8話

8-1. 仰木信彦

 前世から現世、現世から来世まで繋がる長い一本道を、人は独りでひた歩く。しかしその道程は孤独にあらず、様々な人間の道は必ずどこかで交わっている。


 俺とカルマの道は、来徒教団という名の交差点で交わった。

 これも何かの縁、立ち止まって互いの道について語り合うのもまた一興、とカルマは言っている。


「崎山弘、柴崎清子、田所幸代、輪島勝」


 だから俺は彼の言葉に従って、交差点の上で立ち止まり、かつて歩んできた道を振り返った。血塗られた、前世の道を。そして、黒磯茂が奪ってきた命を指折り数えていく。


「覚えてるか?」

「ええ、もちろん」


 俺とカルマが初めて出会った時も、確かそうしたはずだった。彼もそのことを覚えていたようで、ゆっくり頷いて肯定の意を示す。


 居酒屋の裏で酔いつぶれていた俺はカルマと出会い、そして俺は黒磯茂という前世を語ったのだ。数か月前の出来事だが、もうすでに懐かしい。


「黒磯茂は輪島わじままさるっていう子供を殺した際、証拠を残して捕まった。前世の俺ァ、もう死刑になっても構いやしないといった感じだったから、裁判中もひどい態度だったんだ」


 逆に、黒磯茂時代のことは、つい昨日のことのように感じられた。奪ってきた命の感触も、一人一人の血の色も、裁判の風景も、どれも鮮明に思い出すことができる。 


「反省の色も見えやしない凶悪犯に、傍聴席の誰もが敵意を向けていたよ。そんな中、一人の男が顔をぐちゃぐちゃにしながら立ち上がった。それは、最後に殺した輪島勝の父親だった」


 そして、俺に呪いをかけた張本人の顔も、呪いの言葉も、鮮明に覚えている。


「奴は声を荒げながら、こう言った。『私はお前を許さない。来世までお前を呪ってやる』、ってな」


 その言葉は、虚勢でもなければやけっぱちに言い放ったものでない。そのことは、輪島の歪んだ顔が物語っていた。奴には確かに、自らの来世を投げうってでも黒磯茂の来世を呪う覚悟があった。


 空虚、絶望、憤怒、殺意。

 ありとあらゆる負の感情が、輪島の顔には刻み込まれていたと思う。


「それが呪い、ですか」

「なにヒステリー起こしてんだか、呪いなんてばかばかしい、やりたきゃ好きにやってろ――当時はそんな程度にしか思ってなかったよ」


 当時の黒磯茂は、そんなことにも気づくことができなかった。むしろ、子供を奪われた親ってのはこんなに怒るもんなんだな、と冷静に輪島を観察していたほどだ。


 呪うなら呪えばいい、殺すなら殺せばいい。

 俺だってそうしてきたのだから。


 黒磯茂は、最後の瞬間までそんな風に考えていた。 


「けど実際に死刑となって、来世を迎えた。つまり現世の俺になって、その言葉の恐ろしさを知ったよ」


 だが、仰木信彦はそうではない。輪島が放った言葉が、脳裏にこびりついて離れない。輪島がかけた呪いが、今になって俺を苦しめている。


「現世の俺を恨む人間が、世界のどこかに存在している。それを思うと、たまらなく怖い。俺が前世で犯した罪が、現世にまで這い寄ってきている。まさしく呪いだよ。輪島の親父の言葉が呪いになって、今でも俺の心を蝕んでいるんだ」


 確かに俺は、黒磯茂という前世のせいで、これまで散々な思いをしてきた。実の両親からも見放され、世間からも白い目で見られてきた。まともな学校に通うことも叶わなかったし、働き口すらままならない。


 けれどもそれは、『関わり合いになりたくない』というだけの話であって、『仰木信彦を裁こう』だなんてことではない。それもそうだ、前世の罪を現世で裁くことなんてできない。一応、黒磯茂と仰木信彦は別人なのだ。


 しかし、それを是としない人間がいる。

 仰木信彦という人間を、『黒磯茂の来世』としてしか見ない人間がいる。俺を呪い、俺を裁こうとしている人間が、間違いなくどこかに存在しているのだ。


「……来徒教団の一員になって前世を断ち切っても、この呪いだけは解けそうもない。離来徒リライトを続ければ、来夢来徒ライムライトを達成すれば、俺にかかった呪いも解けるのかなあ」


 カルマと出会い、来徒教団の仲間となり、理想の世界実現のために離来徒リライトを続けてきた。黒磯茂という前世を持つ俺を迎え入れてくれる場所があり、『人類を前世の呪縛から解き放つ』という理想を共有する。


 それは俺にとって、幸福以外の何物でもない。


 だがしかし、呪いというのはやはり根深い。お前がこの数カ月間やってきたことは現実逃避に過ぎないのだと嘲笑うかのように、呪いはあっさりと俺の中からじわりと湧いてきた。


 しかも、呪いの存在を忘れることに一役買っていた離来徒リライトの中でそれを思い出すだなんて、皮肉もいいところではないか。


「なあ、カルマ……俺はどうすればいい?」


 頬に冷たい何かが伝うのを感じる。気づけば俺は、大粒の涙を流しながら、膝から崩れ落ちていた。


 あるいはこの男なら、俺を救ってくれるかもしれない。カルマはいつだって、俺の心を救ってきた。現世の俺に希望を与え、導いてきた。俺は祈るように、悔いるように、恥も外聞もなくカルマの足元へと縋りつく。


「いつもみたいに、俺を救ってくれ……。俺を導いてくれ……カルマ……」

「仰木さん。私は――」


 カルマが片膝を立て、泣き崩れる俺の肩に手をやった、その時だ。


――トン、トン


 俺たちが話し込んでいた教団本部の玄関、その扉が静かに叩かれた。


 擦り硝子の貼られた扉の向こうには、夜の闇が広がっている。だがその闇の中に一際濃い影が、小さな人影が確認できた。その人影が、教団本部の戸を叩いたということらしい。


「……誰だ?」


 俺の記憶が正しければ、もう既に時刻は午後十時を回っている。この時間に来客とは考えにくい、と一瞬思いもしたが、すぐさまそれを頭の中で否定する。


 記憶が正しければ、深夜に勧誘されてここにやってきた前徒もこれまでにいたはずだ。俺だって、カルマと最初に出会ったのは深夜の居酒屋裏である。現世で苦しんでいる人間たちの集まりという関係上、人目のない深夜での出会いも少なくないのかもしれない。


「……俺が出るよ」


 そんなことを考えている内に、多少の冷静さを取り戻すことができた。俺は立ち上がり、鼻をすすって涙を袖で拭う。扉へと向かおうとするカルマを静止して、俺はドアノブへと手をかけた。


「どちらさん?」

「…………」


 玄関を開けると、そこには女が一人立っていた。


 玄関には電灯が灯っておらず、女も俯いてしまっているので、その表情を窺うことは叶わない。服から垣間見える腕は恐ろしいまでに細く、俯いたまま何やらぶつぶつと呟いている。加えて、後ろ髪は腰まで伸び、前髪は鼻の頭まで垂れ下がっていた。


 とにかく陰鬱な印象で、俗に言う『普通の人』でないことは明らかだった。来徒教団を訪ねるほどの前徒だし、そういうこともあるのかもしれない。

 

「おや、こんな時間にお客様ですか? 安心してください。来徒教団は、いつでも前徒の皆さんを受け入れますよ」


 カルマがゆっくりと近づいてくる気配を背中で感じた。振り向くと、彼はいつものように優しく微笑んでいる。前徒と接するときの、柔らかく温かな口調だ。彼も彼で、雰囲気や風貌からこの女を前徒だと判断したのだろう。


「……やっぱり、ここが来徒教団の本部なのね」


 カルマの言葉を聞いて、女は初めてはっきりとした言葉を口にした。ひどく冷たく重い口調に驚いて、俺は再び女の方へと振り返る。


 女は先ほどまで地面を見ていた顔を上げていて、だらりと垂れ下がった前髪の奥からこちらを覗き込んでいた。その目には生気が宿っていなく、その表情には死の香りさえ漂っている。


「――ッ!」


 そして俺は、思わず息を呑んでしまった。


 俺は、この目に見覚えがある。

 俺は、この表情に見覚えがある。


 それは、前徒である仰木信彦の記憶ではなく、殺人犯である黒磯茂の記憶だ。殺人犯の記憶が、確かに告げている。


「さあ、お嬢さん。こちらへ――」

「伏せろカルマァ!」


 この女は、危険であると。

 この目と表情は、輪島が俺に呪いをかけた際のものと、まったく同じであると。


「あああああああ!」


 俺がカルマの頭を抱え込みながら床へ倒れ込むと同時、女の絶叫と共に何かが空を切った。勢いよく床に叩きつけられた全身が悲鳴をあげているが、今はそれどころではない。歯を食いしばり、すぐさま女の様子を確認する。


「殺してやる! 殺してやる! 私からすべてを奪ったお前らを、殺す! 絶対に殺す!」


 長い髪を振り回しながら金切り声をあげる女の右手には、包丁が握られていた。料理なんぞしない俺にはよくわからないが、刃渡り二十センチほどの、一般的な料理包丁だろう。


 駄々をこねる子供のように、女は腕を振るう。その度に、刃の面がちらちらと妖しく光る。先ほど空を切ったのは、間違いなくこれだ。カルマを抱えて咄嗟に伏せなければ、刃の切先は俺たちの血で赤く染まっていたに違いない。


「い、一体なにが」


 カルマも全身を強く打ったのだろう、腰や肩をさすっている。その表情に、いつもの笑顔はない。今起きていることの一切が理解できないとでも言いたげに、ただ目を泳がせていた。


 何が起きているかなんて、俺にもわからない。この女が何者であるか、何の目的でやってきたのか、何故刃物を俺たちに突きつけているのか、何もかもわからない。そして、それを考える余裕すらなかった。


「殺す! 殺すううう!」

「カルマ! とにかくこいつから距離を取れ!」


 俺たちが体勢を立て直すやいなや、縦横無尽に暴れ狂っていた刃の切先がこちらを向いた。明確な殺意が込められた、人を殺さんとする刃だ。考えるよりも先に体が動き、俺はカルマを突き飛ばす。


「逃げるな、逃げるな逃げるな逃げるな逃げるなあああ!」

「お、仰木さん!」


 女の突き出した包丁は、俺の右肩を掠めていく。あと数センチほどで、肉を抉っていただろう。俺はなんとかすんでのところで躱し、刃は再び空を切った。


 女の腕と、俺の体が交差する。彼女は全力で俺たちを殺しにかかっていたのであろう、身体のバランスを崩して前のめりになっていた。


「このっ……!」

「あああああああ!?」


 やるなら、今しかない。

 俺は倒れ込む女の腕をなんとか掴み、そのまま捻り上げた。女は苦痛に顔を歪ませ、今までよりも一際大きな声で絶叫する。


 女はもちろん抵抗したが、それは実に弱々しい。女の、それも病的までに細い腕だ。握られた掌はあっさりと解かれ、包丁はゆっくりと床へ落ちていく。 


「カルマ! こいつを縛る! 縄だ! 縄でも紐でも、縛れれば何でもいい! 持ってきてくれ!」


 床に転がった包丁を蹴り飛ばしながら、後方で倒れ込んでいるカルマへ呼びかける。彼は数秒ほど固まった後、はっとした顔を浮かべた直後に何度も頷いて、駆け足で廊下の先へと消えていった。


 その間に、俺は女の手を捻りながらそのまま組み伏せた。馬乗りになり、全体重で女の腕と体を押さえつける。今にも折れてしまいそうな女の体の自由を奪うには、それで十分だった。


「来徒教団……! 許さない、許さない……!」


 女は苦しそうに呻きながらも、恨み言を吐いていく。その言葉はすべて、来徒教団を憎むものであった。既に抵抗できず、息をするのも苦しいはずなのだが、それでもなお女の口は恨みや憎みの言葉を紡いでいく。


 この女をここまで駆り立てるものは、何だというのか。

 何故、ここまで来徒教団を憎んでいるというのか。


「なあ、お前。なんだってそんな……」

「仰木さん! ありました!」


 それを問おうとした矢先、廊下の先から足音と声があった。そこには、ロープの束を抱えながらこちらへと駆けてくるカルマの姿が見える。人の手足を縛るには太すぎるロープに見えるが、贅沢は言っていられない。


「よし、これを――」

「やめろおおおおおおお!」


 俺がカルマからロープを受け取った瞬間、女は最後の足掻きと言わんばかりに暴れ出す。だがやはり彼女の力は弱々しく、片手で簡単に抑え込むことができた。


 それでもなお、女は首だけを必死に捻り、馬乗りになった俺を睨もうとする。ぐしゃぐしゃになった髪の隙間から、狂気に満ちた目と表情がちらりと見えた。


 ああ、やっぱりだ。


 俺は、この目に見覚えがある。

 俺は、この表情に見覚えがある。



「私はお前たちを許さない! 待ってろ! 来世の私が、絶対にお前たちを殺すからな! 私を殺した後も気を抜くな! お前らは、来世まで私が呪ってやる!」



 俺を呪おうとする、目と表情だ。

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