7-3. 天城至

 失われてしまった記憶を取り戻そうとすること、前世に固執すること。その空虚さを僕は痛感した。前世での不幸を知ることよりも、現世での幸福を追求することが必要なのだ。


 音無に気持ちを伝えられ、音無に気持ちを伝え、僕は心の底からそう思った。


 朽ちてしまった花びらを集めても、それが一輪の花としての輝きを取り戻すことはない。ならば、来春に芽吹くであろう新芽のことを思おう。これから訪れるであろう幸せと、音無のことだけを考えよう。


「よっ、おはよう天城」


 音無とのデートから一夜明けた月曜日、いつもの通学路で、いつものように彼女に声をかけられて、いつものように背中を叩かれる。それは、高校入学当初から変わらない、いつもの通学風景に違いなかった。


 けれども、いつもと違うことが、ひとつだけあった。


「おはよう音無……って」

「へへっ。いいでしょ?」


 足早に僕の傍らへやってきた音無が、僕の手を握ったのだ。予想だにしていなかったことに、僕はわかりやすく動揺してしまう。そんな僕の様子が面白くて仕方がないといった感じで、音無は嫌らしい笑みを浮かべてきた。


 通学風景は、いつもと変わりない。

 変わったのは、僕たちの関係だ。


「つ、通学路だよ? 他の生徒もたくさんいるのに」

「誰もあたしたちのことなんか見ちゃいないって。仮に見てたとして、何か問題がある?」


 彼女の言葉を肯定するかのように、通学中の学生たちは僕たちに見向きもしない。路傍の石に意識を向ける人間がいないのと同じように、僕らを気に留める人間はここにはいないのだ。


 だから音無の言う通り、問題なんてありはしない。

 

「……」

「天城ィ?」

「え、ああ。うん。そうだね……」


 問題があるとすれば、僕だ。僕の心の内だ。


 僕は先日、前世について悩むよりも現世の幸せを噛みしめるのだと、心に決めたはずだ。しかしその決意は存外に脆く、ある男のある言葉であっさりと揺らぐこととなってしまった。



『十年前、天城さんが記憶を失うことになった理由は、事故などではありませんよ』



 来徒教団の男、アナートマン。彼が放った、一言で。


 前世の記憶というのは鎖のようなものであると、改めて実感した。断ち切ろうともがけばもがくほど肉に食い込んで、体の動きを鈍らせていく。前世の記憶は、十年もの間求めてやまなかったものだ。その鎖は、簡単に断ち切れるほど柔ではない。


 十年も得体の知れなかった僕の前世が、すぐそこにある。固く閉ざされた記憶の鍵を握っているのがあの来徒教団だとしても、手を伸ばしたくなってしまう。


 音無に、告白すべきだろうか。

 やっぱり前世の記憶を取り戻したい、そのためにヤバい連中と関わっている、と。


「……なんだよ。せっかく手ェ握ってあげたってのに、浮かない顔してさ」


 言えるはずもない。

 彼女には、彼女にだけは。どうして言うことができようか。


 天城至という人間が好きだ、その気持ちは現世の私だけのものだ――という音無の言葉と共に、僕は彼女を受け入れたのだ。それなのに、今更になって『やっぱり前世の記憶を取り戻したい』と告げるのは、音無への裏切りに他ならない。


「そうだね。ありがとう、嬉しいよ」


 それに、僕はどうあっても音無が好きなのだ。その気持ちに嘘偽りは一切ない。だからこそ、巻き込みたくない。来徒教団などという危険な奴らに、関わってほしくない。好きな女の子を危険な目にあわせたくないと思うのは、当然のことだろう。


 だがそれも、『来徒教団と関わっているなんて知られたら幻滅されるに違いない』という、自己中心的な考えなのかもしれない。


「口では何とでも言えるもんなあ、天城ィ。行動で示してくんなきゃ、行動で」


 昨日と変わらず、音無の手は柔らかく、そして温かかい。

 それが、後ろめたさを増幅させた。


「行こう、遅れるよ」


 それでも僕は、音無の手を強く握り返す。

 彼女のことが好きだと自分に言い聞かせるように、後ろめたさを悟られまいとするように。


「へへっ」


 彼女は表情筋を緩ませて、だらしなく笑う。

 愛おしいはずのその顔を、僕は直視することができなかった。



  ◆



 十年前、僕の記憶を奪ったのは、事故ではない。

 その言葉の意味が、僕は未だわからないでいた。


 市内のみならずここら一帯の病院すべてに、僕が入院なり通院なりをした記録はない。それどころか、事故について知っている人間すらいない。なんとも奇妙で不可解な話だが、アナートマンの言うことが正しいと仮定すれば、合点のいかないそれらに説明がいく。なんせ、事故なんて起きていないのだから。


 では、事故でないなら、何なのだ。

 僕の記憶は、前世は、何故奪われたのか。

 アナートマンは何を知っているのか、何故知っているのか。


 様々な疑問が浮かび、頭の中を埋め尽くしていく。浮かんでは消え、ということはなく、浮かんでは積みあがっていった。一日中しかめっ面をしていたことを音無に咎められたりもしたが、そのことを考える余裕すら今の僕にはない。


「ただいま」

「……ああ。おかえりなさい」


 そうしている内に一日が終わり、僕は帰ってきた。今の僕が帰らなくてはいけない場所、帰りたくもない場所――児童養護施設、明星みょうじょうの里へ。


 たまたま玄関にいた職員の女性に挨拶をしたが、彼女の顔色と声色はどこか暗い。ぶっきらぼうに言い放った『おかえりなさい』には、これっぽちの感情も含まれていないように感じられた。


 明星の里の人間たちの僕に対する態度は、おおよそこんな感じだ。先日も、門限を大幅に超えて帰宅したが、事務的な小言を二、三ほど言われただけだった。つまるところ、職員たちはなるべく僕と関わりたくないのだろう。


「あの、ちょっといいですか」

「……今忙しいんですけど」


 こいつらがそうする理由は、想像に難くない。

 職員たちは十年前に起きたことを、もっと言えば、僕の前世を知っている。仮にも僕の身を預かっている者たちだ、僕の事情について何も知らないはずがない。


 僕の前世には、何か後ろめたいことがある。そしてこいつらは、その詳細を知っている。だからこその、この態度だろう。


「ひとつ、聞きたいことがあって」


 あと少し手を伸ばせば、失われた前世の記憶に届く。届いた結果、僕に何か悪いことをもたらすような予感もある。いろいろな人間が不幸になるような、根拠のない不安さえある。


 それでも僕は、手を伸ばしたい。

 鎖を断ち切るには、鎖の正体を知る必要があると思うから。


「……聞きたいこと?」

「十年前の、事故について」


 音無には悪いが、僕はもう止まれそうにない。


「……またそれですか」


 女性職員はわざとらしく大きな溜息をついて、僕に背を向ける。この話はこれでおしまい、という意思表示だろう。


 僕が十年前の事故や前世について尋ねれば、職員たちは揃いも揃って『前世なんて忘れて現世に生きろ』という。この十年間、飽きるほど繰り返してきたやりとりだ。


「ちょっと待ってくださいよ」

「待ちません。前世のことなんてもう忘れて、現世に生きなさいってこの間も言ったばかりじゃない」


 現世に生きろと、音無も同じことを言っていた。しかし、その言葉の重みはまるで違う。彼女は、犯罪者という前世ときちんと向き合った結果、現世に生きると決めたのだ。


 だが、職員たちは違う。


 こいつらは、僕の前世を恐れている。もしくは、僕が前世の記憶を取り戻すのを恐れている。前世なんて忘れろと言っているが、実のところ一番前世に囚われているのはこいつらなのだ。


 待て、と職員の背中に語り掛けても、彼女はすたすたと玄関を去っていく。この十年間、こうしてのらりくらりと躱されてきた。だが、今日はそうさせるものか。



「やっぱり、来徒教団が絡んでいるからですか」



 今の僕には、武器がある。

 来徒教団のアナートマンという男から手渡された武器が。


 僕の前世が闇に葬られたのは何故か、アナートマンが僕の前世を知っている様子であるは何故か。それは、僕は前世で来徒教団に何らかの関わりがあったからだ。そう仮定すれば、これらの疑問に説明がいく。


 僕の前世は、教団の一員であったのかもしれない。

 前世の記憶が戻れば、再び凶悪な思想に目覚めてしまうだろう。だからこいつらは僕の前世を隠している。なるほど、実にわかりやすい。


 はたまた、来徒教団の被害者であったのかもしれない。

 前世の記憶が戻れば、来徒教団に再び狙われる可能性も否定できない。だからこいつらは僕の前世を隠している。だからアナートマンも、僕を狙っている。これも考えられる。


 あるいは、教団員の息子か、夫か、父親か。それも十分ありえる。


 とにかく、僕の前世は来徒教団に何らかの関わりがあったのだろう。しかし、僕にわかるのはそこまでだ。僕の前世が何者であったのかまでは、いくら考えても答えが出ない。

 

 だから僕は、職員の女にかまをかけた。

 来徒教団の名前を出すことで、まるで僕が前世の記憶を取り戻したかのように振舞ったのだ。



「誰から聞いた!」



 そして見事に、この女はひっかかってくれた。


 踵を返し、鬼のような形相で僕へと迫ってくる。血走った目を大きく見開いて、僕の肩をむんずと掴む。その手は小刻みに震えていて、彼女の中に渦巻く怒りと恐怖をはっきりと感じることができた。


 その様子だけで、十分だ。

 その様子が、僕の仮説を十分に裏付けている。


「何のことですか?」

「とぼけないで! ら、来徒教団ってあんた今、確かに――」


 僕の前世は、来徒教団に何らかの関係がある。それは確信となった。あとは、その詳細を知るだけだ。職員の女も、何か心当たり見つけたかのように、顔をはっとさせて息を呑んでいる。


 いいぞ、その調子だ。そうやって、あることないことを想像して、僕がすべてを知ったという勘違いをし続けてもらいたい。そのためには、平常心だ。


 彼女には、全てを語ってもらうとしよう。

 さあ、疑心暗鬼に飲み込まれるといい。

 


「――あの女か! 音無とかいう、あの女! あの女が余計なことを吹き込んだんでしょう!?」



 しかし、僕はあっさりと平常心を失うこととなった。


 音無、あの女。

 聞き間違えるはずもない。彼女は今、確かに音無の名前を口にした。


 しかし、何故だ。何故、ここで音無の名前が出てくるんだ。確かに、音無と僕が親しいことを、明星の里の連中も知っている。何度か、施設の前まで彼女が来たこともあるからだ。


 でも今は、来徒教団の話を、僕の前世の話をしている今は、音無は関係がないはずだ。それなのに、どうしてだ。何故だ、何故なんだ。


 音無は、来徒教団と繋がっているのか。

 ひどい眩暈で世界が歪む中、僕の脳内に散らばっている無数の点が、薄い線で結ばれようとしていた。 


「――! ――、――!」


 職員の声は、既に聞こえない。僕はただ、点と点が結ばれようとしているのを、必死に食い止めようとしている。


 違う、音無は違う。


 彼女は、前世の僕が好きだと言ってくれていた。だから違う。前世の僕を、来徒教団と何らかの関係がある僕を、見ていたのではない。大事なのは現世なんだと彼女はそう言っていたから違うんだ前世なんて関係なく音無は僕に彼女は現世が前世で現世は音無は彼女は現世で前世が――



「うああああああああ!」



 言葉と思考で埋め尽くされた頭は、とうとう思考を放棄した。僕は狂ったように声を張り上げながら職員の腕を振りほどき、狂ったように施設を飛び出した。


 僕にはもう、何もかもがわからない。

 何もかもが、信じられない。

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