六・重なりあう世界(一)

「気にかけていただいてありがとうございます。元気にしておりますし、大丈夫ですよ」

 ナツミは、隣の部屋でゲームをするふりをしながら、祖母と担任の話に聞き耳を立てていた。

「何もなければそれでいいのですが、ご家族にも気を配っていただいたほうがいいかと思いまして」

「わかりました。ご心配ありがとうございます」

「よけいなお世話だわ」

 担任を祖母の後ろから見送って、ナツミは口をとがらせた。

「なんでそんなこと言われなきゃいけないの」

「先生は心配してくださってるんだから、そんなこと言わないの」

 たしなめながら、アカリも苦笑した。

「ハルトがどんな人かわからないから、先生も気になったのかもしれないわ」

「勉強教えてるとか、言わなきゃよかった」

「そうね」

 くすりと笑って、アカリは夕飯の支度をしにキッチンへ行った。


「僕があんな絵を描いたせいで、ご迷惑をかけてしまったみたいで、申し訳ありません」

 農場では、ハルトがタカシに頭を下げていた。

「なに、あれが先生の仕事だから、気にしなくていいさ」

 この世界では、社会が子供の虐待にたいへん神経を使っている。

 むかし、まだクラウディが今ほど紫外線を防げなかったころ、人々は今以上に閉ざされた暮らしを強いられた。そして、密室となった家の中では、子供がストレスを抱えた大人の犠牲になる、虐待事件が頻発した。人口が激減した社会にあって、人類の希望ともいうべき子供たちが、家族の手で無残に殺されたり、一生身体や心に残る傷を負わされたりする事態を防ごうと、政府は子供の虐待に厳罰を科し、社会的見守りの手段として不規則な登校日を設け、子供たちの様子を観察している。学校に勤務しているのは児童心理の専門家で、子供の様子に変わったことがあれば、心理面談や家庭訪問を行うことになっていた。

 子供に対する社会的擁護が浸透している背景には、虐待への懸念だけでなく、病死率の高さもあった。実の両親が揃っていない15歳以下の子供の割合は、ニッポンの場合47%。親と別れる理由は、生別よりも死別が圧倒的に多く、両親がいない子供も14%を占めた。ナツミのように両親以外の家族と暮らす子供は、決して珍しくないのだ。

「先生が気を配ってくれているから、親がいなくても安心していられる」

 タカシはそう言って、野菜の棚を見上げた。

「ハルトは、雲のない安全な太陽が見える世界を知っているのか」

「わかりません」

 ハルトは首を振った。

「本当に知っているかどうかは。でも、知っているような、気は、します」

「オゾン層があったころは、太陽の陽ざしで植物を育てていたんだってな」

「そう、みたいですね」

 ハルトは、この世界の農業史を、ナツミから見せてもらった歴史の教科書で学んだ。

 オゾン層が破壊され、紫外線がむき出しの地上を襲うようになったのが、おそらくはAD2500年前後。それまで人類はずっと土に野菜を植え、動物を飼育して食糧を確保していた。だが、紫外線に焼かれて動物の多くが死滅し、植物の種類も激減してしまうと、人々は紫外線と飢えから逃れるために、屋内で植物を栽培し、かろうじて生き延びた家畜を飼育することを試みた。

 試行錯誤の末、水耕栽培を中心とした農業が今のスタイルで確立したのが、AD3000年ころ。同時期、地下や頑丈な建物の中で辛抱強く研究されてきた「クラウディ」システムが完成し、人類の文明は一気に再生した。紫外線から地上を保護するクラウディの安定運用が確認された翌年、推定AD3108年。人類は暦をNC-New Century―と改め、世界政府を樹立。技術界出身の政治家ラウル・オズマが、初代世界政府大統領となった。

 それから500年近く、人々は屋内農場で野菜を育て、専用のコロニーで家畜を殖やし、養殖場で海産物を育てる試みを続けてきた。クラウディの研究と改良を重ねることにより、日中の安全性も増している。最近では食肉や魚介類もかなり流通するようになってきたが、日常食としてはいまだに大豆などの穀類を原料とした植物性タンパク質や、混合タンパクをペーストにした「スパム」と称される疑似ミートが一般的だ。

「僕にもよくわからないんですけど」

 潅水を終えたばかりの野菜棚から、ひんやりとした水滴が落ちる。

「最初にこの農場に来たとき、僕は「屋内に畑があるんだ」と意外に思いました。畑は土の上にあると、思い込んでいたような気がします。でもそれは、僕の記憶なのか、何かで知った知識なのか、それもよくわかりません」

「健康な太陽の光を浴びた野菜は、さぞおいしいんだろうな」

 ハルトは顔を上げ、野菜棚を眺めるタカシを見た。老いた、そう、ハルトの感覚でいえば、80代のような横顔。この世界の平均寿命は65歳前後。100歳を超える長寿の者もいるが、病死が多いので、平均すると短くなる。タカシは、ちょうど平均寿命くらいだと聞いていた。紫外線の量が多いと細胞の劣化が早く、遺伝子異常も多くなる。健康な子供は人類の未来を支える希望そのものなのだ、と改めて思う。

「俺の、夢なんだ」

 ようやく本葉が伸びあがってきた、ちいさな小松菜の群れを撫でながら、タカシはゆっくりと語る。

「土に植えた野菜。土を耕してつくる畑。今はこうやって屋内の人工棚でしか育てられないが、土から恵みを得るっていうのは、なんというか人の、生き物の本能のような気がする」

 ハルトは、夜の街で飲んだワインを思い出した。軽やかな風味のワインも、人口太陽光のもとで作られたブドウで醸造される。自分の知っているワインは、もっと濃厚で、土の薫りに満ちていたように思う。

「俺は、何度か外の土に作物を植えてみた。育つことは育つんだが、どうも結実が難しい。葉物も雨で溶けるか、逆に厚く固くなって、苦味が強くて食べられなかった。受粉させても実らないのは、やっぱり植物も外で生きるのが難しいってことなんだろうな」

 植物はフラボノイドに守られているので、動物と比べると紫外線の影響をうけにくいが、多量のUV-Cが降り注げば、さしもの遺伝子も傷つくのかもしれない。そういえば、野生の植物はどれも似たような、鎧のような幹を持つ樹木やシダ類ばかりだ。紫外線に強い植物は限られているのだろう。

「一度でいいから、太陽を浴びた、土で育った野菜を食べてみたいもんだ」

 浅黒い、皺の刻まれたタカシの横顔を、ハルトは黙って見つめた。

 脳裏にふわりと、古い絵画が浮かんだ。タイトルはたしか、「落穂拾い」。農民画を多く残したミレーの、光に線がかき消されるような筆遣い。


 唐突に、秋の農場の香りがハルトの鼻腔によみがえり、ハルトの肌が粟立った。


 肌に心地よい秋風が運んでくる枯れ葉の乾いた香り。どこからともなく漂う、稲わらを焼くにおい。熟した柿が、地面に落ちて弾ける甘い香り。菊の花の香りは、清々しくもどこか寂しげで。そして、それを覆う、陽光と青空。


 そうだった。確かに大地はもっと、土の、微生物のにおいに満ちていた。

「そうです。僕は」

 乾いた土の香りが、記憶の奥から漂ってくる。

「僕は、その風景を、その時代を、たぶん知っています」

 そうだ。この世界は、僕の覚えている世界とはまったく違う。

「僕は」

 ハルトはうめいた。

「僕は、どこから来たんでしょうか。この世界に、紫外線の届かない大地があって、そこから来たんでしょうか」

 長い長い沈黙。やがて、タカシがゆっくりと首を横に振った。

「あり得ないな」

 しわだらけの日焼けした頬に苦笑が浮かぶ。

「過去から来たと言われたほうが、まだ納得する」

「まさか」

 ハルトは、思わず笑った。

「あるいは、未来から来たとかな。あと五百年もすれば、外で畑を作れるようになるのかもしれないが、いまはまだまだ学者先生の研究待ちだ。他人任せというのも情けないが、頭の出来が違うから仕方ない。なんにせよ」

 タカシは真顔に戻ってハルトを見た。

「ハルトのその感覚は、大事にしてほしいな。過去か未来かわからないが、太陽のもとで生きられる世界を知っている者がいるのは、なんというか、心強い。俺の思いも荒唐無稽じゃないんだと思えてくる」

 ひとは、どれほど太陽を切望し、同時に諦めてきたのか。タカシの表情に、ハルトはそのことを思った。青空を知っている自分は、その切望と諦念に対して、何をなすことができるのだろうか、と。


 この時期は、仕事を終えて外に出ると、とっくに日が落ちている。タカシと話しこんだあと、いつもの作業を終えて農場に鍵をかけ、アパートに向かって夜道を歩いていると、足元から冷えが立ちのぼって来た。そういえば、予報では今夜は雪になる。アパートは、ハルトの部屋をのぞいてどこも灯がともっていた。二階の一番奥、ヨウコの部屋の灯が目に入り、ハルトは、そこで見た星空の写真を思い返した。


 三人で出かけた翌日、ハルトはヨウコの部屋を訪れた。威嚇しながら足元にまとわりついてくる犬を踏まないようにキッチンを抜け、ヨウコの案内で引き戸を開けるとすぐ、壁に飾られた星空の写真が目に飛び込んできた。

「天の川だ」

 自然に、言葉が口から出た。

 漆黒の闇のなかに、夜の雲をまあるく切り取ったような星空。右下に天の川が見える。ゆるやかな起伏の延々と続く大地は、砂漠の光景を思わせた。

「ああそれ、綺麗でしょ」

 キッチンから湯気の立つカップを持って入って来たヨウコが笑った。

「あたしの大好きな写真家なんだ。いつもはタブレットで見るだけなんだけど、これはあんまりすごかったから、買っちゃった」

「これは、コラージュ?」

「違うと思う。ハレマが夜にあったんじゃないかな」

「すごい」

 圧倒的な闇と無数の星の迫力。写真の右下にちいさく印字されたクレジットは、共通語で「星祭~BAT~」と書かれていた。

「この人、ほかにも砂漠の風景をたくさん撮っていて、どれもすごく素敵なんだ。キャラバンの人だよ」

「キャラバン」

「コロニーに住まずに、太陽祭を探して大陸を放浪するひとたち」

「そんな生き方があるんだ」

 どうぞ、とローテーブルにお茶の入ったカップを置いて、ヨウコが座布団をすすめた。犬は、ヨウコが座ると即座に膝の上へ乗り、くるりと一回転して居心地を整えると、ふう、とため息をついた。

「みんな、紫外線を避けてコロニーに住んでいるのかと思ってた」

「ほとんどはそうだね」

 キャラバンは、紫外線に強い塗装の特殊な車であちこち移動したりするみたい、とヨウコが写真を見上げながら説明した。

「こういう生き方に憧れるけど、実際は無理だよねぇ。町を捨てる勇気もすごいなって思っちゃう」

「ほんとうだね」

 二人で、互いの仕事のことや、太陽と青空の話をする間も、ハルトはその写真から目を離せなかった。

「青空を知ってるひとが近くにいるって、すごくいい気持ち」

 お礼を言って部屋を辞するハルトを玄関で見送りながら、ヨウコは言った。

「また話を聞かせてね。あたしも描いてみよう。自分の青空」


 その夜、ハルトはふだんめったに手に取らないタブレットで、「写真 BAT」と検索してみた。大量の蝙蝠の画像に埋もれるようにして、砂漠の写真が候補にあがってきた。それなりに名の知られた写真家らしい。グループで撮影をしていると誰かの記事にあった。作品のほとんどは広大な砂漠の風景。どれも広々とした自由な空気に満ちていた。広い大地の風景は、コロニーの暮らしとは程遠い。このような作品に人気が集まるということは、それだけ人の憧れを描いているということなのだろう。


 ひゅう、とうなるような音を立てて北風が吹き抜け、我に返った。手探りで玄関の鍵を開けながら、ハルトは、ヨウコとタカシの言葉を反芻した。


——青空を知ってるひとが近くにいるって、すごくいい気持ち。

——太陽のもとで生きられる世界を知っている者がいるのは、心強い。


 こんな、おかしな、それもおぼろな記憶しか持たない自分に、できることなんてあるのだろうか。記憶といえば、年内にまた病院へ行かなくてはならない。記憶の専門家が来るとサカタ医師が言っていた。

 ハルトは、通院のことを思い出して憂鬱になる。処方された薬はどうしても飲む気になれず、ビタミン剤しか飲んでいないことも気まずかったし、だいたい、「記憶の専門家」とはどのような治療をするのか、不安もあった。とはいえ仮戸籍の身で病院へ予約日に行かなかったら、なにか面倒なことが起きるような気もする。

「行くしかないけど」

 つぶやきながら灯をともし、ヒーターのスイッチを入れる。窓の外からちいさく、犬の甘える声が聞こえてきた。

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