六.世界のなりたち(一)

 NC473年が明け、春分を経て夏至が過ぎた。


 ナユタはすっかりナユタとなり、オマール夫妻の欠かせない助手となった。いまでは最初からこの国で生まれ育ったかのような風で、キャラバンの一員として暮らしている。オマール夫妻の息子タンブルの面倒をよく見るので、知らぬ者の目には、二人はまるで姉弟のように映ったかもしれない。

 最初のうち、ことに夕暮れ時に目覚めると、ナユタは家族が、故郷が、恋しくてたまらなかった。そういう時は、誰にも聞こえないように寝床の中で声を殺して泣いた。だがその回数も、いつしか少しずつ減っていった。

 砂漠で星夜に遭遇したのは、8月。ナユタがこの世界に来て一年と少しがたったころだ。そのころになると、ナユタはすでに大人たちと交代で助手席に座り、移動の見張り番ができるようになっていた。そして同じような時期から、サラディンは新しいコロニーに着くたび、ナユタを連れて町に出入りするようになった。それまではコロニーの近くでキャンプを張っても、めったに町に入ることがなかったサラディンだったが。

 変化に目ざとく気づき、訝しんだのはスアードだ。

「サラディン、ナユタに悪いことを教えてないでしょうね」

 一度スアードが不審気に聞いたが、サラディンは苦笑して首を振った。

「社会勉強だ。町の様子も見せておかないとな。だいたい、悪いことってなんだ」

「まだ小さい子供を大人が行くような場所へ連れ出して、なにが『悪いことってなんだ』よ。なにが社会勉強だか」

 その日も、オマール夫妻だけが持つ住民カードを借り、ナユタを連れて出かけたサラディンの車を不承不承見送ったスアードがぷんぷんと文句を言うのを、まあまあ、とオマールがなだめた。

「たしかにナユタは、この世界のことをもっと知ったほうがいい」

 10月最後のその日は雨が強かったので、メンバーは移動を見送り、テントを張らずにそれぞれ車の中で夜の時間を過ごしていた。オマールの隣ではタンブルが、調理台の上で父親お手製の計算問題を解いていた。五歳の手にはすこし大きすぎるペンをつかむタンブルの手元を見守りながら、オマールは言った。

「ナユタの外見じゃあ、コロニーで暮らすのは難しいかもしれないが、それでも町の暮らしを知っておくのは大事なことだ」

「それはそうかもしれないけど」

 なにもこんな雨の夜に出かけなくたって、とスアードはまだぶつぶつ言っている。

「ナユタもだが」

 ノートへタマネギの絵を描きながら、オマールはつぶやいた。

「タンブルのことも、そろそろ考えないといけないな。もう来年は六歳だ。本来なら学校に上がる年だからな」

 オマールの言葉に、スアードの表情があらたまる。しばしの沈黙ののち、そうね、とため息をつくようにスアードはつぶやいた。

「あたしたちがバットだからって、この子もバットにならなくちゃいけない理由はないからね」

「お母さん、バットってなに」

「俺たちみたいに旅をして歩く連中のことさ」

 しまった、と口をつぐんだスアードにかわって、オマールが応じた。

「それよりタンブル、なんでキャベツが1個とタマネギ2個を足すと12になるんだい?」

「だって、みんなのスープになるんでしょ」

 虚を突かれたオマールの隣でスアードが噴き出す。キッチンで、キャベツを刻んでいたナランが笑いをこらえていた。


 その晩サラディンとナユタが訪れたのは、チャイナ地区の西端に近いコロニーだった。ナユタは厚手の服の上からストールを巻いて雨よけをかぶり、サラディンの手をしっかり握って歩いた。足元から冷たい空気が忍びあがってくる。夜の空気は、すでに初冬の気配に満ちていた。

 コロニーに入るとサラディンはいつも、ゲートになるべく近いところに車を停めて、人通りの多い道を選んで歩く。その日は雨が強かったが、サラディンはいつも通りゲートを入ってすぐ車をパーキングに入れた。人通りは少なかったが、それでも雨よけをかぶって歩く人たちの姿がちらほらと見える。

 サラディンの行き先は、町の酒場や商店などさまざまだったが、どこに行ってもサラディンは目立たないよう店の奥で、その店の店主と小声で話していた。なにを話しているのかは理解できなかったが、「ノルマン先生」とか「スーリア」という単語がしばしば出てくるのに、ナユタは気づいていた。

 この日訪れたのは、こじんまりとした食堂。一応灯はともっていたが、中に入ってみると天候が悪いせいか客は誰もいなかった。店主はカウンターの内側で所在無げに椅子へ腰かけ、壁にかけたモニターでなにやらバラエティ映像を眺めていたが、ドアの開く気配に振り返ると、いらっしゃい、と立ち上がってモニターを消した。

「お二人かな」

「そうだ」

「お好きな席にどうぞ」

「カウンターでもいいかい」

「もちろんだが、娘さんには座りにくいんじゃないかな」

「大丈夫だ」

 雨よけを入口近くのハンガーにかけて、ニカブを被ったままスツールへよじ登るようにして座るちいさな子供を、店主は危なっかしそうに見守る。

「何にするかね」

「フフホトのサンダーに聞いてきた」

 サラディンの言葉に、店主は目をまるくした。

「じゃあ、あんたが」

「サラディンだ」

 店主は嬉しそうにうなずいた。

「よく来てくれたな。ノルマン先生は無事なのか」

「もちろんだ」

「嬉しい便りが聞けて感激だ。雨の中よく来てくれた」

 それはよかった、と壁のメニューに目をやりながら、サラディンはうなずいた。

「俺の方は、何か新しい話があれば聞きたいと思ってね。ああ、蒸留酒と、この子にはフルーツジュース。なにか軽くつまむものをもらえるかな」

「わかった」

 グラスを手に取りながら、店主は首をかしげた。

「あんたがハルピンに行ったのは、たしか先月くらいだって聞いたな」

「そうだな、9月の、たしか25日だった」

「じゃあ、あれだ。ユーロの選挙の話は聞いてないな」

「知らない」

「イングランドで」

 言いかけて、店主はナユタをちらりと見た。

「いいのかい」

「かまわない。この子には聞かせておきたい」

 うなずくと、店主は言葉を続けた。

「今月初め、イングランド地区で欠員補充の議員選挙があってね」

「ふん」

「まあ勝利したのは当然クラウド党なんだが、民主党がかなりの票をとったんだ」

「ほう」

「接近戦とまではいかなかったが、クラウド党の4割くらいは取ったらしい」

「すごいな」

 サラディンとナユタの前にそれぞれのドリンクを置きながら、店主は言葉を続けた。

「ロンドンの連中が言ってたが、イングランドではだいぶクラウド党に対する反発が出てきているらしい。今年に入って議員の汚職やら不道徳な騒動やらが続いたらしくてね。元々イングランドは一党独裁を好まない土地柄ってのもあって、だいぶ民主党に票が流れたらしいな」

「スーリアからは立候補したのか」

「いや、我々の党は民主党を支援したそうだ」

「なるほどね」

 カウンターの内側から、食欲をそそる香辛料の香りが立ちのぼった。

「イングランドの民主党は、地区の自治権を拡大しようという主義だから、思想系政党だね。我々とはマニフェストが違うが、クラウド党にしてみれば、ユーロで野党からこんなに票を取られたことはないだろうから、かなりひやひやしたんじゃないかと思うよ」

「そうだろうな」

 スパムを炒める煙がキッチンに満ちる。

「問題は来年だ。予備選挙までにシステムの状態が整えば、我々にチャンスが生まれるかもしれない」

「そううまくいくかな」

 サラディンは、ゆっくりとグラスを揺らしながらつぶやいた。

「おおかたの民衆は、新しいものには懐疑的だからな」

 たしかに、と店主が肩をすくめた。

「新しいシステムと聞けば不安はあるだろうが、先生たちの説ではクラウディと併用するって話だろう。そこを強調して、新しい仕組みのいいところを訴えれば、世論も変わってくると俺は思っているんだがね」

「政府が公平に選挙活動をさせてくれればな」

「そこだよ」

 声に怒りを含ませながら、店主はスパム炒めを盛った皿を、カウンターに音を立てて置いた。

「なにしろ政府が不公平だから、我々の先生たちも姿を隠していなきゃいけないってわけだ」

「それから言うと、イングランドの話は俺たちにとって明るい話題だな。クラウド党も、いつまでも一党独裁を保てるとは限らないとわかれば、少し有権者の目を意識して遵法姿勢をとり戻す可能性があるからな」

「どうだかねぇ」

 からん、とドアに下げられたウィンドチャイムが揺れて、ずぶ濡れの二人連れが入って来た。

「いらっしゃい」

 店主が声をかけ、二人の話はそこまでとなった。


「スーリアってなに?」

 帰り道、コロニーに戻る車の中でナユタが聞くと、サラディンは、

「政党の名前だ」

 と言った。

「政党?」

「政治を動かしたい奴らが集まって作るチームのことだ」

「政府のこと?」

「政府を運営しようとする集団だな」

 ナユタが首をかしげると、サラディンは前を向いたままつぶやいた。

「ナユタにも、そろそろ知っておいてもらったほうがいいかもしれないな」

 雨がまた強くなったのか、ワイパーが速くなった。

「これは、他のメンバーには関係ない。俺だけの事情だ。メンバーは、俺がこういう活動をしていることは知らない。だが、ナユタには知っておいてほしいと思った。それで、このところ一緒に来てもらっている」

 すこし難しい話になるが、と、サラディンはナユタのほうを向いた。

「去年、グリアンという男と会ったのを覚えているか」

 ナユタがうなずく。

「あの男が、世界はひとつの政府が管理していると言っただろう」

「うん」

「今、政府は『クラウド党』という政党が支配している」

 世界政府が誕生したのは推定AD3108年。その年がNC元年となった。初代大統領ラウル・オズマは、クラウディ完成に関わった技術者だった。そのオズマの支持者の流れをくみ、クラウディによって人類の存続を維持しようとする政党がクラウド党である。

「地球を雲とダストで覆って紫外線を防ぐクラウディシステムが出来てから500年近く、世界政府は一貫してクラウド党が支配してきた」

 難しいかな、とサラディンが問うと、ナユタがうなずいた。

「難しいけど。たぶんクラウド党は、わたしがいた国の共産党みたいなものだと思うわ」

 ナユタは、小学校の授業を思い出した。建国の父レーニン。ソヴィエトの英雄で、その英雄の政治を推進するのが共産党。正義の党、という言い方を先生はしていたっけ。

「クラウド党も、民衆を救った党だから、みんなが支持してるんでしょう?」

「そうだな」

 サラディンはうなずいた。

「最初はそうだった」

 雲に守られた大地で、世界政府は各地区の自治体と連携しながらコロニーを築き、インフラを復興させた。資金は潤沢ではなかったが、情報が常に隠されることなく開示されたので、人々は不公平感を感じずに政府の復興計画を受け入れた。

 生活拠点の整備が進むとともに経済が動き出し、少しずつ政府の資金——税金——も増えていく。人々の生活も次第に安定し、コロニーの数も増えていった。

「最初はそれでよかったんだ。だが、議会制度が復興しないまま初代大統領のオズマが死ぬと、状況が変わってきた」

 ラウル・オズマが逝去したのは七十二歳、就任21年目の冬だった。人々は選挙が行われるものと思ったが、オズマの逝去と同時に報じられたのは、ラウルの息子ジュリウスが二代目の大統領に就任するという政府発表だった。さすがにこれには反発する人々が現れた。

「これでは王国だ。選挙が必要だ」

 という意見が沸き上がった。世界各地の行政区からも、民主制度を遵守しないのであれば世界政府を支持せず自治を復活させる、という声があがり、ジュリウスはそれに押される形で、議会の制定と選挙制度の復活を約束した。

 2年後、各行政地区から人口数に応じて議員が選出されることとなった。結果的にその選挙は、ジュリウスを——ラウル・オズマの功績とその息子による継承を——支持する人々が結成した「クラウド党」が圧勝したが、そこから世界政府はようやく民主主義の形を整え始めた。

「三権分立って知ってるか」

 ナユタはうーん、と首をかしげた。

「習ったような気がするけど、忘れちゃった」

 車が道を外れ、がたがたとした荒れ地を、速度を落として探るように進み、やがてゆっくりと停車した。雨はまだ激しく降っている。

「今日はここまでだ」

 雨よけをナユタに手渡しながら、サラディンは、続きはまたな、とナユタに告げる。うなずいて、ナユタは雨よけをかぶりながら尋ねた。

「どうしてサラディンは、住民カードを捨てたの」

 サラディンが怪訝な顔になる。

「民主主義って、投票で決めることでしょう。住民カードがないと、投票できないんじゃないの?」

 おっと、とサラディンは苦笑した。

「鋭いところを突かれたな」

 なるほど聡いやつだ、とつぶやきながら車のエンジンを切り、長い腕をのばして後部座席から自分の雨よけを取りながら、

「それは、また今度な」

 と告げた。

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