六.世界のなりたち(四)

 キャラバンは荒れ地を抜け、四日後、カザフスタン行政区に入った。

「ロシア語」

 明け方、シンディの運転する車で地区のゲートを抜けると看板の文字が一変したのを見て、助手席のナユタが声をあげる。

「ナユタは読めるのか?」

「そうよ。この文字を使っていたの」

 へえっ、とシンディが声を上げた。

「すごいな、俺は共用語以外はさっぱりだよ」

 シンディの隣で、ナユタは母国のキリル文字に夢中になり、目につく文字を次から次へ声に出して読んだ。若干言葉が違うが、なんとなく意味はわかる。地名、路肩注意、ナビゲーションシステム確認せよ、路肩に点在する管理標識のちいさなちいさな距離表示すら愛おしい。呼び出し音が鳴って、サラディンがモニターに映った。

「少し南に下るぞ」

「了解」

「コロニーには行かないの」

 モニターを切ったシンディにナユタが尋ねたが、シンディは首を横に振った。

「カザフを出るまでコロニーには行けないな」

「つまんない」

 ウィグル地区を出ると、とたんにキャラバンへの風当たりが強くなる。コロニーの検問も厳しいから、旅人が気安く出入りすることも難しい。慎重に行き先を選ばないと、もめごとに巻き込まれる確率も高くなる。

「キャラバンに安住はないのさ」

 はぁい、とため息をついて、ナユタはシートに細い背中を預けた。サラディンにこの国の歴史を教わってから、ナユタはしばしば故郷の空を思い出す。澄んだ青い空とともに脳裏へ浮かぶのは、いつも夏の風景だった。清々しい草の香りや爽やかな空気の肌触り。わんわんと叢を飛び回る藪蚊たちすら、記憶の中では愛おしい。

 だが今日はひさしぶりに冬の情景が浮かぶ。もう、イルクーツクは雪に覆われているだろう。ペチカの燃えるあたたかな家の窓辺で、しんしんと降りしきる雪を見るのは、いま振り返ると、この上もない幸せだった。ぱちぱちと薪のはぜる音、ビーツを煮る甘酸っぱい香り。

「帰りたいなぁ」

 思わず声に出て、ナユタはしまった、とスカーフを顔に巻き付け、そっとシンディの様子を伺った。シンディはナビの確認に集中している。ほっとすると同時に、いま自分が口にしたのはロシア語と気づいて、ナユタは肩をすくめた。


 足早にカザフスタン地区の南端に添って走った一行は、12月27日にカスピ海の沿岸にあるコロニー、ベイノイの近くに、水の照り返しが少ない丘陵の陰を選んでテントを張った。

 カスピ海の風景を撮りたい、と言ったのは、ユーロ出身のグスタフ。グスタフもロベルト同様BATの写真に憧れて、三年前、行き先もわからないまま家を飛び出し、ひとりウィグル行政区を放浪しながら画廊の代理人を通してサラディンたちへ懇願に懇願を重ね、キャラバンに加わった。グスタフはコロニーや砂漠、山峰などさまざまな情景をコラージュし、独特の作品をつくり上げる。無口で、めったに自分の要求を見せないグスタフの、水辺の風景が欲しい、という希望を容れて、カスピ海への旅となった。

「今年はここで年越しだ。追い出されなければしばらく撮影を楽しむとしよう」

 サラディンの号令で、一行は思い思いに年末の時を過ごした。

「砂漠に比べると温かいな」

「外洋とはまた違う感じがいい」

 オマールたちは、それぞれ好きな時間に撮影に出かけては戻るメンバーの食事や洗濯に追われ、ナユタも忙しくそれを手伝った。


 大晦日の夕刻、サラディンはひとりベイノイの近くの広場で車を停めて、コロニーの検問所を眺めていた。ベイノイはこのあたりでは一番大きいコロニーになる。付近にはちいさなコロニーが点在しており、車の往来も多かった。

 一台の車が検問所を抜けて、広場のほうにやって来る。近づくと、運転席にはグリアン。レンタカーは不器用にUターンすると、サラディンの車の横に停まった。サラディンが手を挙げると、グリアンは車を降りてサラディンの車に乗り込んできた。

「今年もまた珍しい場所を選んでくれたな」

「すまんな。仲間がカスピ海を見たいというので」

「ルートが少なくて苦労したぞ。だが町の往来は多いから目立たなくてよかった」

「苦労をかけてすまん」

 車の中で、二人はタブレットを交換した。グリアンから渡されるタブレットには、一年間の様々な社会情勢などの情報とともに、技術的なアドバイスを乞う手紙や、新しい連絡方法などのデータが入っている。サラディンはその内容を砂漠に隠れ住む技術者に伝え、データを消去して返却する。

 二人はそうやって、互いが担当する技術者の情報交換を担っていた。

「そうだ、似たような奴に会ったんだ」

 タブレットをしまって、グリアンが顔を上げた。

「似たような奴」

「あの子だ。過去から来た」

「ナユタか」

「そうだ。今度は男なんだがね」

「どういうことだ」

「どうやら彼も、過去から来たらしい」

「ほんとうか」

 サラディンが目を丸くした。

「ナユタと会わせてみたいね。生きていた年代も近いらしいし、もしかしたら彼はロシア語を話せるかもしれないんだ」

「びっくりだな」

 サラディンは驚きのあまり呆然と口を開けた。グリアンは切れ長の目を細めて、めったに見せないサラディンの表情を楽しんでいるようだ。

「なぜこんな奇妙なことが立て続くのかわからないが、安全な青空を知る者がいるのは心強い。天の采配だと俺は思った」

 信じがたい、とつぶやいて、今度はサラディンが問いかけた。

「チュプは、どんな具合だ」

「順調だ。先月の環境学会ではオゾン層の再生傾向が発表された。年が明ければ徐々に紫外線量が下がるだろう。そうしたら、スーリアの主張に耳を傾ける人々も出てくるかもしれない」

「予備選挙までに、成果を世界が納得するかどうかだな」

「確かに」

「我々の先走った行動を、どう理解してもらうか」

「そうだな。発表のタイミングとやり方は重要だと思う」

 いよいよだ。サラディンの胸が高鳴った。いよいよ本当にチュプが始動する。だがそれを正式に運用するためには、まだまだ踏まなくてはいけない手続きや段取りがある。途中で邪魔をされたらすべてが灰燼に帰してしまう。最悪の事態に備えた準備はあるが、それは極力使いたくない。困難を極めるこの状況で、その思いをどうやって広めていくのか。難題は山積みだった。

「気をつけろよ」

「あんたもな」

 グリアンはそう言うと、車を降りてレンタカーに戻った。グリアンが発進するのを待たず、サラディンはその場を離れ、キャンプに戻る。東の空から、夜のとばりが降りてきた。カスピ海の水平線が幽かに煌めき、すぐに灰色の空との境界線が曖昧になってゆく。

「カメラをもってくればよかったな」

 サラディンは思わずつぶやいた。広大な、海とも湖ともつかない水面はやがて闇にまぎれ、遠くに見えるちいさなコロニーの灯だけがほのかに瞬いていた。



 新年の払暁。空がほのかに白味を帯びると、広大なカスピ海の東に連なる稜線が、影絵のように黒々と浮かび上がった。凍てつくような寒気の中、仲間たちが無言でシャッターを切る。

「新しい年が来たぞ」

 オマールたちも外に出て、新しい年の目覚めを楽しんだ。水面にむかってカメラを向けていたサラディンは、隣に立って山稜の影に見とれていたナユタを顧みた。

「ナユタ、今年こそ青空を見たくないか」

「見たい。それと、オーロラと虹も見たい」

「ぜいたくな奴だ」

 サラディンが破顔する。



 NC474年。後年「雲と太陽の戦い」と称される、歴史に残る年が始まった。


(第二章 おわり)

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