに、アニッチャは助手席の方へと体を滑り込ませてくる。オレの体を飛び越して手を伸ばしたかと思った途端、助手席のシートが勢いよく倒れた。どうやら、彼女がレバーを操作したらしい。


 アニッチャはそのままオレに覆いかぶさり、小さな唇をオレの耳元をへと近づけていった。



「私を、抱いてくれないか」



 普段のアニッチャからは考えられない、甘く色気のある艶っぽい声色が、オレの鼓膜を小さく震わせる。すると彼女は、何が起きたかわからないでいるオレの頬にそっと手を添えて、そっとオレの唇を奪った。


「なにを――」

「轟潤一。私を抱いて、すべてを断ち切るんだ。貴方を苦しめる前世の鎖、疑念や不信や違和感、それらすべてを」


 文字通り目と鼻の先に、アニッチャの顔がある。小さな顔にある、小さな唇と小さな鼻、そして大きな瞳が。彼女の体重はすべてオレに預けられていて、少々息苦しい。彼女の柔らかな感触と温かな体温が、布切れ数枚を介して伝わってくる。


 オレにはもう、何が何だかわからない。

 彼女が今こうする理由も、彼女が言っていることも、何もかもが。


「轟潤一。貴方は確かに、来徒教団から目をつけられていた。でも不思議に思わないか? 私たちは、どうやって貴方が前世の呪縛に囚われていると知ったのか、と。貴方は、自身の前世を誰にも言っていないのだろう?」


 理解に苦しむオレを導くように、アニッチャは話し始めた。


 混乱が混乱を呼ぶ状況では、『何故それを今話すのだ』という感情しか湧いてこない。けれども数秒経って多少の冷静さを取り戻すと、アニッチャの言うことが段々と理解できるようになった。


 言われてみれば、確かにそうだ。


 オレは自らの前世――かつら小百合さゆりのことを誰にも話したことはない。けれどもアナートマンは、オレが前世の記憶について苦しんでいることを見抜いていた。前世なんてクソだ、という歌詞を書いてはいたが、彼はオレを前徒だと決め打って話かけてきたはずだ。


『貴方の魂は、間違いなく前徒のそれだ』


 アナートマンはそんなことを言っていたが、前々からオレに目をつけていたとわかった今、その言葉はどうも胡散臭く感じる。来徒教団は、オレが前世の記憶に囚われているのを知っていたからこそ、声をかけてきたに違いない。


 では来徒教団は、何故、どこで、誰から、オレが前世の記憶に苦しんでいることを知ったのだろうか。



「私だ。私が貴方を探し、貴方を調べ、貴方の前世を知ったからだ」



 その答えは、あっさりと明かされた。

 オレの前世を知ったという、張本人の口から。


「アニッチャが……どうしてオレを……」


 オレの前世を調べ上げ、それを来徒教団へと伝えた犯人は、目の前にいるアニッチャであった。しかし、いよいよわからない。アニッチャ曰く、彼女はオレを探し、オレを調べていたらしい。だが、その理由に皆目見当がつかない。


「貴方と同じだよ」


 困惑するオレの頬に手を添えながら、アニッチャは呟いた。そして再び、口元をオレの耳へと近づけていく。


 オレと同じとは、どういうことだ。

 オレと同じだから、なんだというのか。


 その疑問に対する答えを、彼女は耳元でそっと囁いた。 



「貴方が前世の娘を調べていたのと同じように、私も前世の母の現世について調べていた。それだけだ」



 数秒の間、オレは固まってしまった。


 アニッチャの言葉に驚愕したのではなく、彼女が何を言っているのか理解できなかったからだ。だがその言葉の意味を理解した途端、世界はぐにゃりと捻じ曲がり、視界はひどくぼやけてしまう。



公子きみこ……公子なのか……?」



 アニッチャは、前世の母の現世について調べていた。

 そして彼女が実際に調べあげたのは、轟潤一という人間についてである。


 前世時代の母、その現世が何者であるかをアニッチャが調べた結果、轟潤一という人物へと辿り着いた。それが意味するところは、混乱するオレの頭でも察することができる。


「私は公子じゃない。かつて公子であったものだ」

 

 アニッチャの前世は、オレの前世である桂小百合の娘――公子だということだ。


「前世で夫を離来徒リライトされた私は、現世でも来徒教団について調べていた。だが、私が死ぬ一年前に病死した母についても気がかりだったんだ。私のせいで精神的に追い詰めてしまったんじゃないかと。あらゆる手を尽くしてかつての母――桂小百合の現世を特定した時、私は驚いたよ。轟潤一という、男であったのだから」


 オレが公子の現世を気にかけていたように、アニッチャも桂小百合の現世を気にかけていたのだ。現世を縛る鎖でしかない前世、その当時の娘のことであるはずなのに、どうしても嬉しく感じてしまう自分がいた。


「轟潤一、私を抱け」


 そしてアニッチャは、思い出したかのように再びそう言った。

 かつての娘の幻影を纏う、この女が。


 かつての母が、かつての娘を抱くだなんて、どうしてそんなことができようか。


「桂小百合としてではなく轟潤一として、娘の公子ではなくアニッチャという女を。一人の男として、一人の女である私を抱くんだ。そして決別しろ、貴方の前世と」


 だが、来徒教団の理想とは、まさにこのことだ。前世の記憶に囚われず、現世は現世として生きることこそ、来徒教団の理想である。桂小百合と公子という関係を切れないでいては、オレは前世に囚われたままだ。


 そのために、アニッチャは自らを抱けとオレに言っているのだ。

 前世の鎖を断ち、現世に生きろと、そう言っている。


 あらゆることに踏ん切りをつけるためにも、オレは前世を乗り越えなくてはならない。前世を乗り越えて、オレはオレの意思で、轟潤一という現世の意思を持たなくては。



「私のすべてをさらけ出そう。私のすべてを託そう。私が大切に守ってきたもの、そのすべてを貴方に捧げる」



 アニッチャの言葉にオレは小さく頷いて、彼女を自室へと招き入れた。


 そしてオレは、確かに受け取った。

 アニッチャという女がこれまで守ってきたもの、そのすべてを。

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