五.灰色の空と夜の街(二)
祖父の経営する古いアパートは八室あり、独身者ばかりが住んでいる。ハルトの部屋は一階だが、いまはまだ仕事で農場にいるはずだ。ナツミは外階段を軽やかに駆け上がると、二階のいちばん奥の部屋のインターフォンを押した。
「はいはーい」
中からのんびりした声と一緒に、犬の鳴く声がきこえる。
「ヨウコちゃん、ナツミ」
「おお、お入り。鍵はあいてるから」
ドアを開けると、ちいさな犬が玄関へ仁王立ちになって、尻尾を振りながら鳴いていた。入ってすぐのキッチンでは、ヨウコが、小柄な身体には大きすぎるエプロンを着て、パプリカをカットしていた。小鍋から湯気が立って、ピクルス液の香りがする。ビネガーの香りに、ナツミはほっとして座り込み、画材をキッチンの床に投げ出した。
「モグちゃん、元気?」
玄関に立ったまま犬を抱きあげると、ナツミは小型犬の中でもことさらちいさな種類になる犬に頬ずりした。モグと呼ばれた犬は、ナツミの頬を夢中で舐めた。
ヨウコは、焼き物の絵付けをしたり、動画を編集したり、細々としたアート関連のことをして暮らしているらしいが、たまに農場の野菜を加工して、祖父に「売ってほしい」と持ってきたりするので、どれが本当の職業なのかナツミにはわからない。アパートにはこういう若者が何人かいた。農場地区のアパートで暮らしているのは、ハルトのように農場に雇われている者か、画家や作曲家の卵など、都市に暮らす必要も金もない、独身の若者たちばかりだ。
「あれ、今日は登校日?」
「そうなの。ちょっと聞いて」
「なになに、どうした」
ナツミは、口をとがらせて今日の出来事を語った。
「この前提出した課題の絵が変だから、具合が悪いんじゃないかって思われたらしいの。ほんのちょっと空の色を空想したら呼び出されるなんて、カン、カンリカイシャよね」
「ほんと、まるで管理社会だね」
やんわりと訂正しながら、ヨウコは熱湯消毒したちいさな瓶に、野菜を詰めていった。
「ナツミちゃんの絵、見たいな」
「いいよ。でもね、あたしの絵より、ハルトの絵がすごいの」
「ハルト?去年来た人?」
「うん、ヨウコちゃんに見せようと思って、持ってきた」
ナツミは、画板を開き、ハルトが描いた空と海の風景を見せた。
「うわぁ」
振り返ったヨウコは、そのままあっけにとられた顔で棒立ちなった。
「青だ」
「きれいでしょ。ハルトは、これが本当の空だっていうの」
キッチンから離れ、ナツミから画板を受け取ったヨウコは、そのままぺたんと床に座った。お尻で尻尾を踏まれたモグが、ぎゃん!と苦情の声をあげたが、それも耳に入らない様子で、ヨウコはハルトの絵に見入っている。
「いい青だねぇ」
絵に顔を近づけたり、遠ざけたりしながら、青かぁ、とヨウコは何度も呟く。
「雲が晴れたらどんなふうになるのか、あたしには想像もできなかったけど。こんなふうなのかなぁ」
「ヨウコちゃん、煙が出てる」
「あっ!」
振り返ると、ピクルス液が煮詰まりかけていた。
「あああ」
ヨウコはあわてて立ち上がり、火を止める。
「こりゃだめだ」
とほほ、と鍋をコンロからおろして、ヨウコは煮詰まった液を流しに捨てた。
「作り直しだね」
「うん」
食料棚からビネガーや塩を取り出しながら、ヨウコはナツミに声をかけた。
「あたしハルトくんってちゃんと話したことないんだけどさ、農場で働いてる人でしょ?空の話聞きたいから、ナツミちゃん紹介してくれない?」
「いいよ。でも、いまはまだ出荷とかしてると思うな」
「じゃあ、ピクルス作ったら農場に行こう」
「うん」
再度ピクルス液を作って瓶詰をし、二人が外に出るころには、冬の日はもうとっぷりと暮れていた。街灯の照らす小道を通って、二人が農場に行くと、ちょうど仕事を終えたハルトが出てくるところだった。ハルト、とナツミが呼びかける。
「おなじアパートのヨウコちゃんだよ。ハルトの話を聞きたいんだって」
「はじめまして」
ヨウコが、ぺこりと暗がりの中で挨拶した。
「ナツミちゃんから絵を見せてもらって、空の話を聞きたいと思って。急にすみません」
「ああ」
ハルトも頭を下げた。
「おなじアパートの方ですよね。犬と暮らしてる」
「そうです、そうです」
「じゃあ、あたし帰るね」
「うん、ナツミちゃん、ありがとね。そうだ、今度はナツミちゃんの絵も見せて」
「わかった」
ナツミは二人に手を振って、アパートの隣にある家に走って行った。ただいまぁ、とナツミがやわらかな灯のともった家に飛び込み、ドアが閉まるのを見送って、二人はあらためてどうも、と挨拶をかわした。
「あの絵、どこの風景なんですか」
街灯の下で、ヨウコはハルトに尋ねた。
「すごくきれいな青」
「あれは」
ハルトは言いよどんだ。
「どこから話せばいいのか」
「昔の画像データよりずっとリアリティがあるわ」
「あれは」
ハルトは言葉選びに迷う。
「あれは、僕の記憶の中にある風景なんです」
「ハレマ?去年の?」
「ああ、なんというか。僕は記憶障害で」
「記憶障害?」
「今までのことをなにも覚えていなくて。気がついたらライト駅前のロータリーにいたんです」
ひゃあ、とヨウコは目を丸くしてハルトを見上げた。
「そんなこと、ほんとにあるんだ」
「どうなんでしょうね。僕も、自分のことながらよくわからなくて」
ハルトは頭をかいた。
「行き先がなかったところを、病院から紹介されて、ササヤマさんに雇っていただいたんです。青い空、どうしてそういう記憶があるのか、自分でもわからないんですけど」
冷たい夜風が二人の頬を撫でて、ハルトがくしゃみをした。日が落ちれば紫外線の心配はないが、年末も近いこの時期、さすがに外で立ち話をするには寒すぎる。
「ごめん、風邪ひかせちゃうね」
「いや、こちらこそ」
「今日はもう遅いからさ、また話を聞かせてもらえませんか。あたし、あの青い空を自分も描いてみたくて」
「ああ」
いいですよ、とハルトが言いかけたとき、農場の入り口から車の近づく音がして、闇を裂くライトが建屋を照らした。
「あ、タバちゃんだ」
ヨウコがつぶやく。
「タバちゃん?」
「ゲーム友達。ライトに住んでるんだって」
車がアパートの隣の空き地に停まり、中からがっしりした体躯の男性が降りて来た。
「やっぱりタバちゃんだ」
「なんだ、ヨウちゃん、そこにいたのか」
あれ、とハルトは暗がりの中を近づいてきた男性の顔を見た。聞き覚えのある声。
「ヤマダ先生?」
「ん?」
市民病院に入院中、脳神経の検査で何回かかかわった医師だった。
「カンナヅキハルトです」
「おお」
夜なのにサングラスをかけたままの男性は、ハルトの顔を見ると驚きの声をあげた。
「そうか、このアパートにいるのか」
「そうです。先生は?」
「俺?俺はこれからヨウちゃんとデート」
「今日は約束してないよ。だいたい、付き合ってもないのにデートとか言わない」
「いいじゃん。どうせ暇なんでしょ。いい感じのパブを見つけたんだ。生牡蠣が自慢なんだってさ。食べたいでしょ」
「食べる」
「じゃあ行こう。君もどうだい?」
「いや、僕は」
「いいじゃん、一緒に行こうよ。話の続きも聞きたいし。タバちゃんがご馳走してくれるよ」
どうしよう、と戸惑ったが、二人から誘われて、ハルトは同行することにした。ヨウコと二人でいったんアパートに戻り、ハルトはアカリからもらったおかずを冷蔵庫に入れ、普段着に着替えた。ヨウコは飼い犬に餌を与えてくると言っていたが、ハルトが車に戻ると二人はすでに中にいて、なにやらゲームの話に興じている。ハルトは助手席のヨウコに促されるまま、後部座席に乗り込んだ。
「じゃあ、出発」
タバちゃんことヤマダ医師は、ナビをセットしてアクセルボタンを押した。
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