3-2. 轟潤一
カルマといいアナートマンといい、ここの連中の口調と物腰は実に穏やかだ。加えて、顔には常に笑顔が貼りついている。少々偏った思想を持っていて、語る理想はどうにも胡散臭くはあったが、バンド仲間が来徒教団を『危ないカルト集団』と称するのはいまいち理解できないでいた。
「ご苦労様です、アニッチャ」
「いえ」
だがここで、ようやくそれを理解する。
アニッチャと呼ばれた女の服と頬は、見事なまでの深紅に染まっていた。薄暗いこの場では、今のオレの心情も相まってか、それはまるで火の玉のように見えてくる。
そして、その紅が人の血であることを、彼女の手に握られた拳銃が物語っていた。彼女を紅く染めているのは絵の具か何かで、持っているのも玩具に違いない――などと一蹴できたらどれだけよいか。
「随分と真っ赤じゃないですか」
「やはり効き目が薄く。少々抵抗されまして」
この異質な空間と、彼女が纏うただならぬ雰囲気。それらがどうしようもなくオレに語りかけてくる。これが血でなくて何だというのか、これが玩具であるものか、と。
「ですが
相変わらず笑みを浮かべながら頷くカルマとアナートマンとは対照的に、アニッチャと呼ばれた女の表情はぴくりとも動かない。その奇妙で歪なやり取りを見ていると、来徒教団への印象がますます『胡散臭さ』から『恐怖』へ上書きされていく。
ここは教団の本部で、オレを取り囲むのは三名の幹部たちだ。
オレは好奇心という餌におびき寄せられて、まんまと連中の巣穴へと誘い込まれたというわけか。いくら自らの愚かさを呪っても、どれだけ後悔しようとも、もう遅い。
「ところでカルマ様、アナートマン。彼はもしや」
後悔と汗が背筋を伝うその最中、女の瞳がオレを捉えた。
彼女の背丈はオレの肩ほどまでしかなく、吹けば飛びそうなほどにその身体は細い。瑞々しく白い肌を汚す紅が、彼女の美しさを掻き消していた。
「ああ、すみません」
「轟さん、紹介しますね。彼女はアニッチャ。彼女も我々と同じ、来徒教団の幹部です」
アニッチャに続き、カルマとアナートマンの瞳もこちらを向く。
オレを見つめる六つの目は、獲物を品定めするそれだ。口角の上がった口の中では、舌なめずりしているに違いない。
食われてはならない。逃げなくては。生きなくては。
すっかりと錆びついていた生存本能に、恐怖という油が注がれた。
「アニッチャ。こちらが轟――」
「ひぃっ」
炎を纏って覚醒した本能は、砕けかけた腰を支え、鎖に繋がれていた足を動かした。カルマとアナートマンとの間にあった僅かな隙間へと体をねじ込ませ、彼らを押しのけ教団の出口へと向かう。
教団に入ってすぐの廊下で話し込んでいたこともあり、出口は目と鼻の先である。距離にして数メートルといったところだ。歩いても走っても数秒というその距離が、今は永遠に感じられる。
「……クソッタレな前世には現世の牙を突き立てろ」
間延びした永遠からオレを解き放ったのは、か細いアニッチャの声だった。扉につけた手を少し押すだけで、そこから飛び出すだけで、オレは生き延びることができたはずだ。けれども、足を止めざるを得なかった。
アニッチャが紡いだ言葉は、オレの書いた詩の一節に間違いない。それはまさしく、『お前の詩を人質に取ったぞ』という宣告に他ならなかった。
「な、何で……」
「轟潤一さんですね。お初にお目にかかります。私はアニッチャと申します」
振り向くことができないオレの代わりに、アニッチャがゆっくりと回り込んでくる。肩で息をするオレの横に立ったアニッチャから、鉄の匂いが漂ってきた。
「轟さんのライブ、欠かさず拝見しています」
その匂いに、予想だにしなかった言葉が混じる。
詩の次はオレの居場所さえも人質に取ったぞという、アニッチャの脅しの言葉が。
呼吸を忘れた喉になんとか空気を入れ、硬直した体をどうにかほぐし、彼女の方へと向き直る。アニッチャは相変わらずの仏頂面でオレを見上げていた。そして、この異世界染みた空間と外界とを隔てる扉に、小さな体を預けている。
扉は開けさせない、外へは逃がさない――小さな体に似つかわしくない大きな意思が、そこにはあった。
「轟さん。我々はかねてより、数多の前徒への影響力を持った貴方に注目していたのです。そして貴方も、前徒である。まさしく、来徒教団の求める人材です。ぜひ轟さんにも、来徒教団の革命に力添えをお願いしたく」
革命。日常生活ではまず使われないその言葉を聞いて、オレの背筋に悪寒が走る。
革命とはつまり、被支配者階級が支配階級を打ち倒すことだ。来徒教団は、前世主義の支配するこの世界に、何らかの変革を起こそうと企てているのだろうか。
何を馬鹿なことを、と思いながらも、オレの視線はアニッチャの頬と衣服へと向かっていた。
「ああ、これですか」
革命には、必ず流血が伴う。
支配層の人間たちの血でもって、社会の仕組みや思想が洗い流されるのだ。
彼女の衣服には、洗い流しても落ちないほどの血がついていた。
「
「アニッチャ」
「すみません。言葉が悪かったですね」
アニッチャの言葉を遮って、アナートマンが彼女をたしなめる。
「私は丁度、ある人物の
アニッチャの言葉は、どこか遠い。現実感の薄い彼女の言動は、まるで映画か小説の台詞のように聞こえてしまう。それを聞いている内に、オレはバンド仲間の言葉を思い出していた。
『近頃ちょいと有名な、危ないカルト集団だよ。人類を前世の呪縛から解放するだの言って、結構過激なこともやってるって噂』
人類を前世の呪縛から解放するために来徒教団が行っている過激なこととは、前世主義者の粛清、つまり殺しであった。革命の名を掲げ、殺人を正当化しているのだ。
それを理解した途端、オレの心の中を埋め尽くしていた恐怖という感情が、別のものへと変化していく。
「前世では政治家であったというその男も、前世の記憶に囚われた者と言えます。つまり、貴方と同じ前徒なのです。我々は前徒を導く者。だから離来徒をした。彼の魂はきっと、汚れなき来世へと――」
「……いい加減にしろ」
それは、怒りだ。
人はあまりの恐怖に支配されると、思いもよらぬ行動に出るという。今のオレは、まさしくそうだった。
「いい加減にしろ!」
オレがアナートマンの誘いに乗ってここまで来たのは、彼の言葉にこの世界を憂う気持ちを感じ、来徒教団が狂人の集まりでないという確信を抱いたからだ。彼の真意を、教団の真意を知りたいと感じたからだ。
だがどうだ。蓋を開けてみれば、やはり碌でもない連中の集まりではないか。自らの思想に違う思想の者を抹消する――それは、こいつらが忌み嫌う前世主義の連中の行動と変わりない。
その事実が、オレをひどく落胆させる。
逆らえば殺されるかもしれない。だがオレの心は既に怒りで満ちていて、叫ばずにはいられなかった。
「前徒、前徒、前徒ってよ! お前らにオレの何がわかる!? 前世の鎖に囚われているだと? そうだよ、その通りだよ。前世の記憶とちぐはぐな現世の体に、オレがどれだけ苦しんできたか! お前らにわかるか!?」
連中はオレを、前徒と呼んだ。
そして粛清された前世主義者も、前徒と呼んでいた。
そんな奴らに、オレを理解できるはずがない。そんな奴らがオレを理解してくれていると、少しでも考えたことが悔しくて仕方がない。
「轟さん。落ち着いてください」
「ああ、どうしたのですか轟さん。アニッチャ、貴方が何もかもお伝えするから」
「……すみません」
教団の代表はオレを宥め、幹部の男はもう一人の幹部を諫めている。そのやり取りの中で、どのような言葉が交わされていたかなんて、今のオレにはもうどうでもいい。
「おいお前ら。オレの前世、知りたいか。知りたきゃ教えてやる」
もうどうにでもなれ。
どうせこいつらには、オレの気持ちを理解することなんてできやしない。どうせこいつらには、オレを救うことなんてできやしない。
二十年もの間、ずっと心の奥底に沈めてきた記憶と感情。
それが今、解き放たれようとしていた。
「オレの前世はな、
誰にも話したことのない、自らの前世。
その当時の名を、口にした。
「普通の女と同じように、普通に男を愛した。普通に家庭を築き、普通に娘を生んで、普通に母となった。女として生き、女として死んだ」
前世のオレは、なんてことはないただの一般人だった。大罪を犯したわけでも、名誉なことを成し遂げたわけでもない。現世まで引きずるような後悔も、現世まで称えられるような栄光も、オレにはない。
ただ、現世の性と前世の性が一致しない、それだけだ。
人は死ぬと、その記憶を引き継いで生まれ変わる。
それは転生だとか輪廻だとか色々な呼び方があるが、まあどうでもよいことだ。
そして生まれ変わる先は、大概が同じ地域となる。そんな風にして、各国の人口はある程度一定に保たれている。
この国で死んだ人間が隣国なんかで生まれ変わる程度のことはあるが、地球の裏側で生まれ変わることはほとんどない。稀に存在するらしいが、そういう類の人間は、前世の記憶を活かして翻訳家や通訳になったりするらしい。
それと同じように性別も、前世と現世でほとんど一致する。世界の男女比が大きく変動しないのも、そのためだ。
「でも今のオレは見て通りの男だ。女に欲情して、女を抱く。けれどオレには、女として生き、男を愛し、男に抱かれた記憶が確かにある。どうしてもな、その記憶がちらつくんだよ。記憶と体が、ちぐはぐなんだよ」
だがやはり、前世と現世の性が一致しない人間も、稀に存在する。
しかしこれは国籍と違って、生かすことも殺すことも叶わない。心と体の性は一致しているというのに、記憶が一致しないのだ。何をするにも何を考えるにも、前世の記憶が邪魔をする。
「その記憶を、現世の体が受け付けない。現実から逃げるように、前世の記憶を掻き消すように、何人もの女を抱いたよ。だけどな、どれだけ男として生きても、どれだけ女を抱いても、前世の記憶は消えちゃくれない! 前世の記憶と現世の感情はうざったいくらいに相反していて、息苦しくてたまらない!」」
桂小百合という前世の記憶を持つ、轟潤一。
オレもまた、前世の記憶と現世の感情との乖離に苦しんでいた。
来徒教団曰く、前世の呪縛から解き放たれるには、
そんな感情は行き場を失い、口から這い出てきて、やがて慟哭となる。
「前世に苦しむ人間――お前らの言葉じゃ前徒って言うんだったか。だったら、前徒のオレを導いてみろよ! 前徒を導くのがお前らの使命なんだろ!? 現世のオレを、ありのままの男として生きさせてみせろよ! それができないなら、前世主義者と同じように殺してみせるか!? 答えろ! 来徒教団!」
来徒教団へ抱いていた、底知れぬ恐怖。やがてそれは怒りとなった。そして今、その感情はどのような姿をしているのだろう。
それはもう、オレにもわからない。
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