6-3. 天城至

 僕たちは手を繋ぎながら公園を後にして、帰り道を歩く。その間、僕と音無の間に会話はない。ただ、手のひらを通じてお互いの体温を感じていた。それが僕にはたまらなく心地よく、たまらなく幸福であった。


 駅に着くのを嫌がって、僕はわざとゆっくりと歩いた。何も言わずに僕の歩幅に合わせてくれている彼女も、同じ気持ちであったに違いない。


 小高い丘から見える夜空も、僕たちの歩調に合わせてゆっくりと流れていく。かつて前世の僕を照らしたであろう月光は、今はこうして現世の僕を照らしてくれている。


 前世を照らした光がどのような姿であったのか、前世の僕の姿はどのようなものであったのか、それが気にならないと言ったら嘘になる。けれども、彼女の体温を味わうことができるのも、彼女を愛しく思うのも、現世の僕だけだ。


「……じゃあ、ここで」


 そんな現世の感情を噛みしめている内に駅へ着き、電車に乗り、僕たちの最寄り駅まで来てしまった。改札を出れば、あとは解散するのみだ。


「そうだね」

「うん」


 僕たちは会話になっていない会話を繰り返して、手を繋いだまま駅前に立っていた。もう少し、あと少しだけ二人きりでいたい。その気持ちが、僕の手のひらを開かせないでいた。


「ん」


 そうやって何もせず、数分間ただ見つめあっていると、音無は小さく息を漏らして瞳を閉じた。


 自惚れでなければ、きっとそういうことだろう。


 月と星々しかなかった公園とは違い、駅前はある程度の光に満ちている。先ほどとは違って、彼女の唇が艶やかに煌めいて見えて、僕はそこから目が離せないでいた。


 僕は辺りを見渡して、人影がないことを確認する。


「――んっ」


 音無と同じように瞳を閉じて、ゆっくりと彼女に顔を近づけ、彼女の唇に自らの唇を重ねた。手のひらとは違う、しっとりとした柔らかな感触が伝わってくる。


 しばらくそれを味わっていると、トンと軽く胸を押され、彼女の唇が離れていく。目を開けると、僕から数メートルほど離れたところで、音無が佇んでいるのが見えた。


「へへっ。また明日ね、天城」


 音無はいつものような嫌らしい笑みを浮かべながら、闇の中へ溶けていく。僕はその背中が見えなくなるまで彼女を目で追って、見えなくなった後もしばし呆けていた。


 現世の幸福の前では、前世の不幸など無力だ。

 失われた前世の記憶について悩む心は、いつの間にか夜闇の中へと霧散してしまっていた。



「いやあ、青春ですね。私みたいな老体には少々刺激が強すぎます」



 だがそれは、再び夜闇の中から這いよってくる。


 聞き覚えのある声に驚き振り向くと、見覚えのある老人がそこにはいた。老人は歪で不気味な笑みを浮かべながら、こちらへと近づいてくる。先日と変わらぬ、歪んだ顔と白髪だらけの頭に、皺と傷に埋め尽くされた顔だ。


 そんな人物に、心当たりしかなかった。


「アナートマン……!」


 来徒教団の男、アナートマン以外にないだろう。


「お久しぶりです、天城さん。私の名を覚えていてくれたのですね。この上ない幸福です」


 アナートマンは胸を押さえ、深々と頭を下げる。相変わらず、紳士のような立ち振る舞いと、狂人のような出で立ちだ。そのちぐはぐさが、より彼の異質さを際立させている。


「ふざけるな、なんだってお前は――」

「天城さん。どうやらここ最近、自らの前世についてお調べになっていたようですね」


 なんだってお前は僕に付きまとうんだ、と言おうとしたのを、アナートマンが遮った。


 確かにこの数週間、僕は自らの前世を突き止めようとあれこれ動いていた。だがそれを、何故この男が知っているのだろう。僕はひどく困惑して恐怖したが、なんとか冷静さを保つ。


「……それがどうしたんだよ」


 その通りだと肯定するのも、それは違うと否定するのも、どちらもアナートマンの思うつぼのような気がして、僕は曖昧な返事をした。


「いやいや、責めようという気持ちはありません。前世の記憶がないからこそ貴方は素晴らしいとは言いましたが、前世を乗り越えるために前世を知る、というのもまた素晴らしいことです」


 その意図を汲み取ったのかどうかはわからないが、彼はやはり『素晴らしい』と僕を評する。


「ですが、これはいけません」


 するとアナートマンは、羽織ったジャケットの内ポケットをごそごそとまさぐって、おもむろに何かを取り出した。僕の前に突き出されたそれは、丸められた紙のように見える。



「個人情報が詰まったこのようなものを、あろうことか公共の場に捨ててしまうなんて」



 僕はその紙に、見覚えがあった。

 先日発行してもらい、その内容に落胆し、怒りのままに丸め、役所の入口にあるごみ箱へ投げ捨てた――自らの戸籍謄本に間違いない。


「お前……なんでそれを……」

「我々にとって天城さんは大切なお方。我々が導かねばならない前徒であり、我々が目指す来徒の理想形です。誠に勝手ながら、陰から見守らせていただきました」


 アナートマンの言葉に嘘がないことを、彼の手の内にある丸められた紙が物語っている。その事実が、ひどく恐ろしい。だとすれば、これまでの僕の行動はすべてこの男に筒抜けだということだ。


 僕が前世について調べていたことも、音無とデートをしたことも、彼女と思いを伝えあったことも。


「……そんなもの、もういらないよ。僕の前世について何も書いてないしね。それに、前世についてあれこれ悩むよりも、現世の幸せを噛みしめるほうがずっといいって気づいたから」


 だからこそ、僕は強気に出ないといけない。


「だからもう、僕はお前たちの求める前徒でもなんでもない! 僕は現世に生きるんだ! お前たちみたいな危ないカルト集団に付きまとわれるのは、もう御免なんだよ! わかったら、もう二度と僕に近寄るな!」


 前世の呪縛がどうとか、世界を変えるとか、僕にとっては心底どうでもいい。僕は、現世に生きると決めたのだ。現世で幸福に生きるにあたって、来徒教団という存在は邪魔でしかない。


 それに、音無と親密な関係になったことが知られた以上、こいつらが彼女にちょっかいを出すことも考えられる。それは、それだけは、なんとしてでも阻止しなければならない。彼女のためにも、僕の幸福のためにも。


「素晴らしい!」


 しかし、アナートマンという男は一筋縄ではいかない。

 悪態のひとつでもつかれるかと思っていたが、相変わらず彼は『素晴らしい』とだけ述べる。その声量は、かつてないほどに大きかった。

 

「前世の呪縛から解放され、現世を生きる。それこそが、来徒教団が目指す世界の在り方です! 貴方は今! 前世の鎖を断ち切って、現世での幸福を求めることを決めた! ああ、天城さん! やはり貴方は素晴らしい!」


 彼は右目だけをぎょろりと見開いて、両手を広げ、天を仰ぎ見る。歪な形相からはわかりづらいが、どうやら歓喜に震えているようだ。


 前世を知ろうとしても『素晴らしい』、前世を断ち切ろうとしても『素晴らしい』と言うアナートマンに、僕はもう為す術がなかった。どうやっても来徒教団はお前を見逃さないぞ、という意思のようなものすら感じてしまう。


「天城さん。来徒教団には、やはり貴方が必要だ。我々とともに来夢来徒ライムライトを成し遂げ、世界を変革するのです」


 アナートマンはわなわなと震えながら、僕の肩を掴む。彼の目は先ほどよりもさらに大きく見開かれていて、声もどこか上ずっている。感極まった人間のそれだ。その狂った一挙一動に、僕は恐れおののいた。


「カルマ様の理想は、我々の理想。カルマ様の夢見る世界は、もうすぐ現実のものになろうとしています。来夢来徒ライムライトの実現は、もう目の前にまで来ているのですよ」

「ま、待って、落ち着いて――」

「カルマ様が求める世界は! まさに目と鼻の先なのです! あとは行動を起こすだけ、来夢来徒ライムライトを実行するだけなのです! さあ! 我々とともに!」


 僕の肩を掴む手に、段々と力が込められていく。アナートマンの鬼気迫る表情が、段々と近づいてくる。何が彼の琴線に触れたかはわからないが、とにかく彼はえらく感情が昂っているようだった。


 なんとかアナートマンを振りほどこうとするが、予想以上に力の込められた彼の手がそれを許さない。身の危機を感じてさらに強く身をよじったところで、彼の語りが唐突に止んだ。


「すみません。少々取り乱しました」


 はっとした表情を浮かべた矢先、アナートマンは僕を開放する。慌てて彼から距離を取ったが、再び詰め寄ってくる気配はなさそうだ。どこが少々なんだ、と嫌味を言ってやりたい気持ちをぐっと堪え、代わりに怒りを込めた視線だけをくれてやる。


「天城さん。本当にもう、前世を知る気はありませんか?」


 僕の怒りを知ってか知らずか、アナートマンは話を切り替えて、ずかずかと僕の心の内へと入ってくる。


 前世なんて関係ない、現世に生きる、と僕は先ほど叫んだばかりだ。しかも、その言葉に対して彼は『素晴らしい』と述べた。それでもこんな質問をしてくる彼の意図がわからない。


「そんなの――」

「前世の記憶がないことが鎖だと、先日おっしゃっていましたね。前世を断ち切り現世に生きるのならば、その鎖も断ち切りたいと、思いませんか?」


 知る気はない、と言いかけたところで、アナートマンは先日の僕の言葉を引用して畳みかけてくる。


 知りたくない、と言えばやはり嘘になる。

 現世の幸福と比べたら些細なことだというだけで、やはりもどかしいものはもどかしい。その心情を、この男は見透かしているのかもしれない。


 だがそんなことよりも、今の発言には気になるところが多すぎた。



「あんた、知っているのか……? 僕の前世を……」



 それはまるで、僕の前世を知っているかのような口ぶりであったからだ。


「……今はまだその時ではありません」


 そのことを証明するかのように、アナートマンは否定も肯定もしない。そのことが、僕を確信へと至らせた。間違いなく、この男は僕の前世について何かを知っている。よりにもよって、来徒教団の一員であるという、この危ない男がだ。


「話し込みすぎましたね。もうこんな時間です。それでは、今日のところはこれで」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」


 前世なんてどうでもいいと思った矢先に、十年間求め続けてきた答えを知っている男が現れた。その男が、答えが、僕の前から去ろうとしている。それをどうして見過ごせようか。


 僕に背を向けたアナートマンの手を、気づけば僕は掴んでしまっていた。



「では、今日のところは、ひとつだけ」



 してやったり、といった表情を浮かべながら、彼はこちらへ振り向いた。僕がこうするであろうことも全部見透かされていたのだと、そこでようやく気付く。


 アナートマンに何の意図があるかはわからないが、とにかく彼は僕に前世を思い出してほしいのかもしれない。だからこうして思わせぶりな態度をとって、前世を断つと決めた僕を焚きつけたのか。


 蛇のような男だと、その時初めて思った。

 狡猾に僕を誘惑し、来徒教団へと関わらせようとしている。


 蛇は歪んだ笑みを浮かべ、じりじりとこちらへ歩み寄りながら、ゆっくりと口を開く。その口から語られる言葉を、今か今かと待ちわびている自分が、たまらなく嫌だった。



「十年前、天城さんが記憶を失うことになった理由は、事故などではありませんよ」



 予想だにしなかったアナートマンの言葉に、僕は思わず固まってしまう。


 それはまさしく、蛇に睨まれた蛙のように。

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