5-3. 天城至

 空は憎らしいほどに青く、駅前はうんざりするほど騒がしい。

 日曜日の昼前ということもあってか人の往来も激しく、数え切れないほどの人間が僕の目の前を横切っていく。


「おはよう天城。待った?」


 その煩わしさの中でも、音無の笑顔は輝いて見えた。


「え、ああ、うん。十五分くらいね」

「天城ィ。そこはさ、『僕も今来たところだよ』って爽やかに言うのがお約束じゃんか」


 いつもと同じように嫌らしい笑みを浮かべる音無は、いつもと違って見える。芋臭いセーラー服ではなく、タイトなパンツルック姿をしているからだろうか。どこか大人びているように感じられた。


「そんなんじゃ今日のデート、先が思いやられるなあ」


 デートをしよう――音無からそう言われたのは、先日のことだ。

 

 脈略のなさすぎる提案に僕はひどく困惑したが、彼女の澄んだ瞳を見ているうちにいつの間にか首を縦に振っていた。


「まずは隣の市にある水族館に行こう。あそこはイルカのショーが有名でさあ」


 そして、あれよあれよとデートの日取りや行き場所が決まり、こうして当日を迎えたのである。

 

「天城ィ、聞いてる?」

「え、ああ、うん。楽しみだね、アシカショー」

「イルカだよ」


 駅前で音無を待っていた時も、改札を抜けてホームで電車を待っていた時も、こうして肩を並べて電車の座席に腰かけている今も、僕は気が気でない。


 もちろん、彼女の意図がまるでわからないという理由もある。だがそれ以上に、『デート』という行為自体に戸惑ってしまっていた。恋人はおろか、音無以外の友人すらいない僕にとって、それはあまりに未知すぎる代物だ。変に意識してしまって、思考が上手くまとまらないでいる。


「なに、緊張してんの? 意外と初心なところあるじゃん。二人でどっか行くなんて初めてじゃないのにさ」


 音無が言うように、彼女と二人で出かけるのはこれが初めてではない。けれどもそれは、放課後であったり学校をサボったりする程度で、こうして休日に待ち合わせるのは初めてだ。それも、『デート』だなんて名目で。


 そういった心情も相まってか、音無の初めて見る私服姿が目に焼き付いてしまう。彼女を綺麗だとか可愛いだとか思ったことは幾度となくあるが、今日はそれがより一層際立っているように感じられた。



「ま、あんま意識せずに今日は楽しもうよ……って言っても無理かな。この様子じゃ」



 そう言って笑う音無の笑顔も、いつもより眩しく見える。

 その笑顔が僕を、余計にどぎまぎとさせるのだった。



 ◆



「天城、天城。見てこの魚、面白い顔してるよ」


 水族館に着いて、ようやく僕の緊張は和らいでいった。保護者に手を引かれる園児や小学生と同じくらいにはしゃぎ回る音無を見ているうちに、なんだか気分も落ち着いてきたのだ。


「この魚の顔、なんだか天城に似てる」

「なんて魚?」

「デメニギス」

「その意見は

「……35点」


 音無がはしゃぎ、僕が横槍を入れる。

 それは、いつも僕らが学校でしているやり取りに他ならなかった。


 勝手に僕が浮ついていただけなのだが、ようやくいつもの二人に戻れたような気がして、どこか安心してしまう。


「クマノミだ。可愛いなあ」

「小さいね。大きい魚に、って感じ」

「20点」

「採点厳しくない?」


 この関係性が、たまらなく心地よい。

 男と女、夢と現実、前世と現世――そんな一切合切を忘れ、くだらないことで笑いあえることがどれだけ尊いことか。


 僕はあれこれと勘繰りすぎた。音無がこうして僕を誘ってくれたのも、失った前世について悩む僕を心配してくれただけなのかもしれない。


「天城、そろそろイルカショーの時間だ。席が埋まる前に行こう」


 そんなことを考えていると、音無は僕の手をむんずと掴んだ。


 彼女の少し汗ばんだ柔らかな肌の感触が、掌から伝ってくる。僕のとは違う、女子の感触だ。いつもと違う風貌の音無、いつもと違う風景、そして女子の感触――それらが絶妙に絡み合って、僕の心臓を鷲掴みにした。


「天城ィ、何やってんの。ほら行くよ」


 けれども、音無の笑顔を見ていると、なんだかすべてがどうでもよくなってくる。僕も精一杯に苦笑いを浮かべて、彼女の手を握り返した。



「皆さんこんにちは! イルカショーへようこそ!」


 イルカショーの会場に着いてから十分ほど経つと、舞台上にやってきた女性の声とともに水槽から一匹のイルカが姿を現した。女性が手を振り上げると同時、イルカが飛び跳ねる。着水の際に大きな水しぶきがあがり、客席は歓声と拍手に包まれた。


「今、元気いっぱいな挨拶をしてくれたのは、バンドウイルカのエージくんです! 今日のショーは、お姉さんとエージくんの二人で行いますので、どうか最後までよろしくお願いします!」


 調教師の女性が頭を下げると、水面から顔を出していたエージ君もコクリと頭を動かしてみせた。会場が拍手に包まれる最中、横目でちらりと音無を見る。彼女も、目を細めながら楽しそうに手を叩いているのが確認できた。



「お姉さんは、前世でもイルカの調教師をしていたほどのイルカ好き! そんなイルカ大好きお姉さんとエージくんの、息ぴったりのパフォーマンスをお楽しみください!」



 会場は再び拍手と歓声に包まれ、熱気を帯びていく。

 その中で、僕だけが微動だにしないでいた。


 忘れかけていた前世への渇望が、ふと呼び起こされたのだ。


 前世でもイルカの調教師をしていたと、あの女性は確かに言った。きっと前世でも、イルカを愛していたのだろう。その記憶が縁となって、現世でも同じ道を歩んでいる。イルカを愛した記憶が、今でもイルカを愛する原動力となっているのだ。


 前世の記憶が、現世での感情に繋がる。

 この世界では、珍しいことではない。むしろ自然なことであると言えよう。


 では、前世の記憶がない僕は、何を愛せばいいのだろう。

 何も愛せなかった現世の記憶を引き継いで、来世の僕は何を愛せるというのだろう。


「天城」


 音無が僕を呼ぶ声に、はっと気づく。

 辺りを見回すと、既に舞台上に誰もいないばかりか、観客席に座っているのも僕たち二人だけとなっていた。僕は随分と長い間、呆けていたようだ。


「ご、ごめ――」

「次、行こうか」


 けれども音無は、何も言わない。

 ゆっくりと立ち上がり、いつもとは違う柔らかな笑顔で僕に手を差し伸べてくれた。


「……うん」


 ありがとう、ごめんなさい。そんな言葉がどうしても出てこないまま、音無の手を握った。


 彼女の手は、やはり温かい。



 ◆



 あれから僕たちは水族館を出て、色んな場所を訪れた。

 パフェが絶品だというカフェで一服したり、街を歩きながらウインドウショッピングをしてみたり、ゲームセンターでゾンビを倒したり、本当に色々だ。


「いやあ、前評判の割に微妙な映画だったねえ。天城はどうだった?」


 今話題だという映画を見終えて外に出ると、辺りはもう真っ暗となっていて、昼間の暖かさが嘘のように肌寒くなっていた。時計を見ると、午後七時ちょうどを指している。


 思えば、今回のデートは音無に頼りっきりだった。

 音無の言うまま、彼女が手を引くまま、色んな場所を巡った記憶しかない。

 

「話があんまり頭に入ってこなかったかな、あはは……」

「そうかい」


 音無に頼りっきりだったというのは、行き場所に限った話ではない。

 

 イルカショーの一件から、僕の頭の中はすっかりと前世に関することで埋め尽くされてしまった。それからというもの、ずっと呆けたままだ。何を言われても上の空、どこへ行っても無反応、といった具合に。


 そんな僕に音無は何も言わず、優しく微笑んで手を差し伸べてくれた。


「……音無。今日は本当にごめん。もう遅いし――」

「ねえ天城。最後に行きたいところがあるんだけど、付き合ってよ」


 そして今も、僕に手を差し伸べてくれている。

 そろそろ解散にしようと言おうとしたのを遮って、音無は僕の手を取る。それはこれまでと違って、有無を言わせない力強さがあった。


「え、えっと」

「ほら行くよ。そら行くよ。さあ急いだ急いだ」


 困惑する僕なんてお構いなしに、音無は歩き出す。僕は半ば引きずられるようなかたちとなって、彼女に続く。音無の意図はわからないが、こうなっては仕方がない。


 音無と肩を並べ、手を繋いで歩く。

 その状況に少々緊張しないでもなかったが、とにかく僕たちは多くを語らず、ただひたすらに歩き続けた。


 音無が言うままに歩き続けて、三十分くらい経っただろうか。街の中心から離れていくにつれて、街灯と人の往来は少なくっていく。気づけば僕たちは、街の中心から外れた高台にある公園にいた。


「天城、こっちこっち」


 公園の入り口をくぐった途端、音無は僕の手を放して駆け出していく。彼女は公園の端にある見晴台のような場所で足を止め、僕を手招いた。道中の坂でだいぶ息の上がってしまった僕はなんとか息を整え、音無の下へと急ぐ。


「ほらほら。見て見て」


 はしゃぐ音無に促されるまま、見晴台から眼下を一瞥する。そこからは、先ほどまで僕たちのいた場所が一望できた。街の中心部と思われるところに光が集まっていて、時折それが揺らめいている。


 その遥か上空には数多の星々が散らばっている。

 無限に広がる夜の闇を、人工の光と天然の光が挟み込んでいた。


「これは……」

「どうよ。百万ドルの夜景、とまでは言わないけどさ。一万ドルくらいの価値はあるんじゃない?」


 その光景に目を奪われていると、隣から音無の声がした。

 彼女はいたずらっぽく笑い、僕の額を小突く。なるほど、彼女はこれが見せたいがため、僕をここまで連れてきたのだ。


「ねえ、天城」


 肩が触れ合いそうなほどの距離で、音無は僕の名を呼ぶ。彼女の口から洩れた息が僕の耳をくすぐって、思わず息が詰まりそうになってしまった。


「今日のデート、どうだった?」


 僕のそんな心情を知ってか知らずか、音無は僕の肩に頭を預けてくる。二人きり、夜の公園、一万ドルの夜景。それらの状況は、僕の心臓を跳ねさせるのに十分すぎるものであった。


 音無の体温が、肩から伝わってくる。

 彼女の息遣いが、耳を澄まさなくとも聞こえてくる。


 僕はどうしていいかわからず、ただ狼狽えることしかできないでいた。


「実はね。今日行ったデートスポットはさ、どこも私が前世で行ったことのあるところだったんだ。言ったでしょ? あたし、前世では異性をたぶらかしまくってたって」


 そして、音無の言葉はさらに僕を狼狽えさせる。

 確かに彼女は、異性をとっかえひっかえ弄んで、遂には犯罪に手を染めて死んだ前世の記憶があると言っていた。


 今日僕と巡った場所は、そんな前世で他の男と巡った場所であるという。彼女がそうした理由も、それを僕に伝える理由もわからない。そして何よりも、それを聞いて傷ついている自分自身の心情が理解できなかった。


「あたしは今日のデート、すごい楽しかった。それはさ、前世でも行ったことあるだとか、前世で経験したデートと比べてだとか、そういうんじゃなくて。天城と一緒にデートができたから楽しかったんだ」


 だがしかしそんな感情も、音無の言葉が溶かしていく。彼女はゆっくりと僕の背中に手を回し、肩だけでなく体のすべてを僕へと預けてきた。



「前世の行いも、前世の記憶も、関係ない。音無澄佳っていう人間は、天城至っていう人間が好きなんだよ。この感情は、現世のあたしだけのもんだ」



 音無の体温と言葉が、じわりと僕の体に染み入ってくる。

 現世の僕が好きだという彼女の告白が、僕を縛る『前世の記憶』という鎖を解いていく。


 僕はこれまで、あれこれと難しく考えすぎていたのかもしれない。前世の記憶が縁となった愛があるならば、現世の記憶が縁になった愛もある。そんな単純なことに、どうして今まで気づかなかったのか。


「音無、ごめん」


 そう言いながら、僕はゆっくりと音無を抱きしめ返した。


「僕は前世の記憶に囚われすぎていたのかもしれない。大事なのは現世だって、ずっと音無は言ってくれていたのに。音無を大切に思う気持ちは現世の僕だけのもので、それ以外は僕にない」


 僕の胸に埋まった彼女の頭を右腕で撫で、左腕は彼女の背へ回す。音無の体は、すっぽりと僕の中へと収まってしまった。



「僕も君が好きだ、音無。この感情は、現世の僕だけのものだ」



 そう言って僕は、ゆっくりと、音無の唇に自らの唇を重ね合わせる。


 彼女との、初めてのキス。

 それを大切に思う気持ちも、音無を好きだという気持ちも、現世だけのものに違いなかった。

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