五.逃走(三)

 翌日、精神科の医師が診察に訪れ、型通りの問診ののち、明日の午前中に退院を許可すると告げた。

「警察の人が来てるから、このあと病室に来てもらうね」

 若い男性医師が立ち去るのとほとんど入れ替わりに、刑事が二人、病室に入ってきた。

「仮カードとタブレットを返却する。タブレットは傍受されていることを承知しておいてほしい」

「はい」

「どこかに出かけるときはこちらに連絡するように。また聞きたいことが出てくるかもしれないからな」

「わかりました」

 そして翌日、ハルトは二週間ぶりに病棟を出た。ずっと狭い部屋にいたので、空間の広さに身体が戸惑うのか、まっすぐに歩くのが難しかった。病院の玄関前で取材中のマスコミの横を通り過ぎ、LRTとレールウェイを乗り継いで農場地区に戻る。ササヤマ農場では、タカシが苗床を入れ替えている最中で、ハルトに気づいて笑顔を見せた。

「やあ、お帰り」

「ご迷惑をおかけして、すみませんでした」

「なんの、ハルトのせいじゃない」

「面倒なことがあったのではないでしょうか」

「警察がいろいろ聞いていったが、まあそれ以外は大したことないよ」

 ほっとして、ハルトはそのまま防水エプロンをつけてタカシの作業を手伝い始めた。発芽したレタスを棚からおろし、播種はしゅを終えた新しい苗床を棚に移していると、入口が開いて、ぱたぱたと走ってくる足音が聞こえた。

「ハルト!」

 ナツミが、泣きながらしがみついてきた。

「よかった。ハルト」

 苗床をナツミの頭上に落としそうになったハルトは、あわてて苗床を棚に戻した。

「心配かけて、ごめんね」

 ハルトが言うと、ナツミはしがみついたまま首を振った。

「ハルトは悪くない」

 細い華奢な身体が、いつの間にか少女のかたちに変化していることに気づいたハルトは、両手の置き場に困っておたおたと宙を掻いた。

「大丈夫だよ。何もなく帰ってこられたんだから、大丈夫」

 ハルトがなだめても、ナツミはなかなか泣き止まない。

「あたし、ハルトの味方だからね。絶対ぜったい味方だからね」

 普段明るいナツミがあまりに泣くので、ハルトは不安になった。

「何か、ナツミちゃんも嫌なことを言われたりしたの」

「刑事さんが来たの」

 ようやく身体を離したナツミが、しゃくりあげながら言った。

「なにかハルトが悪いことをしてたんじゃないか、って。そんなことしてないって言っても、どこから来たのかわからない人だから、気をつけなさい、って」

 ナツミの頬を、ふたたび涙が伝う。

「ハルトは、なにも悪くないのに」

「ナツミ、仕事の邪魔をしないの」

 あとを追って農場に入ってきたアカリが、ナツミをなだめた。

「お帰りなさい、無事でよかったわ」

 アカリの笑顔に、ハルトはようやく少しほっとした。

「ご迷惑をおかけしました。なにか面倒なことがあったんじゃないですか」

 不安そうに尋ねたハルトに、アカリが首を振った。

「大丈夫よ。刑事さんは、ハルトがここに来た経緯や、普段どうやって過ごしてるかを聞いて行っただけ」

「そうですか」

「ナツミは、ちょっとびっくりしたみたい。急にハルトが連れて行かれたり、警察の人が来たりしたから」

 そうか、とハルトはしゃくり上げるナツミをみおろした。

「ほんとに、ごめんね」

「ハルトは、悪くない」

 ようやく泣き止んだナツミが、涙を拭いてハルトを見上げた。

「あたし、味方だからね」

「うん、ありがとう」


 その日一日、ナツミはハルトの傍を離れようとしなかった。夕方、アカリに促されてようやくナツミが家に戻るころ、ハルトのほうは、二週間ぶりの肉体労働の疲労感でいっぱいだった。潅水と出荷を終えると、たちまち夕刻となる。くたくたの身体を叱りつけるようにして外に出ると、薄暗い夕刻の陰影の中、温かい雨が降っていた。この世界で季節を感じさせるのは、雨。病院に閉じ込められている間に、季節はいつしか春から初夏に移りつつあった。

 農場に鍵をかけてアパートに戻ろうと薄暮の庭を歩いていると、二人の人影が近づいてきて、

「カンナヅキさん?」

 と声をかけてきた。

「はい」

「少しお話しを伺いたいんですが」

 いきなり照明がともる。ハルトは眩しさに目がくらみ、手で顔を覆った。

「あなた、記憶喪失だそうですが、本当ですか」

「えっ」

「記憶をなくしたふりをして、タサキ博士に協力しているんじゃないですか」

 ハルトは、何が何だかわからない。黙っていると、

「何とか言ったらどうだ」

 相手の口調が乱暴になってきた。

「あなたは、どなたですか」

「報道局の取材班ですよ」

「僕の情報を、どこから聞いたんですか」

「そんなことは、どうだっていいだろう」

 ハルトの胸に、怒りがわきあがった。こんな扱いをされる筋合いはどう考えてもない。怒鳴りつけたいのを我慢して、ハルトは無言でアパートに向かう。

「あんた、本当は記憶があるんだろう、やましいから何も言えないんだろう」

 男はなおも話しかけてくるが、ハルトは一切口をきかないと決めた。アパートに入り、ドアを閉めようとすると、男がドアに足を挟んで閉められないようにした。

もう限界だ。

 ハルトはポケットのタブレットを取り出し、警察に通じる非常コールのボタンを押した。警察が味方になってくれるかどうかはわからないが、相手への威嚇にはなるだろう。

「はい、こちら警察です。どうしましたか」

「すみません、知らない男が部屋に入ろうとしています」

「ふざけんじゃねえよ」

 男がハルトに向かって怒鳴る声が、通話に入ったらしい。

「すぐに向かいます。第一農場地区、ササヤマ農園の敷地でよろしいですね」

「そうです」

「通話を切らずに、できるだけ安全を確保してください。相手を刺激しないように」

「わかりました」

「話を聞きたいって言ってるだけじゃねぇか」

「おい、やばいって」

 ライトを持ったもう一人の男が、激昂した取材者をなだめ、男はようやくドアから足を引いた。即座にハルトはドアを閉め、鍵をかけた。遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。

「ふざけんなよ。市民の敵が」

 捨て台詞を残して、取材者が立ち去る。車が敷地を出る音と、入る音が交錯し、赤灯が闇の中で明滅する。緊急車両が赤灯をつけるのはこの時代も一緒なんだな、と思いながらハルトがドアを開けると、警官が車両から降りてくるところだった。

「大丈夫ですか」

「おかげさまで、相手はいま立ち去りました。ありがとうございます」

「住民カードを拝見します」

 警察官に言われ、仮カードを差し出す。端末で照合した警官が、ああ、という顔になった。

「さっきのは、取材のひと」

「そう言ってました」

「気の毒だけど、ああいうの増えると思いますよ。態度の悪い奴は、取材者気取りの野次馬かもしれない。しばらく、アパートに出入りする時なんかは気をつけたほうがいいですね。巡回はまめにするし、危険を感じたら今日みたいに呼んでくれればいいから」

 警察官の親切な態度に、ハルトはほっとした。

「ありがとうございます」

 気をつけて、と言って警官が立ち去るとすぐ、隣の部屋のドアが開き、

「ちょっと、静かにしてくれよ。曲が描けないじゃないか」

 作曲家の卵が怒鳴った。

「すみません」

「俺たち大迷惑だよ。ああいうのが毎日来てさ」

「そうなんですね」

「そうなんですねじゃないよ。みんな色々聞かれて困ってるんだ。頼むからどっか行ってくれよ」

 言い捨てて、隣人はバタンと威勢よくドアを閉めた。

 ハルトは、どうしたらいいかわからなくなった。

「カンナヅキさん?」

 暗がりから声をかけられ、反射的にハルトは玄関に飛び込んでドアを閉めた。

「カンナヅキさんですよね、ビデオ配信社の者です。少しお話しを伺いたいのですが」

 応対をせず鍵をかける。外にどれだけの取材陣がいるのかと思うと、灯をつけることもできない。控えめながら、ドアをノックする音は止まない。ふたたび隣のドアが乱暴に開く音がした。

「あんたたち、いい加減にしてくれよ」

 すみません、と言って、訪問者はドアを叩くのをやめたが、立ち去った気配はない。暗がりの中、ハルトはじっと息を殺して外の気配を伺った。

 いったいどこから自分の情報が伝わっているんだろう。公安から記者たちに情報を流しているんだろうか、それとも、公安の動きを細かく追っている取材者がいるんだろうか。

 幸い、それ以上声をかけてくる者はいないようだ。ほっとしたら、疲労感が戻って来た。ハルトは暗がりの中で最低限の身じまいをしてベッドに横になると、空腹を覚える暇もなく眠りの中に落ちていった。


 翌日もまた、アパートを出るなり取材者に声をかけられた。

「カンナヅキさんですよね。記憶喪失と伺いましたが、本当ですか」

 ハルトは一切反応せず農場に行き、鍵を開けると素早く中に入ってドアを閉めた。

「少しは何とか言ったらどうなんだ」

 ドアの外から悪態をつく声がする。

 その後も取材者は次々に現れた。タカシが、普段は明け放したままのゲートを閉じて、敷地への立ち入りを禁止する手書きの看板を設置してくれた。

「すみません」

 恐縮するハルトに、タカシは大丈夫さ、と言った。

「僕がいない間も、こうだったんでしょうか」

 ハルトが尋ねる。

「ナツミちゃんが、すごく不安そうだったのもそのせいかと思って」

「いや」

 タカシは首を振る。

「ハルトがいない間に来たのは刑事さんだけだよ。ナツミは」

 寂しげに首を傾げた。

「母親が死んだときのことを思い出したのかもしれないな」

 ナツミの母は、三年前に病死した。ある日突然吐血して倒れ、病院に運ばれてそれきりだったという。その少し前から疲労感を訴えていたが、肝臓に腫瘍があったことに気づかず過ごしていたらしい。

「急にハルトがいなくなって、怖くなったんだろう。たしかにずっとハルトのことを心配はしていたが、そこまで不安を感じてるようには見えなかったから、昨日は俺も驚いたよ」

「そうでしたか」

「元気そうに見えても、親が突然いなくなるのは堪えるだろうからな」

「それはそうですよね」

 門のほうからがたがたと物音がきこえ、タカシは見回りのため外に出た。ハルトはいつもの作業をしながらも、落ち着かなかった。自分がここにいる限り、取材者は入れかわり立ちかわりやって来る。このままでは、ササヤマ家の人々だけでなく、アパートの住人にも迷惑をかけてしまう。いっそここを離れたほうがいいのかもしれない。

 ——ハルトに、助けてほしい。

 ヤマダ医師の言葉が脳裏によみがえった。

 スーリア党。太陽を地上に取り戻すと言っていた。この空に太陽が輝く。自分に、青空をとり戻す手伝いができるだろうか。もしできるなら、そのほうがいいのだろうか。

 もう少し、ヤマダ医師の話を聞きたい、と、ハルトは思い始めていた。


 終日、立ち入り禁止の張り紙を無視して敷地に入り込む記者が後を絶たなかった。ハルトは作業を終えると、待ち構えていた取材者から逃げるようにアパートへ戻った。灯を点けず、窓からさしこむ街灯の光を頼りにアカリが持たせてくれた夕食を摂ると、ハルトはササヤマ夫妻とナツミにあてて、二通の手紙を書いた。

 夫妻には、しばらく病院に戻ることにしたと書き、仕事を放り出して迷惑をかけてしまうことを詫びた。ナツミには、信じてくれていることに感謝していること、自分はやましいことはしていないことを綴り、最後に、必ず戻るから信じて待っていてほしいと書き添えた。

 どうするのかが正しいのかは、まだわからない。だが、ここでほとぼりが冷めるのを待つ間に自分にできることがあるのなら、それを試してみたかった。


 翌日の早朝、ハルトはこっそりとアパートを出た。雨が強いこともあってか、さいわい周囲に人影はない。

 農場とアパートの鍵、それに二通の手紙を添えてササヤマ家のポストに入れる。そしてハルトはそのままレールウェイの駅に行き、始発のライト行きに乗った。

 ライト駅のカフェで少し時間をつぶし、病院の受付開始時間ちょうどに入れるようLRTに乗る。病院の前をうろうろしている取材陣をそ知らぬ顔でやり過ごし、ドアを入って受付に向かう。住民カードを出して、ハルトは有人窓口で受付係に相談した。

「昨日から頭痛がやまなくて。入院中に検査でお世話になったヤマダ先生の診察をお願いしたいのですが」

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