1-3. 天城至
今この一瞬一瞬を生きているのは、僕自身に他ならない。
その人物の趣味趣向は前世の記憶に起因している、だなんて風潮が世の中にはある。それを否定することはできない。寿司を美味しいと感じた前世の記憶が、現世でも寿司を美味しいと感じさせる。実にわかりやすい理屈と言えよう。
けれども、それはあまりに悲しくはないだろうか。
それではまるで、人間は前世の鎖に繋がれた囚人のようではないか。
「天城ィ、また前世のこと考えてるね?」
そんなことを考えながら帰路を急いでいた矢先、ふと肩を叩かれる感触と、僕の名を呼ぶ声があった。振り返らずとも、声の主には心当たりがある。だから僕は振り返ることも、足を止めることもしない。
「
「よっ。その顔はやはり、前世のことを考えてたな天城ィ」
振り返らずとも、彼女――友人の
実に意地の悪そうな笑みではあるが、それを見ているとどこか心が落ち着く僕がいる。そう考える僕の感情は、僕だけのものだ。それは決して、前世の記憶に依るものではない。
見慣れた通学路に影を落とす西日を煩わしく感じる心も、嫌気たっぷりに僕の顔を覗いてくる彼女を慕う気持ちも、その声がどこか落ち着くと感じる心情も、すべて天城至である僕だけのものだ。
僕はそう信じているし、そうであって欲しいと願ってやまない。
「ねえ音無」
「ん?」
「前世の記憶があるってどんな気分?」
だからこそ、疑問に思う。
前世の記憶があるというのは、自分ではない他の人生の記憶を有しているというのは、どんな気分なのだろう。
「天城ィ、余計なことなんて考えるなって」
前世とは何か、現世とは何か、記憶とは何か――などと思案する僕を、音無は一蹴する。まるで悪ガキを叱責するかのように、彼女は僕の背中を思いきり叩いた。
「前世の記憶なんて邪魔なだけだって」
「そうかな」
いたずらっぽく笑いながら、音無は僕の肩を抱く。音無の所作は、男の僕よりも遥かに男らしい。だがしかし、二の腕から伝ってくる彼女の柔らかな肉感は、確かに女性特有のそれだった。
彼女の感触に思わずどぎまぎとする気持ちも、いつもと変わらぬ彼女の距離感にどこか安心を覚える心も、紛れもなく僕だけのものだ。
「あたしからしたら、前世の記憶をどっかに忘れてきた天城が羨ましいよ」
失われた前世の記憶がそうさせているのではないと、僕は信じている。
「でもさ、あるはずのものがないってのは、どうも収まりが悪いんだ」
僕には、前世の記憶がない。
幼い頃に失ってしまった、というのが正確だが。
周囲は詳細を教えてくれないので何とも言えないが、とにかく僕は六歳の時に事故に遭って、その際に記憶を失ったらしい。記憶を失った、というのはその当時までことはもちろん、前世の記憶も含んでいる。
医師曰く、珍しいことではあるが事例がないわけではないようだ。前世の記憶喪失は、外的な要因による脳への損傷ではなく、トラウマやストレスのような内的要因によって引き起こされることが主らしい。
まだ幼い僕にとって、十年前の事故はあまりにショッキングな出来事であったのだろう。
「クソッタレな前世には現世の牙を突き立てろ、ってね」
「なにそれ」
「あたしの好きなバンドの曲」
長年抱え続けてきた悩みに頭を抱えていると、音無は自らの口角を人差し指で引っ張って、僕に奥歯を見せつけてきた。大きく横に伸びた唇と同じように、彼女の目元も細く伸びている。
それは、彼女なりの『あまり気負いしすぎるな』という気遣いのように感じられた。音無はがさつなように見えて、人の機微に敏感であったりする。彼女のそういうところに、僕は惹かれているのかもしれない。
「ロックな歌詞だね」
「でしょ?」
「
「……あんたの寒い駄洒落好きは前世由来? それとも自前?」
音無の気遣いに対して、僕も『何とも思ってないよ』という風におどけてみせた。
彼女の問いに対する答えだが、無論自前に決まっている。彼女の存在を快く思う気持ちも、僕の趣味趣向も、僕だけのものだ。
「碌な、言葉で思い出したけど、昨日のニュース見た? 政治家が死んだってやつ。前世主義者の、前世でも政治家やってたっていう官僚がさ」
冷めた目をこちらへ向けていた音無は、おもむろに携帯電話を制服のポケットから取り出しながらそう言った。どうやら、先日のニュースについて調べているらしい。
「ああ、うん。見たよ」
政治だとか世界情勢だとか経済だとか、僕にとってはあまり関係のないことだ。だからだろうか、僕は普段からあまりテレビやニュースを見ない。そんな僕の耳にさえ入ってきた事件なのだから、事は重大であるのだろう。
「一部じゃ、『反前世主義の人間に殺された』なんて言われてるね」
「それも仕方ないさ。どんなに素晴らしい前世を持ってても、それを妬む奴がいる。どんなに素晴らしい現世でも、前世が足を引張ることもある」
もちろん、前世と現世で人の生は違う。
だが確かに、魂は繋がっている。
現世で善人であったのならば、善に染まった魂は現世に受け継がれているに違いない。前世で悪人であったのならば、悪に染まった魂は現世に受け継がれているに違いない。
そういう考え方――『前世主義』は、ここにきて急速に力を増してきている。
殺されたとかいう官僚は前世でも政治家だったというが、政治家なんてほとんど全員がそうだ。政治家にしろ教員にしろ弁護士にしろ、『先生』と呼ばれる位の高い職業は、前世がそうであったことがスタートラインみたいなところがある。
「前世の記憶なんかあったって、碌なことないよ。一昔前より更に前世主義が色濃くなってきた今じゃ、前世の記憶がない方が幸せだって」
自嘲気味にそう言って溜息をつく音無も、それに対してどんな顔をすればよいか迷っている僕も、前世主義という見えざる手に心臓を握られている。それは、この国に生を受けた瞬間から。
「見なよ。あたしらの学校をさ」
音無はそう言いながら、坂道を下る足を止めて振り返る。僕もそれに倣って後ろを向くと、小高い丘の上に佇む見慣れた校舎が見えた。沈む陽を背にしていることも相まって、それはいつもより小さく古びたものに感じてしまう。
僕たちの高校は、街の外れにある丘、その外れにある。それはまるで、学校の存在を世間から遠ざけているようにも、存在自体を隠しているようにも見えた。
「世間から爪弾きにされた、碌な前世を持たない奴らが集められる高校だ。そんな所に通ってる時点で、天城の前世も碌なもんじゃないのさ。あたしの前世が碌でもないようにね。だから、さ。それを忘れているのは、不幸中の幸いみたいなもんだって思った方がいいよ」
校舎に影が落ち、音無の表情が陰る。
すべてを諦めた顔で笑う彼女の瞳には、過ぎ去ったはずの前世が映り込んでいるように見えた。
◆
前世主義。
それを良く言うつもりも、悪く言うつもりもない。
前世主義を肯定する人間の言い分は、十分にわかる。仮に前世で大罪を犯した者がいるとして、その人物は当時の記憶を有しているのだ。前世の記憶に現世の思考が影響されないとは考えにくい。
それと同時に、否定する人間の言い分も理解できる。前世の記憶があるとはいえ、やはりそれはあくまで前世のものなのだ。前世と現世、やはりそれらは切り離して考えるべきなように思える。
音無が言うように、僕たちのような者にとって前世の記憶というのは枷でしかないのかもしれない。
「音無。それでも僕はさ、前世の記憶を取り戻したいんだ」
だが今は、その枷が欲しくてたまらない。
ただ僕は、納得がしたいだけなのだ。
僕の前世が悪人であったのならば、それを甘んじて受けよう。現世でのまともな生活を諦めて、懺悔の心でもって現世を終える覚悟だってある。だが、その記憶がないままに今この現状を受けいれろというのは、到底納得できるものではない。
実の両親ならば、僕の前世を知っていることだろう。叶うのならば、色々と問い詰めてみたいところだ。
夕闇の中、淡く白い光を放つ蛍光灯が近づいてくる。それは、僕が帰るべき場所を照らしていた。僕はその下で足を止めて、不規則な点滅を繰り返す光に照らされた看板の文字を追う。
『
そこに書かれている文字を反芻したところで、両親に前世を問う願いが叶わぬものだと実感した。
ここが、僕の帰る場所。
街の外れにある丘の下、そのさらに外れにある児童養護施設――明星の里。
僕の一番古い記憶は、ここから始まっている。物心ついた頃からここにいて、両親の姿はおろか、両親の名前すら知らずにここで育ってきた。
職員たちは皆、僕の前世を知っているように見える。けれども、誰もがそれを口にすることはない。何度も尋ねたみたが、暖簾に腕押し、
そういった事情もあってか、僕と職員たちの間には大きな壁があり、僕は常に居心地の悪さを感じている。音無との下校が永遠に続けばいいと、何度夢想したかわからない。
「はあ……」
肺の中の空気を全て絞り出すほどの溜息をついて、踵を返す。先日のニュースや音無との会話もあってか、明星の里へ帰る気が起きない。ぶらぶらと街を彷徨って、公園かどこかで夜を明かすとしよう。
「やはり、施設に帰るのは気が重たいですか?」
非行行為に走ろうとしたその時、僕の名を呼ぶ声があった。地の底から届いてきたかのような、しゃがれた男の声が。
「だ、誰だ!」
「天城至さん。我々は貴方をずっと探していた。貴方には、前世の記憶がない。それはつまり、前世の呪縛から解放された人間だということです。実に素晴らしい。我々が目指す来徒の姿、その理想形です」
恐怖のままに振り向くと、奇妙な風貌で、奇妙なことを言いながら、奇妙な立ち振る舞いをする老人がそこにはいた。浮かべた笑みは大きく歪み、顔には幾重もの皺と傷が刻まれている。
男は僕の問いには答えず、両手を広げながら意味不明なことを呟いている。眼球の動かし方を忘れてしまったかのように、彼の目は僕を捉えて離さない。
一目でわかるほど、異常なまでに異様な男だ。そんな男の突然の登場に、僕の体と心臓は跳ね、脳は否応なく『危険』の二文字を発してしまう。
「な、何を言ってるんだ……?」
「だが、前世の記憶がないという現実が、貴方を苦しめている。つまり貴方も、前世という幻影に苦しむ前徒であるのかもしれません。理想的な来徒でありながら、前徒でもある。こういった矛盾を孕んでいるからこそ、人間は美しい」
古びた街灯の光が、男を照らす。足早に夜が訪れた秋空の下には、男の声と足音のみが響いている。たじろぐことしかできないでいる僕から視線を逸らすこともなく、男はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「自己紹介が遅くなりました。私はアナートマンと申します」
彼を照らす光が街灯から施設の蛍光灯へ変わったと同時、男は僕に向かって深々と頭を下げた。その所作は、紳士のようであり、狂人のようでもある。腰を九十度近くまで折り曲げる男を眼下に見ながら、僕は何もできないでいた。
「我々は、
未だ夏の名残がある温い秋風が、僕たちの間を駆け抜ける。
僕の運命の歯車は、軋みをあげながらもゆっくりと動き始めようとしていた。
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