3-3. 天城至

 学校までの足取りは、ひどく重い。


 それはなにも、先日は門限を過ぎたせいで施設の職員からしこたま怒られたからだとか、通学路の坂道が相変わらずキツいからだとか、そういう理由では決してない。


「よっ。おはよう天城」


 前世の記憶に縛られた人間、前徒。

 前徒を前世の呪縛から解き放つ手段、離来徒リライト

 すべての人類を離来徒する計画、来夢来徒ライムライト


 先日の夜にアナートマンから聞かされた話は、僕の理解を遥かに超えていた。あまりにも常軌を逸していて、あまりにも無謀で、あまりにも狂気に満ちている。とんでもなく危険な集団であることは理解していたつもりだが、ここまでだとは思いもしなかった。


『前世の記憶に依存した社会構造、我々はそれを壊さねばなりません。そのためには、哀れな前徒であり理想的な来徒でもある天城さんの力が必要です。それだけは覚えておいてください。それでは、また近いうちに』


 アナートマンの去り際の台詞が、未だ耳にこびりついて離れない。


 来徒教団は僕を求めている。理想の実現のためならば人類を一度殺しつくすのも厭わない連中だ、そうそう諦めることはないだろう。そして何より、奴らの恨みを買ってしまったらどうしようという恐怖が、警察へ行く気持ちを失わせた。


 そういった諸々のことを考える度に、足取りはさらに重くなっていく。


「あぁ、まぁ、ぎぃ」


 だが来徒教団との邂逅は、僕に前世について考えさせる機会にもなった。


 前世の記憶がない僕の存在は来徒教団の理想であると、アナートマンは言っていた。僕を苦しめている原因、それを奴が称えたものだから、柄にもなく怒りを露わにしたのを覚えている。


 仮に、僕が前世の記憶を取り戻したならば、彼らにとって僕はどのような存在になるのだろうか。だがしかし、親にも教育機関にも見捨てられたほどの前世だ。取り戻したとて、何か意味があるのだろうか。


 そしてその意味を、来徒教団は見出すのだろうか。


「――無視すんなオラァ!」

「うわあ!」


 思案に耽っていたその時、首根っこを掴まれて、そのまま大きく揺さぶられた。あまりに突然のことに、素っ頓狂な声を上げてしまう。


 暫く首元を掴まれながら体を揺さぶれた後、ようやく何者かの手が喉元から離れていく。息苦しさから解放され、目一杯に息を吸うと、思わず咳き込んでしまった。


「お、音無」

「この野郎、天城ィ。散々無視してくれちゃってさあ」


 振り返るとそこには、ひどく不機嫌そうな顔をした音無が腕を組んで立っていた。苛立ちを地面に刻むよう、彼女の履いているローファーがアスファルトを叩く。その度に、膝上までたくし上げられたミニスカートがひらひらと揺れる。彼女の虫の居所よりも、どうしてもそちらに意識がいってしまう。


「ごめん。全然気が付かなかった」

「どうしちゃったのさ。朝からぼけっとしちゃって」

「いやまあ、ちょっと、ね」

「ふうん」


 昨日の出来事を話すことも、スカートから覗く君の足を見ていたんだと言うこともできず、僕は言葉を濁す。そんな僕の心情を知ってか知らずか、音無も曖昧でふんわりとした返事をしてみせた。


 来徒教団のこと、アナートマンのこと、そのどちらも口に出すことはできない。あの犯罪集団と関わりを持ったなど、どうして第三者に言えようか。それに、来徒教団は僕を狙っているのだ。もしかすると、彼女を巻き込んでしまうかもしれない。僕にとっては、それが一番恐ろしい。


「スケベな天城のことだから? 夜な夜な何か変なことでもしてたのかな?」

「いやまあ、ちょっと、ね」

「……ほんとどうしちゃったのさ」


 音無は嫌らしい笑みを浮かべたかと思えば一転、心配そうな表情を浮かべ、僕を覗き込んでくる。いつものように、くだらない駄洒落が僕から聞けると思っていたのだろう。だが僕には、そんなことを考える余裕も、語る余裕もありはしなかった。


 自らの前世を取り戻したい。

 そう思わない日はこれまでなかったが、先日の一件からその願望はより強くなってきている。


 少し目線を上げれば、僕たちの通う学校が見える。

 少し目線を下げて振り返れば、僕の帰る施設がある。


 それらはどちらも、前世という鎖が僕を導いた結果である。だがその鎖は、目に見えない。その鎖の形は、わからない。僕にはそれがたまらなく気持ち悪い。


「ねえ音無」

「ん?」


 前世のことについて考えている内に、ふと隣を歩く彼女が気になった。彼女もまた、僕と同じ学校――世間に拒絶された前世を持つ学生の通う高校に通っている。


『そんな所に通ってる時点で、天城の前世も碌なもんじゃないのさ。あたしの前世が碌でもないようにね』


 音無は確かに、そう言っていた。

 では彼女の前世は、彼女の現世に繋がれた鎖は、どんな形をしているのだろう。


「音無の前世って……」


 そこまで言って、はっと息を呑む。


 僕は今、音無に何を聞こうとしていたのか。碌でもないと彼女自身が自称していた前世について尋ねるだなんて、どうかしている。彼女にとってそれはきっと、踏み入れられたくない領域に決まっているのに。


「いや、ごめん。なんでもない、忘れて」


 口にしてしまった以上、それを取り消すことはできない。

 僕にできることは、誤魔化し、謝罪を述べることだけだ。


 心ここにあらずといった様子であった先ほどとは一転、僕は慌てふためきながら音無の様子を窺う。


 喜怒哀楽や感情の起伏、そういったものが表情にすぐ現れる彼女だが、今は何を考えているかわからない。眉一つ動かさず、じぃっとこちらを見つめている。それは観察するようであり、品定めをするようでもあり、失望しているようにも見えた。 


「ねえ、天城」


 微塵も表情を崩すことなく、音無は口を開く。


 口以外の箇所は一切の動きを見せず、その様子はまるでからくり人形のようであった。そこにはいつもの感情豊かな彼女の片鱗はなく、僕は思わず恐怖してしまう。


 だがそれも束の間、音無の口角はにぃっと上がり、大きな瞳は瞼によって隠された。



「今日は授業、サボろっか」



 彼女の口元から紡がれる言葉は、いつものようにいたずらっぽくて、その声色にはいつもとは違う暖かさがあった。



 ◆



 本格的に秋が到来したとはいえ、じんわりと汗が滲むような暑さが残る日は多い。今日がまさにそうで、南中を間近に控えた太陽は確実に僕の肌を焼く。夏の名残がある日差しで熱を帯びた僕の肌に、温い風が吹きつける。

 

「秋だってのにまだまだ空気が温いなあ」


 僕たちはあの後、踵を返して坂を下り、街の中心部を目指した。


 特に行くあてもなかった僕たちは、何も言葉を交わすこともなく、このカフェへと踏み入った。そして、「なんかお洒落じゃん」という音無の鶴の一声で、今はテラス席へ腰を降ろしている。


 平日の昼間、学校の制服に身を包んだまま堂々と周囲にその姿を晒しているのだが、それを咎める者はいない。高校とは反対方面のバスに乗った際も、やたらじろじろと見られたが、僕たちに近づく者はやはりいなかった。


 それはやはり、あの学校に良い評判がないからに違いない。世間から爪弾きにされるような前世を持つ学生たちが通う学校だ、できるだけ関わりたくもないのだろう。初めて、あそこの生徒でよかったと思えたかもしれない。


 席についてからというものの、僕と音無の間にこれといった会話はなかった。大通りの喧騒と、秋の空気だけが僕らを取り巻いている。僕たちの席にアイスコーヒーが二つ運ばれてからも、それは変わらなかった。


「あたしの前世ねえ」


 溶け始めた氷がコーヒーの中へ沈む音がしたのと同時、音無はゆっくりと口を開いた。普段とは違う、どこか哀愁を含んだ彼女の表情に、少し緊張してしまう。


「ま、あの学校に通ってる時点でご察しかもしれないけど、碌な前世じゃなかったよ」


 自嘲気味に笑いながら、音無はようやくコップを手に取って口に付ける。僕は何も言えないでいたが、彼女と同じようにコーヒーを少し啜ってみた。


「両手じゃ数えきれないくらいの数、異性と関係を持ってさ。両手じゃ数えきれないくらいの数、異性を弄んでは捨てて。とんでもない尻軽だったわけよ。んで、最後にはとんでもない悪党と関係を持っちゃって、終いにゃ犯罪に手を染めて。その報いを受けて殺されちゃった、てな具合」


 音無は、予想以上に乱れていた前世を、予想以上に淡々とした声で語る。その声色には感情は込められていなく、日記を読み上げるかのような淡白さが際立っていた。


 前世の記憶なんて邪魔なだけだと、音無は言っていた。

 彼女にとって前世とは、どうでもよいものなのかもしれない。


 犯罪に手を染めて殺された前世の記憶がある。だが、あるだけだ。それがどうして現世に関係があろうか。彼女の声色からは、そんな意思が汲み取れた。


「ごめん」

「いいよ。というか、なんで天城が謝るのさ」


 だからこそ僕は、申し訳なさで一杯になった。


 音無は、前世は前世、現世は現世として割り切っている。それなのに、前世の記憶をほじくり返すような真似をした。僕が前世の記憶を失っていることに悩んでいるのと同様、彼女は前世の記憶があることに悩んでいたはずだというのに。


「誘われたら断らない性質で、流されやすい体質だったのよ」

「そ、そうなんだ」

「ん? なんかやらしいこと想像したな、天城ィ。まあさ、今のあたしはヴァージンだから。安心しなよ」

「安心って、何にさ」


 きっと僕は、ばつの悪い表情を浮かべていたのだろう。


 それを気にしたのか、音無はいつもよりもいたずらっぽく笑って、いつもよりも少々過激に僕をからかってみせた。彼女の優しさは、今は嬉しくもあり、苦々しくもある。


「で、どうしたの? 前世の記憶、思い出したくなった?」


 僕たちの間にいつもの空気感が戻ってきたところで、音無はそう切り出した。その声色は、先ほどよりも心なしか低く重い。


「天城。昨日も言ったけど、前世の記憶なんて邪魔なだけだよ。天城至って人生は、天城だけのもんだ。前世の記憶を取り戻してどうするのさ? 大事なのは現世だよ、天城。あたしは、天城至って人間を気に入ってるんだ。前世がどうとか関係なく、ね」


 頬杖をつきながらストローを咥える音無の横顔は、ひどく冷めている。自分のアドバイスを僕が聞き入れようとしないのが面白くないのか、それとも僕の前世なんて心底どうでもいいのか、その心情を量ることは叶わない。


「うん。やっぱり僕は、前世の記憶が欲しい。それが僕を苦しめるとしても、納得のできない苦しさよりは幾分かマシだと思うんだ」


 それでも僕は、音無にそう伝えた。

 彼女の凄惨な前世を聞いてもなお――いやむしろ聞いたからこそ、その思いは強くなった。


 前世について知った上で、それを割り切らなくてはならないと感じたのだ。理解をし、納得をし、切り捨てて、初めて僕は『前世を乗り越えた』と言えるだろう。


 音無と同じように、僕は前世を乗り越えたい。

 前世の記憶がない今は、単に逃げているのと変わりないのだ。


「あたしがここまで言っても?」

「言っても」

「はあ……」


 自分の説得が意味を為さないと悟ったのか、音無は深い溜息をつく。それはコップの中に僅かに残ったコーヒーの表面を揺らし、すっかりと小さくなった氷を泳がせた。



「……じゃあまずはさ、十年前の事故について調べてみたら? 天城、詳しく知らないんでしょ、そこんところ」



 吐き捨てるように、投げやるように、音無はそう助言してくれた。

 なんだかんだと言いながら僕を支えてくれる彼女に、犯罪者であったという前世の面影は、これっぽちも見当たらない。

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