2話
2-1. 仰木信彦
窓の外からは、鳥の囀りが聞こえてくる。
まだ熱を帯びたばかりの太陽の光が、カーテンの隙間から漏れているらしい。その眩しさは瞼の上からでも伝わってきて、実に煩わしい。
「んん……」
頭の中に立ち込めていた霧が段々と晴れていき、徐々に意識が自らの支配下に戻ってくる。意識が覚醒していくにつれ、割れるような頭の痛みも段々と戻ってきた。やけにべとつく口内と、やけに悲鳴をあげる頭、その二つを引き連れながら俺はゆっくりと体を起こした。
「痛え……」
上体を起こすと、さらに頭痛は強さを増す。
二、三度首を振った後に辺りを見回してみたが、そこには物珍しさの欠片もない。見飽きた光景が、当たり前のように広がっているだけだった。
街の外れの外れ、築ウン十年のボロアパート、201号室――間違いなく俺の部屋だ。自分の部屋で目覚めるのはごく自然であるはずなのだが、如何せん先日は自宅まで帰ってきた記憶がない。
何度目になるかわからない不採用通知を見て、家を飛び出した。それは覚えている。苛立ちのままにやけ酒をした。それも覚えている。
『我々は、
はっきりとしない記憶を探す旅の途中、すらりとした男の姿に辿り着いた。薄ら寒い笑顔の貼りついた男の姿だ。記憶はあまりに朧気だが、彼は何かよくわからないことを言っていた気がする。
『あなたのような
段々と覚醒していく頭の中に、その男の声が轟いた。
そうだ、前徒だ。確かあいつは、そんなことを言っていた。
しかし俺は何故、そんな男に、そんなことを言われるのに至ったのか。
その理由を中々思い出すことができなかったが、次第に記憶も鮮明となってきたところで、俺は途端青ざめることとなった。
『
この記憶が正しければ、俺は確か自身の前世について語ったはずだ。狂気と血に染まった、自らの足元に繋がれた鎖について語ったはずだ。
黒磯茂が前世であると名乗り出るなぞ、自殺行為にも等しい。黒磯茂という男は、テレビでも『あの凄惨な事件から〇〇年』だなんて特集が組まれる程度には、悪名高い人間なのだから。
事件被害者の来世にあたる人物は、きっと今も生きている。被害者家族だって、まだ健在かもしれない。そういう人々から、恨みを買われていても文句は言えないのだ。
だから俺は、これまで前世をひた隠しにしてきた。
それを酒の勢いに任せて、それも見ず知らずの男に告白しただなんて、考えるだけで血の気が引いてしまう。
「ゆ、夢だよな」
記憶の終着点を直視することができず、現実から目を背ける言葉を口にする。どこか落ち着いていられない両手は、布団の上をあちらこちらと彷徨った。
すると、右手の掌が何かに触れた。つるりとした、少しばかり固い紙切れの感触だ。広告チラシの類だろうか。はて、と思いそれを手に取ってみる。
『前世の呪縛からの解放を目指す 来徒教団』
A4サイズの紙きれの上、圧倒的な存在感を放ちながら鎮座する文字列を見て、昨日の出来事が夢でなかったことを悟った。酒場の裏、そのゴミ置き場で意識を手放す直前、男が何かを手渡してきたような記憶もある。その正体が、この紙きれなのだろうか。
俺はひどく狼狽えて、四畳半の部屋の中をうろうろと動き回った。布団の上で胡坐をかいたままでは心も体も落ち着かなく、とにかく何かをせずにはいられない。
ふと、壁掛けのカレンダーと時計が目に入った。
先日は四月十日であったから、今日はは四月十一日のはずだ。そして時計の針は、午前九時を指し示している。
そこから導かれる単純な答えに、俺はさらに狼狽えた。
「今日、十時から面接……」
来徒教団、謎の男、俺の前世――気になることは山積みだったが、それよりも今は目先のことに集中せねばなるまい。そう自分に言い聞かせ、俺は部屋を飛び出した。
◆
かの男との邂逅から、一週間が経過した。
あの出来事を、今も思い出さないでもない。しかし、それ以上に就職活動に注力したお陰か、どこか遠い記憶のように感じる程度には収まっていた。
来徒教団とやらにも、前世の呪縛から解放するだの語る男にも、金輪際関わりたくはない。俺の前世を知られてしまったこともあるが、怪しさしかない集団に誰が近づきたいと思うのか。
前世の告白を悔やむ気持ちと、教団と男を怪訝に思う気持ち、それらを振り払うように就職活動に勤しんできた次第だが――
「不採用、不採用、不採用」
その結果たるや、悲惨なものであった。
これまでと同様の結果ではあるのだが、先日の一件もあって、今まで以上に自らの前世が鎖に思えてならない。
自宅近くの公園、そこにあるベンチに腰掛けながら、咥えた煙草の火を不採用通知に押し付ける。俺の現世を否定する書類に刻まれた『不』の文字が、黒く焦げて灰になっていく。それは春風に吹かれ、真昼の空へと消えていった。
『人類を、前世という呪縛から解き放ちましょう』
舞い上がる灰を眺めていたその時、先日の言葉が蘇る。
足元に絡む鎖から、心臓を握る呪縛から、解き放たれたらどれだけいいか。前世の影が及ばぬ現世を送れたら、どれほど幸福か。そんなことを、想像しないはずがない。もし人類を前世から解き放つ方法があるのならば、早いところ実行してほしいところだ。
「仰木さん。先日はどうも」
心も灰と化し、前世の呪縛から解放されるなどという世迷言に思いを馳せていた、その時だ。車のクラクションの音が公園中に響き渡り、そのすぐ後に俺の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「お前は……」
「覚えていらっしゃいますか?」
声の主は公園の脇に車を停め、にこにこと笑いながらこちらへと歩み寄ってくる。その人物の輪郭が大きくなるにつれ、逃避し続けてきた現実も段々と迫ってきた。
俺の名前を呼び、俺の目の前へと躍り出た、胡散臭い男。その人物に、心当たりがないはずがない。人類を前世の呪縛から解放するなどと世迷言を語る、かの男に違いなかった。
「あれは夢だと自分に言い聞かせてたんだがな。あんたとはもう二度と会うまいと思ってたのに」
「そんな悲しいことをおっしゃらないでください。それに、約束したじゃないですか」
心底嫌そうな顔をしながら悪態をつく俺と対峙してもなお、男の笑顔は崩れない。男のジャケットが春風に煽られたのみで、彼自身は微動だにしなかった。
それに対して、俺は焦りを隠せない。
先日、俺たちは何らかの約束を交わしたのだと、男は言う。何か余計なことをしてしまったのではないかと、俺は心中穏やかでなかった。
「約束だあ?」
「来週またお会いしましょう、そう約束して別れたじゃないですか」
自らの愚かさを、今ほど後悔したことはないだろう。
胡散臭い男との再会の約束なんて、余計なことの極みではないか。
「ささ。行きましょうか」
「行くって、どこへ」
「仰木さん。先日のこと、本当にすっかり忘れてしまってるんですね」
どうやらその約束とやらは、こうして再会するだけに留まらないらしい。
過去の自分を呪っても、現状を変えることは叶わない。
前世を変える術はなく、現世にまで尾を引くのと同じように。
「来徒教団、本部にですよ」
俺を誘うその言葉は、死刑宣告にも福音にも聞こえた。
◆
断れば何をされるかわからないという恐怖と、もうどうにでもなれという諦め、そして藁にも縋るような一縷の望み――色んな感情が俺の中で渦巻いて、結局男に促されるまま車の助手席へと乗り込んだ。
男が運転する車はかなり年季が入っていて、乗り心地はお世辞にもよいとは言えなかった。苛立ちと恐怖だけが俺の頭を支配していて、道中の景色や男との会話はまるで覚えていない。がたのきているギアが忙しなく切り替わる音、絶え間なく吸っていた煙草の味。記憶にあるのはそれだけだ。
出発してから一時間弱くらいだろうか、『着きましたよ』という男の言葉とともに喧しいエンジン音が鳴り止んだ。はっと我に返って辺りを見渡したが、どうやらここは閑静な住宅街であるらしい。
「戻りました」
住宅街の外れにある、公民館のような小さな施設の前で停車したらしい。俺は男の促すまま車を降りて、小さな建屋に似つかわしい小さな門をくぐった。
「仰木さん。ようこそ、来徒教団へ」
外見は古びた日本家屋といった感じだが、玄関と廊下は西洋のそれを思わせた。勝手口の内と外があまりにかけ離れていて、二つの世界を雑に切って貼ったような歪さを感じてしまう。
「ああ! カルマ様!」
「おかえりなさいませカルマ様!」
呆けて立ち尽くす俺の耳に、硬質感のある床をコツコツと叩く音が幾重にも響いたかと思えば、廊下の奥からいくつかの人影が近づいてくる。
人相の悪い老人、パンクロックという言葉を想起させる風貌の青年、学生と思われる若者――それらは皆異なっていて、皆同じ目でかの男を見つめていた。
「……カルマ?」
「ああ、私のことです。教団内ではそう名乗っています」
そんな異様な光景よりも、俺の中には引っかかるものがあった。よくわからない名で呼ばれ、それに『様』という敬称までつけられているこの男は、一体何者なのだ。
「いや、その。カルマ、様って」
「私ごときが恐縮ですが、来徒教団の代表をしておりまして」
心の隅の方で『まさか』とは思っていたが、どうやらそのまさかであった。カルマだとか呼ばれているこの男が、胡散臭い教団のトップ、教祖とでも言うべき人間であるらしい。
「まあ、それは一旦置いておきましょう。どうぞこちらへ」
カルマは信者たちと二、三ほど言葉を交わすと、俺を奥の部屋へと促した。俺の頭はとっくに思考することを放棄していて、それに従う以外ない。
「仰木さん。私は貴方と二人でお話をしたく、ここまでご足労願ったのです。貴方には、知っておいてもらいたい。いや、知る権利があると言ってもいいかもしれません」
部屋は思いの外小さく、向かい合わせのソファと机、本棚程度の物しかなかった。書斎のような部屋なのだろう、と勝手に納得しておく。
カルマに促されるまま、俺はソファへと腰を降ろす。
それから数秒間の沈黙の後、カルマは初めてその笑みを解き、神妙な面持ちでもって口を開いた。
「人類を前世の呪縛から解き放つ――その方法を、お教えします」
息を呑むほど澄んだ声で、息が止まるような台詞を、カルマは吐いた。
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