四.望郷(一)

 ナユタと呼ばれるようになったスヴェトラーナは、主にオマール夫妻と起居をともにして、言葉や習慣を教わった。

 数字、身の回りの品、メンバーの名前。言葉は比較的覚えやすかったが、文字と生活習慣が全く異なることには困惑した。

 一行は昼に寝て夕方起き出す。それから食事を摂り、夜に動く。食事も、食べなれた肉や野菜がなく、ふしぎな食感のソーセージや、ペースト状のスープが多く、不味くはないが「食事」という感じもあまりしない。

 一番戸惑うのは、日中外に出られないことだ。外に出ようとするとひどく叱られた。どうしても出なくてはならない時は、日よけのストールを厳重に巻き付け、ゴーグルをかけなくてはいけない。最初は理由がわからなかったが、一度、夕方暑さのあまりストールを脱いだらひどく肌がひりひりしたので、身体を覆わないと危険なのだと理解した。

 天候も全く違う。スヴェトラーナがこの地に来てから、晴れているのを見たことがない。空はいつも厚い雲に覆われ、ひどく蒸し暑い。驚いたのは、砂漠の上にしょっちゅう大雨が降ることだ。なのに植物が生える気配はない。砂漠は雨が降らないと思っていたスヴェトラーナにとって、その風景は違和感そのものだった。


 モノクロームの映画のような灰色の砂漠を、時折長い長い車列が通り過ぎる。永遠に続くかと思う車の列は、大陸を横断する貨物列車を思い出させた。

 夜間の移動中に目を覚ますと、運転する人たちが寝ているのをしばしば見かける。最初はハラハラしたが、やがて車が勝手に運転していることに気づいた。テントがほとんど自動で組み立てできることや、車の中に生活できる設備が備わっていることは驚きだった。そうやって、故郷にもない最新の技術があるかと思うと、シャワーがなくて、たらいに汲んだお湯で身体を洗ったり、昔の物語の登場人物のような服装をしたりしている。


 不思議な世界。だが、そういったことは、スヴェトラーナにはどうでもよかった。早く言葉を覚えて家に帰りたい、その思いしかなかった。やり取りができるようにならないと、ここがどこなのかわからない。自分の居場所がわからなければ、母と弟を探せない。

 保護してくれた一行は、旅から旅を重ねる集団らしい。まるでサーカスのようだ、とスヴェトラーナは思った。そうやって集団がどんどん移動していくのも、焦りの一因となった。こんなに動き回っていたら、ますます家族から遠ざかる。


 町の近くでキャンプをするときは、オマール夫妻が町に行き、食材や必要なものを買い足す。スヴェトラーナはついて行きたいと思ったが、許してもらえなかった。

「危ないからだめ」

 いつもそう言われたが、夜のドライブに比べてなにが危ないのか、スヴェトラーナには理解できない。町に行けば、なにか家に帰る手がかりが見つかるかもしれないのに。

 一行はみな優しかったし、安心して過ごすことはできたが、やはり家族とは違う。


 お父さんに、抱き上げてキスしてもらいたい。

 お母さんのエプロンに顔をうずめて、お菓子の匂いをかぎたい。

 ドミトリーと、お母さんの作ってくれるボルシチをわけっこしたい。


 早く家族に会いたい。


 ただそれだけの思いで、スヴェトラーナは自分の置かれている状況を理解しようと、必死で毎日を送っていた。


 なんとか会話ができるようになったころには、もうだいぶ昼よりも夜の方が長くなっていた。

「ナユタに、厚手の服がいるね」

 ある日、夜明け前の食事を取りながらスアードが言った。

「次の町に着いたら、一緒にマーケットに行って、上着を買おうか」

「一緒に行っていいの」

 スヴェトラーナは嬉しさのあまり声を上げ、それからあわてて口をふさいだ。食事中に子供は話してはいけません、といつも母に言われていた。

「着てみないとサイズがわからないからね。そのかわり、わたしのそばを離れてはいけないよ」

「うん」

 スヴェトラーナは、もうその日から嬉しくてなかなか眠れなかった。ようやく眠ると、毎日のように故郷を知っている人に会う夢を見た。

「イルクーツクを知ってる?」

「ああ、知ってるよ」

 夢の中で、誰かがうなずく。

「そこのバスに乗れば帰れるよ」

 停留所にはスクールバス。同級生が手を振っている。スヴェトラーナは胸を躍らせてバスに向かって走る。あれに乗れば、家に帰れる。

 いつも、そこで目が覚めた。


 次の町に着いたのは、それから5日後だった。キャンプを張った翌日の夕刻、スアードとナユタは小さな車に乗ってキャンプを出発した。町のゲートをくぐる時に、つん、と耳の中を圧迫されたようになり、スヴェトラーナは思わず唾を飲み込む。ぴっと電子音がして、「MS36ゲート通過しました」と音声が告げた。

「これはなに?」

 スアードにたずねると、ナビで市場を探していたスアードは、

「どの車が町に入ったか、わかるようになっているのさ」

と答えた。

 ナビに誘導された市場の脇の駐車場に、かろうじて最後の一台の駐車スペースを見つけると、車はゆっくりと中に入り、枠線の中に停車した。スアードは何も操作をしていないのに、車はひとりでに枠線の中に駐車する。ヴェトラーナは目を見張った。

 ニカブを被って車を降りる。ドームの中は砂漠と違ってひんやりとした空気が漂っている。二人は電飾もあでやかな人通りの多い歩道をまっすぐ歩く。次第に人が多くなってきた。聞きなれぬ異国のことば。店から漏れ聞こえるふしぎな旋律。すべてがスヴェトラーナには珍しい。足早に歩くスアードに引きずられるようにして、スヴェトラーナは小走りに歩く。やがてひなびたアーチが見えて、一気に喧騒が押し寄せた。マーケットだ。

 ターバンを巻いた男性、肌もあらわに人待ち顔で店の前に立つ女性。暗い店からは頭がくらくらするような香りが漂ってくる。刺激的で、そしてどこか退廃的な雰囲気。

「どうして、夜なのにこんなに人が多いの」

「夜だからさ」

 スアードは事も無げに言って、スヴェトラーナの手をがっちりつかみ、歩調もゆるめず人込みを縫うように歩いていく。なぜ夜に人が多いのかスヴェトラーナにはわからなかったが、それを訪ねるすきもなかった。スヴェトラーナは次第にスアードの足についていくことだけに必死となり、周囲の景色もなにもわからなくなり、ようやく市場の真ん中あたりにある洋品店の前でスアードが立ち止まったときは、心の底からほっとした。

 通りにはみ出すほど服や絨毯を並べた店の中には、横になって歩かなくてはならないほど所狭しと布製品が積んである。スアードは布の山の中から店員を探し出してメジャーを借りると、スヴェトラーナの寸法を測り、サイズの合いそうなコートや上着をいくつか選んだ。

「着てごらん」

 更衣室でニカブとマントを脱ぎ、コートを着てみると、どれも温かく、ふわりと身体をつつむ。ことに、明るい青色のショートコートは、自分でもよく似合うように思えた。鏡の前でくるりと回って満足すると、スヴェトラーナは更衣室から顔を出してスアードを探したが、姿が見えない。どこかで別の服を探しているんだろうか。更衣室のカーテンが揺れたことに気付いた店員が振り返り、まぁ、と感嘆の声をあげた。

「なんてかわいい。よく似合うわ」

「ありがとう」

 無造作に黒い髪をひとつに束ねた、黒目がちの浅黒い肌をした店員は、かわいくてたまらない、という表情でスヴェトラーナを見つめた。

「きれいな肌ね。どこから来たの」

「ええっと」

 わかるかしら。

「ソヴィエト連邦よ」

「そ?」

 ああ、やっぱりわからないのか。外国の人はSSSRをなんて呼ぶのかしら。古い地名なら伝わるかな。

「ええっと、ロシア」

「ああ、ロシア。ずいぶん遠くね」

 通じた!

「ロシアは遠いの?」

「行政区域の境まで、レイルウェイで——さあ、行ったことがないから、見当もつかないわ」

 スヴェトラーナは、嬉しさのあまり心臓が口から飛び出るかと思った。遠い。でも、でもそこにある。確かにある。帰れる。家族に会える。

「あたし」

 スヴェトラーナは必死で店員に訴えた。

「あたし、そこに帰りたい」

 店員は不審な顔になった。

「どうしたの。あの人はお母さんじゃないの」

「違う。わたし気がついたら砂漠にいたの。あの人は優しいけど、家族と違う。私はロシアに帰りたい。ロシアに家族がいるの」

 通路のむこう、布の山のむこうからスアードが近づいてくるのが見えた。時間がない。スヴェトラーナは必死で店員に訴えた。

「あたし、どうしたら帰れるの。助けてほしいの」

 店員はスアードが近づく前に、すばやくささやいた。

「また明日いらっしゃい。考えておくわ」

「どうかしら」

「ああ、お客様、このコートはお嬢さんにとてもよくお似合いです。お嬢さんもお気に召したようですが、袖丈が少し短いのと、少しほつれがありまして。もしよろしかったら、今日のうちにどちらもお直ししますから、明日また一緒に来ていただけませんか」

「少しならこちらで治すけど」

「生地が接着式なので、機械がないと。針を刺すとよけいにほつれてしまいますから」

「そうなの。じゃあお願いしたほうがいいかしら」

「スアード、あたしこれがいい」

 スヴェトラーナはニカブをかぶりなおして外に出ると、スアードに言った。

「明日また来たらだめ?」

「じゃあそうしようかね。よく似合ってる。値段もお手頃だし、いい買い物だ」

「ぜひ」

 店員は慇懃に頭を下げた。

「お待ちしております。私はナランと申します。私あてにお越しください」

「ナランさん、じゃあお願いね。代金は今日払っておくわ」

 スヴェトラーナは、興奮のあまり気が遠くなりそうだった。ニカブが表情を隠してくれることに感謝した。でないとスアードは不審に思っただろう。

 帰れる。帰れる。

 スヴェトラーナの脳裏は、望郷の思いでいっぱいになった。次の日までの一日をどうやって過ごしたのか、スヴェトラーナは覚えていない。ただただ、一日が長く、待ち遠しかった。

 ごめんなさい。

 スヴェトラーナは、心の中でスアードたち旅の一行に詫びた。

 とてもよくしてもらったことには感謝してるわ。でも、私は家族に会いたいの。

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