五.灰色の空と夜の街(三)
「でさ、タバちゃん急にどうしたの?また振られたの」
「なぜわかった」
「だいたい来るときってそうじゃん。てか、なんでハルト君タバちゃんを知ってるの」
「病院でお世話になりました」
「病院?」
「ああ、実は僕、病院で働いてるんだ」
「へええ、なんの仕事してるの?」
「脳外科医です」
きりっとした作り声でヤマダ医師が言うと、またまたぁ、とヨウコはげらげら笑った。
「ムリでしょ」
「いや、ほんとうに脳外科の先生で」
ハルトが助け船を出した。
「僕、検査で先生にお世話になりました」
「へえええ」
信じられない、とヨウコは助手席からまじまじと医師を凝視する。
「ただのゲーマーだと思ってた」
「脳外科医です!」
きりきりっと医師が応じる。病院にいた時から
「だからいつもご馳走してくれるんだね。あたし、ゲームで稼いでるんだと思ってた」
「奢りはゲームの稼ぎだよ」
「すごいですね」
談笑するうち、コロニーが近づいてきた。夜のコロニーはむしろ日中よりも電光で明るく輝き、町の灯が反射してドームがぼんやりと白く光っている。おおきな半球型の光は、まるでゆっくりと呼吸をしているかのように闇の中で揺らいでいた。
「きれいだ」
ハルトが思わずつぶやく。
「夜のコロニーは初めてかい」
「はい」
「昼よりもずっと賑やかで明るいよ」
ゲートを通過しようとすると、ブザーが鳴ってゲートが閉まった。
「なんだ?」
ヤマダ医師が怪訝な顔になる。ゲートの隣の建屋から、ばらばらとヘルメットをかぶった交通警察官が駆け寄ってきた。
「あ、タブレット忘れた」
ヨウコがつぶやく。
「ヨウちゃん、頼むよ」
「ごめん」
「カードは持ってるよね」
「それも置いてきた」
「勘弁してよ」
ヤマダ医師はため息をつきながら窓を開けた。近づいてきた警察官が、運転席の窓に顔を近づける。
「恐れ入りますが、住民カードを拝見します」
「すいません、一人カードとタブレットを忘れてきまして」
住民カードを警察官に渡しながらヤマダ医師が言うと、ああ、と警察官は車に乗っている人数をすばやく確認した。
「ハルトくん、住民カード持ってる?」
「あります」
ハルトも、ポケットから住民カードを取り出して窓越しに警察官へ提示した。仮戸籍か、とつぶやいた警察官の目が険しくなった。
「タブレットはありますか」
「あります」
ハルトが手渡すと、警察官は端末にタブレットを乗せてなにやらチェックを開始した。
「助手席の方がお忘れなんですね」
「すみません」
助手席側に回った警察官が、ヨウコに住所と生年月日を尋ね、端末になにか入力している。
「じゃあ、ここにサインを」
ヨウコは、差し出された端末の画面に指でサインをした。
「はい、結構です。じゃあこれが仮のカード。帰りに、ゲートを抜けたら必ず回収箱に入れてください」
「はい」
「こちらもお返しします」
ハルトのタブレットをチェックしていた警察官が、ハルトにタブレットを返した。
「お手数かけました」
ヤマダ医師が軽く頭を下げて窓を閉める。
「お気をつけて」
警察官の声と同時に、ゲートが開いた。
「ヨウちゃん、何回目だよ」
「ごめんごめん」
ヨウコが肩をすくめた。車は、ゆっくりと市街地に向かっていく。ヤマダ医師の言う通り、次第に街の灯が増えて、人通りも多くなっていった。
「そうか、みんな、夜に外へ出るんですね」
「日中は歩けないからな」
車は、雑踏をかわしながら細い路地に入り、ちいさなビルの前で停止した。パーキングへの入庫を指示して、三人は車を降り、入口に牡蠣殻が積み上げられた古風な看板のパブに入った。
「それで、ハルト君、青い空をいつ見たのかは覚えてないんだ」
デキャンタのワインを手酌でグラスに注ぎながら、ヤマダ医師がハルトに尋ねた。ヨウコは幸福のオーラを全身からふんだんに立ち昇らせて、しみじみと牡蠣を愛でている。海洋生物は動物より養殖がしやすいとはいえ、生鮮海産物はそうそう食べられるものではない。その日暮らしの貧乏アーティストにはことのほかだろう。
「思い出せそうで、思い出せなくて。でも、ヤマダ先生に見ていただいた頃よりは」
「病院の外ではタバちゃんでいいよ」
グラスを片手に医師は苦笑した。
「俺もハルトって呼ぶからさ」
「はい」
ずっと気になっていたんだ、と、医師——タバちゃんは表情を改めた。
「俺にはどうも、君がただの記憶障害とは思えない。ハルトが最初に話した言葉は、翻訳機も変換不能な不思議な発音だった。思い出すというより覚え直す、というふうに言葉を修得していたように見えたし。まるで別の世界から来たように思えたよ」
「肌がすごくきれいだよね、ハルト君」
牡蠣を堪能し尽くしたヨウコが、タオルで手を拭きながら。満ち足りた様子で顔を上げた。
「一度も紫外線を浴びたことがないみたいな肌」
「さすがだね」
タバちゃんが笑った。
「見るところが違う。だが確かに、細胞年齢も若かったからな」
「そうですか」
「14歳かそこらだったぞ。心理検査の結果とギャップが大きすぎたから、間をとって——おっと、これは個人情報だったな」
「僕はかまいません」
すまんすまん、とハルトのグラスにワインを注いで、タバちゃんはハルトを見た。
「それで、今は少し、なにか思い出したりしてるのかい」
「夢を、見ます」
ハルトは、この世界に来て初めてのワインをゆっくりと口に含んだ。軽やかな味は雑味が少ないが、そのぶん奥行きが浅いように感じられる。
「ここ一カ月くらい。ずっと太陽の夢を見て。それで、光が恋しくなって」
二人に、というより自分の内側の記憶を探るように、ハルトは語る。ハルトの話に集中するあまり、店内に響く酔客の声が、急に三人から遠ざかったように思えた。
「ナツミちゃん——農場の小学生のスケッチブックを借りて、太陽を描こうと思ったんですけど、思い出したのは青空でした。僕は、色見本のことを思い出しました」
「色見本」
「色の名前の、辞書みたいなものです」
青空の風景を描いている最中、脳裏に溢れてきたのは、色彩をあらわす
「古い言葉みたいに聞こえる」
ヨウコがつぶやく。
「そうだな。母音が多いんだろう」
タバちゃんもうなずいた。
「文字も、もっと複雑で多かった気がします。話し言葉も、ニッポン語とよく似てはいるけど、たぶんどこか違う。思い出せそうで思い出せないのが、もどかしくて」
ハルトはグラスを置いてタバちゃんを見た。
「僕は、どこから来たんでしょうか。なぜ、ここに来たんでしょうか」
タバちゃんは、腕組みしてしばらく黙った。ウェイターロボットが、オーダーしていたアラビアータの大皿をテーブルに乗せ、かわりに空いた皿を下げていった。
「わからない」
タバちゃんは首を振った。
「わからないが、俺はハルトの見て来た世界を、もう少し知りたい。それは、もしかしたら」
タバちゃんは何かをいいかけてやめ、ヨウコが取り分けたアラビアータの小皿に、胸ポケットから取り出したタバスコを大量に振りかけた。
「ここで話すのは相応しくない」
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