二.スヴェトラーナ
気がつくと、スヴェトラーナは漆黒の闇の中にいた。まるで圧迫されるような、黒々とした厚い闇の中に。
「Mama(お母さん)」
母を呼ぶ声は、果てしない闇に吸い込まれてたちまち消える。音も光もない虚無の中にひとり置き去りにされて、スヴェトラーナは恐怖のあまり叫ぶこともできなかった。平衡感覚を失った身体がぐらりと揺れて、ざらざらした壁に叩きつけられる。壁をまさぐるとさらさらと崩れたが、闇はそのままだ。周囲の風景どころか、自分の手も見えない。目を開いているのか、閉じているのかすらわからない。
まぶたにぎゅっと力を入れて、スヴェトラーナは崩れる壁にしがみつきながら暗黒への恐怖に耐えた。頬をこぼれた涙は、ざらざらした闇の中に吸い込まれていった。
前日、スヴェトラーナはいつものようにスクールバスで学校に行った。朝から強めだった雨脚はさらに強くなって、2限目が終わるころには、屋根を打つ雨音で先生の声が聞こえないほどになった。3限目の途中で校内放送が流れ、授業を打ち切るという校長先生の声に子供たちの歓声が上がったが、それも只ならぬ雨音に打ち消された。
まるで天の底が抜けたような雨が降り続く中、スクールバスはなんとか子供たちをそれぞれの家に送り届けた。スヴェトラーナがアパートに戻ったときは少し雨脚がおさまっていたので、多少は傘が役に立った。
「ただいま」
濡れネズミのようになって玄関の鍵を開けると、家の中からおかえり、という母と弟の声がした。
「お母さん、ドミトリー、もう帰ってたの」
「あんまり雨がひどいから、仕事を早退してドミトリーを保育園に迎えに行ったの」
「こんな雨、生まれて初めて」
「私もよ」
「お父さんも帰ってくるかな」
「お父さんは消防士だから、こういう時は帰れないわ。町のみんなを守らないといけないから」
「そうか」
スヴェトラーナは三つ編みにした金の髪をほどき、母が渡してくれたタオルで水滴を拭いた。
雨は緩急をつけて一晩中降り続いた。翌朝早く、ラジオがこの地域の学校はすべて休校にすると告げた。
「ノアの洪水みたいになったらどうしよう」
いつまでたっても止まない雨音に弟のドミトリーは怯え気味だったが、スヴェトラーナは、母と家の中にいられることが嬉しかった。外は雨でも、家の中は母が焼くアップルパイのいい香りに満ちている。父が帰ってこないことだけが寂しかったが、町のために夜を徹して働く父を持っていることは誇らしかった。
「だいじょうぶよ。ここは2階だもの」
そう言いながら、轟音の向こうにちいさくサイレンの音が聞こえたように思って、スヴェトラーナは耳をすませた。
「お母さん、サイレン鳴ってない?」
「そう?私には雨音でなにも聞こえないわ」
窓辺に近寄ってふたたび耳をすませると、とぎれとぎれのサイレンとともに、なにか巨大な生き物がずり歩くような音がして、アパートが揺れた。
「地震だ!」
ドミトリーがしがみついてきた。
「気をつけて。窓から離れなさい」
母が二人にかけよったその瞬間、雨音も打ち消すすさまじい音とともに窓ガラスが割れて土砂と濁流が流れ込んできた。
「お母さん!」
一瞬、互いに伸ばした手と手がつかまったが、たちまち強烈な圧力の中で体をもみくちゃにされて、スヴェトラーナはなにもわからなくなった。
そして。
気がついたときは、この分厚い闇の中に投げ出されていた。
母は、弟はどうしただろう。あの濁流に流されてしまったのだろうか。まさかアパートの2階まで水が来るなんて。ここは祖母の言っていた天国だろうか。天国はもっといいところだと思っていた。ならば地獄に来たのだろうか。ドミトリーにもっと優しくすればよかった。宿題をちゃんとやればよかった。もう遅いだろうか。神様。
闇の圧力が少し弱まったように思えて、固く閉じていた目を開くと、はるか遠くに、闇の扉を開く一筋の光が見えた。やがて、それは扉ではなく地平線で、自分は広大な砂地の上に横たわっていたことに気づいた。スヴェトラーナは立ち上がろうとしたが、なかなか平衡感覚が戻らず、どうすれば体がまっすぐになるのかがわからない。
ひどいめまいと吐き気がして、ふたたび砂の上に両手をついて喘いでいると、背後から藪蚊のうなりのようなモーター音が聞こえてきた。必死で振り向くと、次第にうす明るくなってきた大地と空の境目に、ちいさな砂ぼこりが見え、たちまちそれは見たこともない形の自動車の列となって近づいてきた。見知らぬ誰かに会うのはひどく不安だが、この見渡す限りなにもない広大な砂地に置き去りにされることはもっと不安で、スヴェトラーナは渾身の力をふりしぼって立ち上がった。砂を蹴散らしてものすごい速さで近づいてきた車の列は、あっという間に通り過ぎたが、最後尾の車がスヴェトラーナの影に気づいて急停車し、中から小太りの中年男性が降りて来た。男はスヴェトラーナの姿をみとめて叫ぶように声をかけてきた。聞いたことのない言葉。ターバンのような布を頭に巻いて、水泳のときに使うようなゴーグルをかけ、見たこともない服を着ている男は、絵本の千夜一夜物語を思い出させる。
ペルシャ語はわからないわ。
「ここはどこですか」
スヴェトラーナがロシア語で話しかけたが、案の定男性は理解できず、困惑したように肩をすくめてしまった。
次第に空が白くなってきた。気がつくと、いったん通り過ぎた車が次々に戻って、スヴェトラーナは10人ほどの男たちに取り囲まれていた。
ターバンで顔まで覆った背の高い男が歩み出て、スヴェトラーナに何かを言い、指で車をさし示した。乗れ、ということだと理解して、スヴェトラーナはうなずいた。
まるで空想小説のよう。
四角く、いかつい車の中から、浅黒い肌をした女性が手招きしている。女性の姿にほっとして、スヴェトラーナは促されるまま車に乗った。車の中は広くて、まるでちいさな部屋のよう。教科書にのっていた、大統領が乗る車の中みたいだ。
ここは地獄じゃない。わたしは、違う国に来たのね。
スヴェトラーナは、すとんとそう理解した。不思議と、恐怖はなかった。人がいて、光がある。それがわかった瞬間、恐怖はどこかに消えてしまったようだ。あるいは、あんまり驚きすぎているせいかもしれない。
低いモーター音を立てて車が動き出し、たちまちスピードを上げる。手招きした女性が薄布で身体をくるんでくれたので、自分が裸足でいることや、ワンピースがあちこち破けていることにようやく気づいた。最初に声をかけてくれた男性がカップに湯気の立つ飲み物を入れて差し出し、スヴェトラーナはすなおにそれをふうふうとさまして飲んだ。初めての味。
感情は、何かを突き抜けたように動かない。
お母さんとドミトリーを探さないと。それにはペルシャ語を早く覚えなくちゃ、とだけ、スヴェトラーナは考えていた。
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